13 思考

「……ッ!」


 生温い感触に我に返った檜山は、即刻帆沼の腹部に拳を叩き込んだ。こうなっては甘い時間も味わえず、帆沼は咳き込みながら檜山を解放する。


「ははっ……痛い……」


 だが不気味にも、まだ彼は笑っていた。


「痛いのは好きなんですけどね。あなたが触れてくれた証拠でもありますから」

「救えないな……君は!」

「だけど一番気持ちいいのは治りかけの時かな。かさぶたとか、ああいうの剥がすのっていいですよね」


 愚にもつかない会話に、檜山は乗らなかった。眼鏡を奪われぼやけた視界では、帆沼の表情は判然としない。

 だかそれが余計に、檜山の衝動に拍車をかけた。


「うっ……!」


 帆沼の首を、くっきりと筋が浮いた手が掴む。爪は薄い皮膚にめり込み、もがく帆沼にもびくともしない。


 ――一つにする? 帆沼君と慎太郎君を、完璧に一つに?


 檜山の頭に血が上っていく。視界の隅が赤くなる。帆沼の首を掴む指に力を込めるごとに、こめかみの痛みは薄らいでいく。


 ――馬鹿な。許されるか。あの子に何かが混ざるなど、あってはならない。

 やめろ。あの子に触れるな。あの子に近づくな。あの子を侵すな。

 そんな凶行を為そうというなら、いっそ僕が――!


「……!」


 しかし、ここで突然檜山のスマートフォンが音を奏でた。軽快な着信音と一縷の望みが、刹那檜山の手の力を緩める。


「ぐっ……!」


 その隙を逃さず、帆沼は檜山を突き飛ばした。尻もちをついた檜山は、鳴り響く音の中、自分の手に残る感覚に呆然としていた。

 ――『いっそ僕が』?

 なんだ? 自分は今、何を考えた?


 何を、しようとした?


「……檜山サン」


 ゼェゼェと呼吸を整えながら、帆沼は指を差す。その先には、着信音の出どころである檜山が腰に提げたポーチ。


「出たら……どうですか」

「……」

「別に……俺は、逃げたりしませんよ」


 まだ、脳は痺れたようになっている。しかしぼやけた視界を眺めるうち、少しずつ檜山の頭に上っていた血は冷めてきた。


(……慎太郎君は、どこにいるんだろう)


 そうして最初に考えたのが、それだった。

 ――慎太郎が病院から帰ってきた時刻は、分からない。だが、恐らくあまり時間は経っていないだろう。彼は母が来たからといって、弟の詳しい容体が分かる前にその場を離れるような人間ではない。


「電話……鳴り終わりましたね」


 そして、帆沼を取り巻く状況。現世堂の近くに車らしい車は無かった。だったら、彼は徒歩もしくはタクシーでここまで移動してきたことになる。しかし、果たして慎太郎を連れてタクシーで行き来しようと考えるだろうか? であれば、徒歩圏内に監禁できる場所があると考えるのが妥当か。


「あれ、また鳴り出した」


 いや、それよりももっと現実的なのは……。


「しつこい電話だなぁ」


 ――まだ、近くにいる?


 血の味がする唇を袖で荒く拭い、その間に室内に視線を巡らせる。……どこだ。どこになら彼を隠せる。見逃している所は無いか。考えろ。考えろ。視界に足りない部分は記憶を漁れ。


 思い出せ。

 思いつけ。


「……」


 ――そうだ、外。入り口。その、すぐ横。

 そこに、見覚えのないポリバケツがあった。


 ――なるほど。慎太郎君は、そこか。


「……その新百鬼夢語……あの人から、奪ってきたものですか」

「え?」


 だが、帆沼の指摘により檜山の思考は途切れた。……本。そうだった。確か自分は、紫戸の本を持ってきていた。慎太郎の安否に必死になり過ぎて、警察に渡すのをすっかり忘れていたのだ。

 しかし、それよりまず気になるのは……。


「……君は、あれか。この本の名を、はっきり言えるんだな」

「はい」

「いいのか? それを認めるってことは、今回の事件と関わってるって言うようなもんだけど」

「ええ、まあ」


 あっさり頷いた帆沼に、檜山は一歩迫った。


「だったら、もう観念した方がいい。今紫戸さんの自宅には警察が向かってる。間も無く、VICTIMS及びその他の証拠も明らかになるだろう」

「向かってる警察ってのは、丹波莉子さんのことですか」

「息するように僕の周りの人を知ってるね……」

「おや、正解か。だったら、さっきの電話もその人だったんじゃないですか?」


 既に鳴らなくなったスマートフォンを指差されたが、檜山は帆沼を睨みつけたままだった。

 ……外のポリバケツの中に慎太郎がいるなら、今の彼に隙を見せてはならない。帆沼の思惑が分からない以上、下手な手は打てないからだ。


「ところでその本、檜山サンはどう鑑定したんです?」


 しかし帆沼は、知ってか知らずか平気な顔をしている。


「……言う必要あるかな?」

「気になるんで」

「……。少なくともあれは、鳥山石燕のものではないよ。よく読めば、作中に寛政六年との表記があった。彼の没したのは天明だから、時期的に矛盾する」

「あらら残念。じゃあ偽物ですか」

「いや、彼の弟子の一人が画を真似て描いたものである可能性がある。とにかくスタイルや妖怪の特徴など、鳥山石燕の影響を大いに受けていることは確実なんだ。詳細に調べる価値は大いにある本だよ」

「それなのに、こんなボロボロにしたと」

「本をこの姿にしたのは僕じゃない。紫戸さんだ。……貴重な文献のみならず、本を粗末に扱う。これについては、関わっただろう君にも僕は相当怒ってるからね」


 その一言に、初めて帆沼はたじろいだ。慎太郎でのことでは全く揺らがなかったのに、不思議なことだと檜山は首を傾げる。


「……そっか。そうですよね。檜山サンは、古書店の人ですもんね」


 帆沼は、ぼそぼそと言った。


「GPSを渡したのは確かに俺でしたが……そこまでは気が回りませんでした。本には細工をしないよう、彼には言っておくべきでした」

「GPS……そこまで君がやってたのか」

「慎太郎の周りの人間を探っていて、一番脆そうなのがあの人だったもんで。……でも、檜山サンに嫌な思いをさせたのはすいません」

「……」


 急にしおらしくなる帆沼だったが、檜山は油断しなかった。

 ……やはり、紫戸に入れ知恵したのは彼だったのだ。となると、今までの事件も恐らく本を渡すだけでは終わっていないと見て間違いない。

 しかし、慎太郎の周りを探るとはどういうことだ? 順当に推理すると、今回の事件は最初から彼を狙う為に仕組まれたように思えるが――。


「しまった!」


 閃いた檜山は勝手口を振り返った。ちょうど通りがかった車のヘッドライトが、裏通りを照らしている。

 ――単純過ぎた謎。かかってきた電話。余裕のある帆沼。外に置かれたポリバケツ。言い当てられた刑事の名。

 全てが、この瞬間檜山の頭の中で繋がったのである。

 だが遅過ぎた。勝手口を蹴り飛ばして開けた檜山が見たのは、ポリバケツを乗せ発進しようとする黒の軽バンだった。


「待て!!」


 待つわけなどない。車はあっという間に発進し、角を曲がって見えなくなった。


「クソッ……!」


 しかし、悔しがる暇は無い。彼に協力者がいたのなら、次にやることは決まっているからだ。


「帆沼君!」


 中にいるはずの彼に向かって声を荒げる。だが帆沼は、そんな彼に背を向け店のシャッターを開ける所であった。


「……防犯上の意味でも、鍵の位置は定期的に変えといた方がいいと思いますよ。まったく、俺がいた時と何も変わってないんだから」

「やめろ! 慎太郎君には指一本触れるな!」

「無茶言う。これから同一のモノになるってのに、それは不可能でしょう」


 ブレーキ音がする。先ほど裏にいた車が表に回ったのだ。咄嗟に檜山はその辺にあった炊飯器を掴み、ぶん投げた。


「は!? うわっ!」


 それなりの距離があったにも関わらず、炊飯器は帆沼の足を直撃し彼の動きを止める。しかし開いたシャッターの隙間から何者かの腕が伸び、帆沼を掴んで引っ張った。


「帆沼君! 行くな!!」

「……あーもう、なんで今になって一番嬉しい言葉をくれるかなぁ」

「帆沼君!!」

「本当に会いたいと思ってくれてるなら、そっちから会いに来てくださいよ。……それじゃ」


 カチャンと軽い音がし、シャッター向こうの光の中に帆沼の姿が消える。間髪入れず、エンジンの音がした。

 ……もう、間に合わない。檜山は、叫びながら力任せに壁を殴りつけた。

 拳から血が滴る。だけど痛みは感じない。怒りと、無力感と、間抜けな己への自己嫌悪。それらが、自身の脳を煮えたぎらせ痛覚を殺していた。


「……」


 それでも、多少は落ち着いた頃。檜山は歩き、最後に彼が置いていった自分の眼鏡を拾い上げた。……こんなものがあった所で、正しい世界が見えるとは限らないが。


 ――いや、そうでもないか。


 ちゃぶ台の上に置かれた一枚の紙切れに目を留め、側まで行き、拾い上げる。

 そこには真っ赤なペンで、こう書かれてあった。


 “bad Books are intellectual poison; they destroy the mind.”(悪書は知性への毒であり、精神をも破壊する。)

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