6 本を閉じる
……取り憑かれている? 鵜路さんが? ブラック・オルロフの本に?
疑問符ばかりが浮かぶオレだったけれど、檜山さんは構わずに黒い本を開いた。
「さて、まずはこの本のあらすじを紹介しましょう。表題は『VICTIMS』。英語で書かれた備忘録形式のサスペンスホラーです。犠牲者というタイトルの通り、本を手に入れた主人公は次から次へと殺人を犯していきます。……まるで、本に埋め込まれたブラック・オルロフの輝きに呪われたように」
「……」
「主人公の名は、語られません。代わりに巷でまことしやかに囁かれるのは、“BLOODY BARON”――血溜まり男爵の名。それは、犠牲者が皆心臓を抜かれて現場が血溜まりになっていたこと、そして“紳士的にも”心臓以外は傷一つつけられていなかったことに由来します」
檜山さんは、流れるように言葉を紡いでいく。
「では、何故心臓は持ち去られたのか。……その理由は一つです。犠牲者の心臓にペンを差し込み、血液をインクとして本に名前を書き込む為」
「……そうだ」
「だからこそ、血溜まり男爵は犠牲者の名前を知る必要がありました。……作中では、それを本に選ばれると表現していますね。ちなみにこの本の中でも、古本屋の店主が狙われています。小生や、おそらく殺された粟野さんと同じく、貴方の課したルールを破った者が」
「……」
「この本は、まるで殺人指南書です。一から十まで丁寧に、人を殺す方法が書かれている。しかし、それ以上に厄介なのが――」
檜山さんは、重たそうな本を片手で開きっぱなしにしている。そして三歩大股で鵜路さんに歩み寄ると、悠然と見下ろした。
「読んでいる者を、本の中に引きずり込む魔力。……あたかも、自身が主人公の血溜まり男爵であるかのように思い込んでしまう点にあるのです」
「……!」
「お心当たりは、ございますね?」
本を鵜路の胸に突きつけ、檜山さんは言い放った。鵜路さんは、小さく震えていた。
「鵜路様は、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』はご存知で?」
しかし容赦無く、檜山さんは彼を追い詰めていく。
「一人の青年ウェルテルが、シャルロッテという女性に叶わぬ恋をし、絶望して死を選んでしまう……。この物語はヨーロッパ中に大いなる影響を与え、ウェルテルを真似て服装を同じくする者、また自殺する者が相次いだそうです」
「……それがどうした」
「日本でも近い話はあります。近松門左衛門の『曽根崎心中』や『心中天網島』。恋する者二人が叶わぬ恋に身を焦がし、せめてあの世で一緒になろうと自死する所謂『心中もの』です。これも上演されるや否や、幕府が動かざるを得ないほどに情死が流行したとのことでしたが」
檜山さんは、薄く笑った。火傷に覆われた顔では、まるで悪魔のようだった。
「……本には、大なり小なり人の心をあっさり飲み込み“物語の主人公”にしてしまう魔力がある。同じ現象が、鵜路様、貴方にも起こったのです」
びくりと鵜路さんが体を震わせる。その顔は真っ白で、びっしりと汗が浮かんでいた。
「しかし、これはむしろ洗脳に近いと言えるでしょう」
オレはといえば、それこそ魔法にかけられたように檜山さんに見入っている。
「読む者を不安にさせる言葉選び。展開。刷り込むように繰り返される文言と、単なる殺人者をまるで神の遣いのごとく祭り上げる構造。……この本は、読む者を殺人鬼“血溜まり男爵”にする為に書かれたと言っても過言ではありません」
「……ッ! そ、それはこの本が本物で、数十年以上に渡って受け継がれてきたものだから……!」
「いいえ、鵜路様。それはありえないのです」
檜山さんは、大きな眼鏡を中指で押し戻した。
「この本が書かれたのは、少なくともここ五年以内。かつ、これを書いたのは日本人なのですから」
「え……?」
「まず、使われている紙。これは某製紙業社が五年前に開発したものでしてね。再生紙の一つなのですが、所々に黄ばみが見られるという点で安価に売られています」
「……!」
「そして、書いたのが日本人である理由は」
丁寧に頁をめくる。そして彼は、とある位置で手を止めた。
「こちらを読んでください。五十五頁です」
「……刑事が部下を叱責しているシーンだな。『Read the air!』――『空気を読め』と叫んでいるが」
「ええ、まさにそれが日本人が書いたであろう根拠です。……英語圏で、こんな日本独特の言い回しなど存在しませんよ。せいぜい、『行間を読め』――『Read between the lines』といった表現があるぐらいでしょうか」
「……な……」
「加えて」
更に頁が進められる。本は、巻末の犠牲者一覧を開いていた。
「警察に問い合わせてみた所、ここに載っている名前もまったくのデタラメでした。そして、全て同じ人間の血液で書かれたものと証明されています」
「そん、な」
「表紙に埋め込まれたこの黒い石も、ブラック・オルロフだなんてとんでもない。ただのガラス玉です」
「……あ」
「……真っ赤な嘘なのですよ。本も、宝石も。この本にかけられた呪いも、全てが」
その言葉に、鵜路さんは愕然とする。ワナワナと唇を震わせ、声すらも発せないようだった。
そんな彼を、檜山さんは悲しそうな目で見ている。しかし鵜路さんは、火傷の後遺症で歪むその顔を別のものに捉えたらしい。顔を上げると、掴みかからんばかりに激昂した。
「だから……だから何だ! 私が犯した殺人は本物なんだ! 粟野敬之を殺した時点で、私は血溜まり男爵たり得るのだ!」
「暴論ですよ。鵜路恒男(うろつねお)様は本に踊らされただけの、ただの殺人者でしかありません。」
「その名で呼ぶな! 私は、血溜まり男爵の名を継承した者で……!」
「……それほどまでに、あなたの読んだ夢の世界は心地良いものでしたか」
しかし檜山さんは、全く臆せず鵜路さんの顎を人差し指で持ち上げる。
「――リストラの憂き目にあい、再就職先も見つからないままお母様の介護に明け暮れる現実よりも」
「!?」
看破されて目を見開く鵜路さんに、静かな声で彼は続けた。
「ですが、ここは現世堂(うつしよどう)。常世(とこよ)のごとき世界は、貴方が本を閉じた時点で既に終わっているのです」
「……ばか、な」
「『現世は夢、夜の夢こそまこと』と宣ったのは、江戸川乱歩ですが。ならば、貴方は夢の中で更に夢に囚われてしまっているのでしょうか」
檜山さんはしゃがみこみ、鵜路さんの手を取った。そして、その手を開いた本に添えさせる。
「貴方のことを、少し調べさせていただきました。……お母様は、貴方の所業を既に知っておいでです。その上で、これ以上貴方が罪を重ねず、戻ってこられるのを待っておられます」
「……!」
「鵜路様、今貴方のいる場所は、夢の中でも殊更醜悪なものです。そして夢は、貴方の行動に何の責任も負ってくれはしない」
檜山さんの声は、いつしかとても優しいものになっていた。
「もう、本を閉じましょう。……貴方は、インクで記されただけの血溜まり男爵ではない。鵜路恒男という名の、生きた人間なのです」
「……」
「さぁ、どうか最後はご自身の手で。……この物語を、終わらせてください」
数秒、息もできないような重い沈黙が続いた。けれど、やがて音を立てて分厚い本が閉じられる。血走った目をした鵜路さんは、自らの手で閉じた本を凝視していた。
だが、突然くたりとその場に崩れ落ちる。その姿に、ずっと檜山さんの語りに呑まれていたオレはハッとした。
「檜山さん……!」
「うん」
黒い本を片手にぶら下げた彼は、オレを振り返ると疲れたように笑った。
「もう大丈夫。終わったよ」
その優しい声に、オレは安堵でまた泣き出してしまいそうになる。
慌てて寄ってきてくれた檜山さんの手を背中に感じながら、オレはどこか近づいてくるパトカーのサイレンの音を聞いていた。
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