5 抵抗

「……ッ!」


 心臓が止まりそうになった。何なら数秒止まったと思う。

 それでも、咄嗟にドアを閉めようとしたのだ。けれどその前に、隙間から革靴を差し込まれてしまった。


「……あなたに危害を加えるつもりはありません。無論、大人しくしていればの話ですが」


 手が滑り込んでくる。無理矢理ドアをこじ開けられそうになって、必死でドアノブを掴んで耐えた。……この人、小柄なのにどこにこんな力が。

 いや、今は助けを呼ばないと。大きな声で叫べば、誰か来てくれるはず――。


「させないよ」


 が、突然もう片方の手で口を塞がれた。驚いた拍子に手を離してしまい、ドアが完全に開いてしまう。

 その勢いで、オレは鵜路さんに押し倒された。ゴンと床に後頭部を打ち、痛みに呻く。


「……残念だな。君の名前を知っていたら、VICTIMSに収めてあげたのに」

「うっ……」

「血溜まり男爵は、名を知らぬ者を襲えない。名を知らないと、その血を操れないからだ」


 ……相変わらず、訳の分からないことをのたまうものである。けれど、コイツがオレを殺す気が無いということを知れたのはラッキーだった。

 空いた左手でポケットの中にあったスマートフォンを掴む。そして、それを鵜路さんの頸動脈目掛けて思い切り叩きつけた。


「ぐふっ」


 手が緩む。その隙に彼の体の下から抜け出したが、威力が甘かったのかすぐに足首を掴まれてしまった。

 転ばされ、後ろに引きずられる。それでも、オレは薄く開いたドアに向かって声を張り上げた。


「た、助けてください! 強盗です! 誰か……!」

「……そんな悲鳴で、誰が来るものか」


 背中を踏みつけられて、ぐぇっと声を漏らす。そのままのしかかられ、後ろから両手で首を握られた。


「かっ、は……」

「人は、凶悪な刺激に飢えている。好き好んで陰惨な物語を味わい、グロテスクな事件に耳を傾ける。……今頃君の悲鳴を聞いた者は、無残な殺され方をする君に関するインタビューの受け答えについて考えてるよ」

「……ッ……!」

「だが……げふっ、君の名は知らないから……ごふっ、これは、本には記せない個人的なさつじ……がぁっ! いい加減にしろ!」


 ぶん殴られたけど、オレは構わず引き続き抵抗して暴れまくった。……知るものか。親からは、殺されそうになった時ほど暴れまくれと言われて育てられてきたのである。むしろ殴られたことで一瞬手が外れて息ができた。良しとする。


「さっきから……何なんですか! なんかわけわかんないことばっか言って!」


 そしてやられっぱなしも嫌なので、息が続く間にオレも言いたいことを言ってやることにした。


「もしかしてですけど、それって全部本に書かれてる内容じゃないでしょうね!? 血溜まり男爵とか、あと心臓にペンぶっ刺して名前書くやつも!」

「……当然だ。私は、血溜まり男爵の名を持つ者である。故に、このブラック・オルロフの本の所有者である限り血を与え続けねばならない」

「それが! おかしいんじゃないですか! だってあなたの名前は鵜路さんですよね!? じゃあ血溜まり男爵とかじゃないじゃないですか!」

「……え? いや、だから」

「だからとかじゃないです! っていうか何なんですか、血溜まり男爵って! 普通異名とかって別の人がつけるものであって、自分で名乗るもんじゃないですよ! すげぇダサい!」

「……」


 ……なんだか、さっきから首を絞められていない。というか全然力がこもっていない。不思議に思って振り返ると、鵜路さんは真っ青な顔をして目を泳がせていた。


「……本? 本の、話? いや、私は血溜まり男爵で……ブラック・オルロフの……呪われた宝石に導かれ、今まで、数々の人を……殺してきた……?」

「……う、鵜路さん?」

「……あああ、ああああああ!?」


 次の瞬間、オレは再び鵜路さんに首を絞められていた。


「違う! 違う違う違う! 私は、血溜まり男爵だ! これまでも、多くの人を手にかけてきた……!」

「ぐっ……!」

「死ね! 死ね! あ、あれ? 死なせてはいけないのか? 名前を全て知らないと……あれ?」


 混乱しているようなのに、首を絞める力はどんどん強くなる。今度ばかりは、暴れても暴れても何故か小柄は男はびくともしなかった。

 目の前が暗くなっていく。代わりによく分からない光が視界をチカチカと瞬く。頭の中に行き場を失った血が溜まっていく。……まずい。ヤバい。怖い。

 ――檜山さん。

 薄れそうな意識の中、ここにいない人の名前を思い浮かべた、その時である。


「その子に……触るな!」


 鈍い音と共に、突然オレにかかる重みが無くなった。と同時に、脳に酸素が通うようになる。オレはげほげほと咳き込みながら、回転の鈍くなった頭をよろよろと持ち上げた。

 少し向こうには、腹部を押さえてのたうち回る鵜路さん。そんな彼とオレを遮るように立っていたのは――。


「檜山さん……!」

「遅くなってごめん。下がってて、慎太郎君」


 見慣れた白髪頭と飄々とした立ち姿に、思わずぶわっと涙が出そうになる。でもこんな時にそんな悠長はできないので、唇を引き結んで我慢した。

 檜山さんはそんなオレをチラッと見ると、大きなため息をついて軽く頭を振った。


「まったく……ちょっと身辺調査で手間取っていたら、このザマだ。ほとほと自分が嫌になるな」

「……貴様……一体どういう……!」

「何、単なる野暮用ですよ」


 檜山さんは、袖の長い和装の羽織で腕組みをしている。よく見れば、思い切り土足で家に上がり込んでいた。

 でも、これはいつものうっかりじゃないのだろう。オレは腹部を蹴飛ばされ、未だ立ち上がることすらできない鵜路さんに再び目をやった。


「……鵜路さん。あなたは、この本に取り憑かれています」


 そして現世堂店主は、客の前で真っ黒な本を取り出した。


「今から僕の話すことを、よく聞いてください。一言も、一音も聞き逃すことなく。全てを、その耳に飲み込ませるように」

「な、何を……」

「そうすれば」


 火傷顔にのった大きな眼鏡を、檜山さんは中指で押し上げた。


「――夢に落ちたあなたを、僕は必ずここ現世堂に帰して差し上げられるでしょう」

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