4 シャッターの向こうに

 本当に、あの気の小さそうな男の人が殺人犯なのか。オレは、顎に手を当てて特徴の少ない鵜路さんの顔を思い返していた。

 違う、まだそうと決まったわけじゃない。だって、そんなのあまりにも荒唐無稽で……。


「とにかく、一度警察に相談しよう」


 本をビニール袋に入れながら、檜山さんは立ち上がる。


「この名前が本当に血液を使って書かれたのなら、検査でそういう結果が出るはずだ。いずれにしても、一古書店が扱っていい本じゃない」

「じゃ、じゃあ、本は警察に持っていくんですか?」

「うん」


 迷いなく頷く檜山さんに、小心者のオレは少し躊躇っていた。一刻も早くヤバい本を手放したい気持ちは大いにあるのだけど、その一方で鵜路さんとの約束を次々に破ることに恐怖を覚えたのである。

 いや、人一人殺されている可能性があるのだ。そんなこと言っている場合じゃないんだけど。

 檜山さんは外套をはおると、本を入れた鞄を片手に僕を振り返った。


「それじゃあ行ってくる。慎太郎君は、家でお留守番しててね」

「え、でも」

「ちゃんと鍵はかけるんだよ。誰が尋ねてきても、今日は絶対開けちゃいけない」

「だ、だめです! オレも行きます」

「それこそダメだよ。慎太郎君に万が一があったらどうするんだ」

「違いますよ! オレが心配してるのは檜山さんの方です!」


 オレは、白髪頭の男の前に立ち塞がった。


「あなた、今まで何回家の鍵落としてると思ってるんですか! それだけじゃない、徒歩十分のコンビニに行くだけで三十分帰ってこないこともあるのに!」

「慎太郎君、これだけはぜひ覚えておいてほしい」

「なんですか!」

「僕は、本に関することだけなら完璧にこなせるんだ」

「じゃあ帰ってくる時は手ぶらになるからやっぱり危ないじゃないですか!」

「大丈夫大丈夫、行ってきます」

「ああああ待って! 檜山さん鍵! 鍵持ってます!?」

「忘れてた」

「ほらもう言ってるそばから!!」


 檜山さんの腰辺りに抱きついて引き止めようとするも、彼はお構いなしにズルズルオレを引きずって行く。見た目によらず力の強い人なのだ。もういい。オレ檜山さんのアクセサリーになる。

 けれど、適当な所で観念して腕を離した。この店は、決して広くない。成人男性二人が揉めていたら、すぐ本にまで被害が及ぶのである。


「お土産買ってくるからね」

「いらないので、早く帰ってきてください」


 そう言って檜山さんを見送る。手を振りながら「これはこれで奥さんっぽくていいな」と思ってしまったオレだって、結局呑気な性格をしているのだ。










 それからしっかりと戸締りをした後、オレはカウンターに座って漫画を読んでいた。

 先日、知り合いの作家さんからオススメされたものである。少し昔の作品らしいが、世界観が独特で「お前ならハマるはず」と太鼓判を押された。その予言通り、オレはもう時間を忘れて平積みの漫画を読み耽っていたのである。

 だから、トントンとシャッターをノックする音にも、つい返事をしてしまったのだ。


「はーい」


 檜山さんが帰ってきたのだと思って、慌てて立ち上がる。漫画の余韻にふわふわと蕩かされた頭を振り、入り口に駆け寄った。

 だが鍵を開けようとする直前、ふとオレは魔法が解けたように動きを止めた。


「……」


 ……この向こうにいるのが、檜山さんなら。

 何故、彼は何も言わないんだ?


「……どなた、ですか?」


 口から出てきた声は、震えていた。ガラスのドアには鍵をかけてあるし、シャッターも閉めている。自分の身は、保証されているはずなのに。

 いや、檜山さんだ。檜山さんに決まってる。いつもならこっちじゃなくて裏から入ってくるけど、たまたま今日は鍵を落としてしまったんだ。そうだ、そうに決まって……。


「……夜分遅くにすいません。鵜路です」


 しかし、オレの淡い期待はあっさりと打ち砕かれた。


「実はあの本について相談したいことがありましてですね。もし良かったら、ここを開けてもらえませんか」


 鵜路さんは、一度も詰まることなくそう言った。……まるで、ブラック・オルロフについて語っていた時のように。

 ぶるりと体が震えたが、とにかく今日は帰ってもらわねばならない。オレは意を決すると、できるだけ毅然と返した。


「すいませんが、本日は営業を終了しております。店主の檜山もおりませんし、また明日いらしてください」

「それは困ります。急を要する話ですので」

「ほ、本当にそう思うのでしたら、電話などで事前に約束を取ってください。とにかく、檜山はおりません。なので今日は対応ができません」

「……約束、ねぇ。私との約束は守ってくださらないのに、何故こちらが筋を通す必要があるのでしょうか」


 その言葉に、オレはハッと息を呑んだ。……なんで、なんでそのことをこの人が知ってるんだ。

 辺りを見回す。しかし怪しいものは何も無く、見慣れた本達がオレを見下ろすだけだった。


「ここを、開けてください」


 ガンガン、ガンガン、とシャッターを叩かれる。


「檜山正樹。あの男は、本を開いた。ならば私は、彼の心臓を引っ張り出してペンに刺し、その血をインクとして名を書き残さねばならない」

「な、なんで、そんなことを」

「それは私が、ブラッディ・バロン――血溜まり男爵の名を継ぐ者だからです」


 血溜まり男爵?

 中年男の口から飛び出してきた信じられない言葉に、オレはポカンと口を開けて固まってしまった。なんだよそれ。


「血溜まり男爵とは、ブラック・オルロフの妄執に取り憑かれた者の名。この呪われた宝石の持ち主になったからには、それに相応しいよう血を捧げ続けなければならないのです。――そう、あたかも物語のように劇的に。見る者の心を躍らせるような」


 ガンガン、ガンガン。陶酔的な鵜路さんの声が、シャッターを打ち鳴らす音の合間に零れ落ちていく。

 ……全然、言っている意味が分からない。この人は何者なんだ? 血溜まり男爵とは? なんで檜山さんを殺そうとしているのだ?

 とにかく、これは普通に通報案件である。混乱した頭を回してそう判断したオレは、ポケットに押し込んでいたスマートフォンを握りしめた。そして、息を潜めてそっと入り口から離れようとしたのである。

 けれど、その時ふいに音が止んだのだ。


「……?」


 シンと静まり返った空間に、オレも動けなくなる。目は、シャッターから離せない。……そういえば、檜山さんの帰りが遅いな。もうそろそろ、帰ってきてもおかしくないはずなのに。


「……」


 汗が噴き出す。嫌な予感が、胸の内をどす黒く支配する。――もしも、檜山さんがこのタイミングで帰ってきていたら? それを、この人に見つかったのだとしたら?

 檜山さんの心臓から血を絞り出して彼の名を本に書き込もうとしているこの男に、追われているのだとしたら?


「……ッ!」


 そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。表戸の鍵……を開けるのは流石に怖くて出来なかったので、急いで裏へと回る。普段、私用の時に使う小さな勝手口だ。

 サンダルをつっかけ、色褪せたシルバーのサムターンを回す。そうして、ドアを開けた時。


「やぁ」


 さっきまで聞いていた声に、顔を上げる。

 ――オレの前には、昼間見た小柄な男が立っていた。

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