3 VICTIMS

「さて」


 夕陽の差し込む時間になり、店じまいの準備を始める。カウンターにいる檜山さんはうぅんと背伸びをすると、例の黒い本を手に取った。


「店も終わったことだし、本の鑑定を始めてみようかな」

「では今から宝石屋さんに行くんですか?」

「いや、中を見てみる」

「ファッ!?」


 耳を疑う発言に顔を上げる。オレは閉めかけていたシャッターを投げ出すと、慌てて檜山さんに飛びついた。


「何してるんですか! 鵜路さんにダメって言われたじゃないですか!」

「でも古書店の店主としては、中身を確認しないで売るのは業務倫理に反するよ」

「約束を違えないようにって言われたのに!」

「承知した覚えは無いし、それを証明する書面を交わしてもない」


 そう言えばそうだったっけ。……いやいや、どう考えてもあの流れなら了承したと捉えられるだろう。

 そう思って檜山さんを睨んだら、思いの外近くに彼の火傷痕にまみれた顔があって驚いた。端正なその面立ちに、一瞬にして頭に熱が集まる。

 かっこいい。


「……店主は僕だよ」


 鼻の頭をツンと人差し指でつつかれる。それでもうオレは完全に毒気を抜かれてしまって、赤ら顔のままカウンターに沈んだ。


「だから、今この本の持ち主も僕だ。呪いを信じてるわけじゃないけど、怖いなら下がってなさい」

「うう……。でも、それだと檜山さんが呪われるかもじゃないですか……」

「あれ、慎太郎君は呪いを信じてるの?」


 驚いたように檜山さんは目をパチクリとさせる。馬鹿にしているのではなく、本当に意外に思っているだけのようだ。


「逆に檜山さんは信じてないんですか? だってブラック・オルロフですよ。今まで何人も呪い殺してきたっていう……」

「信じるには色々と不確定要素が多いと思わない? まずブラック・オルロフの呪いの真偽、次にブラック・オルロフのすり替え事件、トドメにここに嵌め込まれている黒い石がブラック・オルロフの欠片であるという証明だ」

「あ……」

「どれもこれも、真実と信じるには突拍子もない話なんだよ。全部作り話だって言われた方が、まだすんなり飲み込めるぐらいだね」

「じゃ、じゃあ檜山さんは鵜路さんの話は真っ赤な嘘だと?」

「……それは分からない」


 白い手袋をはめた檜山さんは、慎重に本を持ち直した。


「ただ、作り話でも真実でも、彼の目的が不明なことには変わりないんだ。何故、本の中身を見せたがらない? 何故、本を買った人間の名前を知りたがる? 何故、こんな面倒な条件をつけてまで本を売りたがるんだ?」

「それは……」

「でも本の中身を見れば、さっき僕が挙げたいずれかの謎が明らかになるかもしれないんだ。……それもあって、僕はこの本を読んでみたい」

「でも」

「なぁに」

「本当に呪われたら、どうしましょう」

「その時は悪魔祓いにでも頼むかなぁ」


 いとも簡単に言うものだ。オレは呑気な檜山さんに向かって頬を膨らませてみたが、彼はこちらを見ていないので特に効果は無かった。

 ……エクソシストなんて、日本にいるのだろうか。海外に行かないといけなくなったら、オレも連れて行ってくれるのかな。どれぐらいお金かかるんだろう。ホテルとかも一緒に泊まるんだろうか。もしかすると、ベッドとかも……。

 いや違う違う、そういう話じゃない。オレは明後日の方向に飛びかけた思考を引き戻すと、背筋を伸ばした。


「分かりました! オレも本の中身を見ます!」

「無理するなって」

「無理してません! それにほら、二人で見たら呪いが分散するかもじゃないですか!」

「呪いにそんな特性は無いと思うけど」

「オレも! 見ます!」

「んー、じゃあ後ろにおいで」


 基本的に拒否しない人なのである。オレは檜山さんの後ろに回ると、ふわふわとした白髪越しに恐る恐る本を覗き込んだ。

 檜山さんは、白い手袋をつけた手で本の表紙を撫でている。


「……宝石は、後からつけられたものじゃなさそうだね。ちゃんとこの宝石が装飾品として飾られる前提で作られてる」

「そう、ですか」

「うん」


 そして、表紙に手がかかる。厚みのある黒を、彼は至極丁寧な動きで開いた。

 最初の印象は、やたら汚れている本だなというもの。所々に散った茶色いシミは、その本の古さよりも不衛生さを示しているように思えた。

 けれど、檜山さんは気にせずその先をめくる。そこに書かれていた、タイトルは……。


「……VICTIMS?」

「英語だね。日本語で犠牲者という意味だ」

「え、えええ」


 何の犠牲者だというのだろう。その不気味なタイトルは、おどろおどろしい字体で印刷されていた。

 目次は無いらしい。けれど中身は、英語で書かれたものであるようだった。


「慎太郎君、読めそう?」

「ええと、時間をもらえれば」

「それじゃ、あとで貸してあげる。今はざっと僕に読ませてね」

「あ、はい」


 檜山さんは眼鏡を直すと、パラパラとすごい速さで本を読み始めた。……英語の速読である。


「すごいですね、檜山さん。英語なのにそんな速く読んで……」

「それほどでもないよ。翻訳された本とか、元の文がどうだったのかって知りたくならない?」

「んー……」


 そういうものだろうか。オレは翻訳版で満足しちゃうけど。

 けれど読み進めるに従って、檜山さんの眉間に皺が寄っていった。


「……これは」

「これは?」

「……僕は、あまり好きな文じゃない」


 あれ、珍しい。てっきり檜山さんなら、何でもニコニコ読むと思っていたのに。

 それでも、檜山さんはどんどん読み進んでいく。だけどふと、とあるページで手が止まった。


「……慎太郎君」

「はい」


 その声は、緊張にこわばっていた。


「最近、隣町で起きた殺人事件のことは知ってる?」

「あ、はい。古本屋のおじいさんが殺された件ですね? でもお金とかは取られてなくて、恨みによる犯行じゃないかって言われてて……」

「その件、犯人はまだ捕まってなかったよね」

「ええ」


 ……なんで、そんなことを聞くのだろう。オレは、低い檜山さんの声になんだか背中が薄ら寒くなっていた。


「……この本は、とある殺人鬼の所業を備忘録形式で綴ったものなんだ。誰を、どうやって殺したか。その時、自分がどう感じたか。肉の感触、血の匂い……それがとても生々しく、押し付けがましく書かれている」

「……」

「殺し方はバラバラだ。狙う対象も、同じく。……けれど、一点だけ共通点がある」


 檜山さんが、開いたページをオレに向かって見せる。それを目にした瞬間、オレは息を呑んだ。


「――殺した人の名を、その犠牲者の血を使って書くこと」


 そこには、ずらりと赤茶色の人名が並んでいた。


「隣町の古本屋の店主――粟野敬之さんは、この本の持ち主に殺された可能性が高い」


 最後の行には、檜山さんが口にした名が書かれてあった。

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