2 呪われた宝石

「購入した人の名前を……ですか?」


 檜山さんの確認に、お客さんははっきりと首を縦に振る。どうやら、内容に間違いは無いらしい。

 でも、プライバシーの問題だってある。お客さんの名前を他人に教えるだなんて、普通そんなことを受け入れるわけには……。


「ところで、その旨は購入される方に伝えてもよろしいのですか?」

「は、はい、構いません」


 けれど即刻断るかと思われた檜山さんは、何事も無かったかのように会話を続けていた。


「分かりました。……しかし、一つ目の条件である本の中身を見てはいけない、というのは難儀ですね。買い取るには鑑定し、適切な値をつける必要がありますから」

「あ、あの……表紙だけを見て値段をつけてもらったので、結構ですので」

「表紙だけを見て?」

「はい。ほ、ほら見てください」


 ここで初めて、お客さんは檜山さんに本を差し出した。……真っ黒な表紙は、分厚く豪華な装飾が施されている。よく見れば、精緻な模様の所々にきらりと光る黒い石が嵌め込まれていた。


「……店主さん。あなたは、ブラック・オルロフという宝石をご存知ですか」


 その内の一つを指差して問うお客さんに、檜山さんは小さく頷く。


「ええ、かつてロシアの王妃ナディア・ヴィギン-オルロフが所有していた、ブラックダイヤモンドのことですよね。とても美しい漆黒のダイヤで、見る者に畏怖の念を抱かせると」

「は、はい。しかし、これは曰く付きの宝石でもありまして。何せこの宝石を手にした者は、呪われたかのように次々と命を絶ってしまったのですから」

「……そのような噂もあるようですね。ですが、とある宝石ディーラーたっての願いでリカットされ、呪いはおさまったとも聞きましたが」

「そう伝えられております。……しかし、疑問は残りませんか? 単に百二百に切り刻まれたぐらいで、長く深く粘りつきこびりついた呪いは、失われるのかと」


 その言葉に、けれど動揺するでもなく檜山さんは大きな眼鏡を中指で押し上げる。小心に見えたお客さんは、いつしかやたらと流暢に話すようになっていた。


「――実際、消えなかったとしたら? ブラック・オルロフの呪いは、それほどまでに強固だったとしたら?」


 お客さんの声は、脅しているかのように低くなっている。


「ところが、ディーラーはなんとしてでもブラック・オルロフの名を得たい。そこで賢明な彼は一計を案じました」

「……」

「まず、その宝石を手放した。そしてよく似た別のブラックダイヤモンドを購入し、全く同じ形に加工したあと職人に渡したのです。……職人がリカットしたのは、ただ美しいだけのブラックダイヤモンド。こうして、ブラック・オルロフの呪いは表舞台から消え去ったのです」

「……なるほど」

「ブラック・オルロフは、その後も闇から闇を渡り歩き、持ち主の命を奪い続けました。そんなある時、一人の好事家の手により変わった加工が為されたのです」

「それが、この表紙に埋め込まれた宝石だと仰るのですか」

「その通り」


 お客さんの唇が、ぐにゃりと歪む。彼の視線は、本ではなく檜山さんの瞳を覗き込んでいた。


「この宝石は、呪われています。まるで魔性の女のように、見る者を魅了し食ってしまう。欲を持った人である限り、決してその呪いに抗うことはできないのです」

「……だから、多少妙な条件がついていようとも買う者が出てくると」

「はい」


 お客さんは、檜山さんの手に本を残して一歩下がる。


「もっとも、それなりに審美眼のある方でしたら、これが希少な宝石とすぐに分かるでしょうけどね。故に本でなく、宝石として求める方もいらっしゃるかもしれません」

「ふむ」

「で、どうされます?」


 ――どうも何も、そんなアヤシイ本なんて買いたくないに決まってるじゃないか。

 けれど、そんなオレの思いとは裏腹に、檜山さんは手袋をした手でくるくると本を回し観察していた。相当重量のありそうな本なのに、まるで文庫本のような軽さで扱っているのが不思議だった。


「……買い取りましょう」


 そして、檜山さんは言った。


「ですが、少々お時間をいただけますか? 何せ小生の専門は古書、宝石の鑑定は門外漢なのです。然るべき者に見てもらい、判断をしたいと思います」

「ええ、わかりました」

「ご理解いただき感謝します。では、また三日後にお越しください」


 お客さんは小さく何度も頭を下げた。ここでやっと、オレが最初に見た男の人に彼が戻った気がしたのである。

 檜山さんは、火傷の痕のせいで少し引き攣ったようになる微笑を浮かべて会釈をした。


「本日はお越しいただきありがとうございました。それでは最後に、お客様の名前と電話番号をお教えください」

「……ウロ、です。鵜飼の鵜に、路地の路。電話番号は……」


 特に何の躊躇いも無く、鵜路さんは個人情報を渡してくれる。けれど彼が店から出ようとする時、ふと一度だけ振り返った。


「――檜山正樹さん」


 その声に、ゾクリと肌が泡立つ。……彼がここに来てからというもの、一度も檜山さんは名乗らなかった。

 なのに何故、この男は彼をフルネームで呼んだのだ。


「……くれぐれも、約束をお忘れ無きよう」


 急な嫌悪感を抱いたオレは、檜山さんを遮るように鵜路さんとの間に割って入る。オレの目に映った鵜路さんは、言葉とは違いうっすらとした何らかの期待を透けさせていた。

 ――それはあたかも、檜山さんが約束を違えることを待ち望んでいるかのような。そんな薄ら寒い悪意を感じ取ったオレは、店を出て行く小さな鵜路さんの背中をじっと睨みつけていたのである。

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