現世堂の奇書鑑定

長埜 恵(ながのけい)

第1章 ブラック・オルロフの誘い

1 怪しげな訪問者

 大学から、自転車で十五分。飛ばせば十分。ビルの立ち並ぶ都会の街角に、その古本屋はあった。

 チープな薄茶色のテントには、『現世堂(うつしよどう)』と白文字で書かれている。店先には、陽を避けて丁寧に並べられた本。ひととき足を止め、中を覗けばいかにその空間が本で彩られているかが分かろうものだ。

 で、オレは今その本屋の前に立っている。息は上がり、胸は高鳴って。けれどこれは、決してこの店に珍しい本を期待したせいではなかった。


「ただいまー」


 薄暗い店内に向けて声を上げる。が、案の定返事はない。

 仕方ないので、本を避け避け中に入った。さながらここでは、人より本が居住権を得ているかのようだ。

 そうして、店内の奥まった場所。まるで本の主のように、その人はいた。

 まず目に入るのは、大きな眼鏡と後ろで一つに縛った癖っ毛の白髪。そして、顔の左半分をびっしりと覆う火傷の痕。それは首筋をつたって胸にまで及んでおり、その人を体現するアイデンティティの一つになっていた。


「檜山(ひやま)さん」


 本を捲る手が止まる。ゆっくりと顔を上げると、彼は眩しそうに眼鏡の奥の目を瞬かせた。

 その人はまだ若い。とはいっても、総白髪にしては、という意味でだが。オレより十だけ年上の彼は、オレを視界に収めるなり顔に柔らかな笑みを広げた。


「おかえり、慎太郎(しんたろう)君」


 低く優しい声に、また胸が鳴る。


「ちょうど、一区切り読み終えた所だったんだ」


 そう言うと、彼は本を机に置いた。









 彼の名は、檜山正樹(ひやままさき)。三十歳。古書店『現世堂』の店主であり、オレが間借りしている家の主である。


「今日は早くに大学が終わったんだねぇ」


 オレの入れたコーヒーを座敷で飲みながら、檜山さんはのんびりと言う。


「友達と遊んできてもよかったのに」

「いえ、レポートもありましたし」

「一応言っとくけど、僕の家に門限は無いよ」

「で、でも、夕食は一緒に食べたいですから」


 そう? と檜山さんは首を傾げる。その表情がどことなく嬉しそうに見えて、またきゅうと胸がしめつけられた。

 が、その甘い思いはすぐさま砕け散ることとなる。


「うわああああ! 檜山さん、コーヒー! コーヒー!」

「ああああー」


 オレの悲鳴も虚しく、ダバダバとコーヒーが檜山さんの服を汚していく。恐らく、恐らくだが、首を傾けたと同時にカップも傾けてしまったのだろう。連動したのだ。


「大丈夫ですか、檜山さん!?」

「嘘みたいに熱い」

「そりゃ熱湯だから熱いでしょうよ! ほら、早く服脱いで!」

「まずい、自分の体からめちゃくちゃコーヒーの匂いする。取れるかな、これ」

「すぐお風呂に行ってきてください!」


 半ば無理矢理服を引っ剥がし、火傷痕の目立つ背中を風呂場へと押し込む。

 ……これ、綺麗にするのに手間がかかるなぁ。オレは手にしたコーヒーまみれの服を見て、がくりと肩を落とした。


 ――子供の頃、一緒に遊んでくれたかっこいいお兄さん。そんな檜山さんに、オレは幼いながらずっと淡い恋心を抱いていた。

 けれどオレが小学生の時、彼は忽然と姿を消してしまったのである。

 子供なりにあちこち探した。悲しくて悲しくて、まともにご飯も食べられない日が続いた。だけど結局彼は見つからず、酷く落胆しながら毎日夕焼けの中を帰ったのを覚えている。

 それから、十年ほどが経って。大学生になったオレは、顔に酷い火傷痕のある男の人が古書店を開いているという情報を得たのだ。

 それを知るや否や、オレの積りに積もった恋慕ははち切れた。そして気づけば勢いのまま、彼の家に転がり込んでしまっていたのである。

 普通ならドン引きものだろう。だって小さい頃に面倒を見ていただけの子が、大人になっていきなり「大学に近いから」「お店の手伝いもするから」「母さんもオッケー出してくれたから」と家に押しかけてきたのだ。けれどそんなオレに、檜山さんは「じゃあ時々店の手伝いをしてくれるなら」とあっさりオーケーを出してくれたのである。もう無理。優しい。すごく好き。

 そしてオレは、念願叶って初恋の檜山さんと一つ屋根の下に暮らすことになったのだった。


 ……とはいえ、実際はご覧の通りだ。液体は零すわ物は落とすわ家電製品には全敗するわと、子供の頃は見抜けなかったド天然っぷりを日々披露してくれる檜山さんである。お陰で飽きる間も無く、彼にハラハラさせられる毎日を過ごしていた。幸せ。


「お風呂上がったよ、慎太郎君ー」

「檜山さん、それオレのパジャマです。そこに着替え置いてたでしょう」

「間違えた」


 ちなみに言っておくけど、もちろん片想いである。告白するつもりもあんまり無い。檜山さんだって、オレのことはよく懐いた弟ぐらいの認識だろうと分かっているからだ。

 だから、何となくこうして日々を送って、自分の気持ちがいつか消えていくのを見守ろうと。そんな殊勝なことを思っていたのだけど。

 ……日増しに強くなる想いに、なんだかそれも無理そうだなぁと諦めかけていた。


「……あれ? 誰か来たみたいですね」


 センチメンタルな気持ちはさておき、ふいに鳴った涼やかな鈴の音に顔を上げる。あれは店のドア上部に取り付けられた、入店を知らせるウインドベルの音だ。

 振り返ったが、まだ檜山さんは風呂場から出てきていない。ならば対応するかと、オレは急ぎ足でカウンターへと向かった。


「いらっしゃいませー」

「あ……どうも」


 外に通じる光の中に、小太りのおじさんが居心地悪そうに立っていた。年齢は、自分の父と同じくらいか少し年下ぐらいだろうか。

 彼はおどおどと周りを見回しながら、図鑑ほどの大きさの本を抱きしめていた。


「あの……ここは、どんな本でも買い取ってくれるんですか?」

「はい、古本屋ですから」

「で、では……この本をお願いしたくて。ああでも、売れればいいというわけじゃなく……その」


 ……なんとも歯切れの悪い人である。しかも、本を売りたいらしいというのに、未だ抱いた本を離さない。せめてタイトルだけでも知りたいと目を細めてみたものの、彼の太い腕に阻まれていてはよく分からなかった。


「ええと、それでは鑑定を希望されるということでよろしいですか?」

「はい。……ああいや、鑑定はまずい。いえ、うん。とにかく、この本を売るには私の話を……」

「――ええ。まずはぜひとも聞かせてください」


 ふいにオレの肩に手が置かれる。現れたのは、ゆるりとした袖の広い羽織を着た檜山さん。

 彼は軽く一礼すると、穏やかな口調で言った。


「ご安心くださいませ。当店では、古書の他に奇書の類なども取り扱っております。他言無用と念を押されるのは序の口、中には時が来るまで人に売るなと言われているものまで倉庫に眠っている始末でございます」

「は、はあ……」

「故にお客様がどのような本をお持ちになられたとしても、小生がそれを馬鹿にしたり蔑ろにするようなことは決してございません」


 店主の丁寧でゆっくりとした説明に、次第にお客さんの緊張も解けてきたらしい。おどおどと頷くと、彼は本を体から離した。

 ……檜山さんは、自称“本に全ての集中を使う”人である。さっきまでとは少し違う雰囲気を纏う彼に、オレはつい見惚れていた。


「……そ、それでは、聞いていただきたいのですが」

「はい」

「……実は、この本を買い取っていただくにあたって、二つほど条件がありまして」

「条件?」


 檜山さんの応答を確認したお客さんは、下から掬うような目つきで言う。


「そ、そう。条件です。私と交わす、約束ごと。これが二つばかりございます」

「……仰ってください」

「ええ、ええ、勿論。……その、まず一つ目は、決して本の中身を見ないことです。そしてもう一つは……」


 ごくりと、唾を飲む音がした。


「この本を買った人の名前を……後で、私に教えて欲しいのです」

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