二話 共同除霊ではないのだが


 織成優太は布団から起き上がり冷蔵庫から麦茶を取り出すとコップに注いだ。中身を一気に煽る。



 やはり、朝一の麦茶は最高だ。乾いた体に潤滑油がしみ込んでいくような心地がする。一呼吸おいてから顔を洗う。冷たい水を浴びると意識と肌が引き締まる。


 本日の仕事は午後からだ。そんな午前は毛布にくるまっていたい。しかし、ルーティーンを変えると一日が無駄になってしまう気がする。優太は大きく伸びをしてからドブの餌皿を取り出した。すると、足元から濁声。



「みゃあ」



 赤茶色模様のデブ猫――ドブ――が優太を見上げていた。自分本位でわがままな猫様である。優太の足に額を擦り付けてくる。



「みゃあ」

「まったく、いっつもご飯の時だけ甘えてくるんだから」

「みゃあ」



 キャットフードを注ぐとドブが俊敏な動きで跳躍して餌皿の前に。そして、朝食をがっつきはじめた。



「あぅ……みゃ……みぁぅ……!」



 喉を鳴らしながら美味そうに平らげていく。そんなドブを眺めるのは楽しい。ドブは猫又と呼ばれる半妖であり相棒兼家族のような存在だ。攻撃霊術を扱えない優太は霊能力者として価値が低いが、ドブに憑依することで超一級品の機動力と索敵能力を発揮する。そういう霊能力者としてはそれなりの価値があるのだがそれもドブが健康でいられる間だけである。



(ドブいつも本当にありがとう)



 わがままで、横暴で、食いしん坊で、憎たらしいが心の底から感謝している。かりにドブが除霊に加勢できなくなっても優太にとって大切な存在であることは変わらない。優太はドブのためなら相当な無茶をする覚悟がある。そんなドブは一生懸命にキャットフードをカリカリしている。可愛くて、見ていて飽きない。優太はおもむろにドブの頭に手を伸ばした。



「……ふしゃあッ‼」



 途端に、『ふざっけんなッ‼ 飯食ってんだぞ。触んなッ‼』とでも言いたげな猫目が返ってくる。怒っていた。明らかに、怒っている。



「あ、いや……うん。今のはごめん」

「…………」



 ドブはゴミを見るような目で優太を睨んだあと、朝飯を齧るのを再開した。ドブは気分屋で自分勝手に甘えるが、勝手に触ると嫌がる。それをわかっていながら触れようとした優太のマナー違反ということになるだろう。しかし、ドブが不機嫌な様子さえも可愛らしくて、優太の口元は綻んでしまう。



「今日は午後からだからゆっくりでいいよ」

「………」

「聞こえてる?」

「……みゃあ~ぅ」



 ドブは餌箱を空にしてから口の周りを美味しそうに舐めはじめた。食べかすまで丁寧に舐め終えると、ソファにジャンプして丸くなる。起きて、食べて、寝る。呆れないこともないが猫ならば許される。『かわいいは正義』とはよく言ったものである。その理屈に則ればドブはいつだって正義だ。



「眠たいの? 散歩でもどうかと思ったけど、止めとく?」

「みゃ⁉ みゃあ‼ みゃあ‼」



 ドブが速やかに立ち上がり優太に擦り寄った。普段は動きたがらないのに割と散歩が好きなところも謎である。気温を確かめるべく優太はスマホを手に取った。



「あれ、メッセージ来てる」

「みゃあ‼ みゃあ‼」



 麻衣からだった。



『今日ありがとう。迎えにいくから。またあとで。よろしく』

「みゃあ‼ みゃあ‼」



 完結な、麻衣らしい文面だった。



「ありがとうはこっちの台詞だよ」

「みゃあ‼ みゃあ‼」



 実は今回の仕事は麻衣に紹介してもらったものだ。麻衣の友人が心霊現象に悩まされているのだが、都合がつかず優太に取り次いだのだが麻衣の予定が急遽キャンセルとなった。ならば本人が請け負うべきと思われるが優太が対応することになった。しかし、麻衣は同伴したいらしく、二人で依頼人(麻衣の友人)に会うことになっている。



「みゃあ‼ みゃあ‼ みゃあ‼」

「わかった。ドブ、ちゃんと散歩には行くから、少し静かにしてて」

「みゃあ」



 ドブは『ったく。とろいんだよ』とでも言いたげなジト目で優太と見ると尻尾を立ててお尻を振り振りしながら玄関に向かった。今すぐ出かけるつもりなのだろうか。優太は着替えてもおらず食事もとっていないので出かけるまでは少し時間を要するのだがその辺りは考慮してもらえなそうだ。しばらくドブを放っておくことにしよう。



(麻衣ちゃんが除霊についてくる分には構わないけど、忙しいだろうから休んだ方がいいんじゃないのかな)



 実は少しだけ気がかりなことがある。最近、とある事情で除霊依頼が劇的に増えている。名家たる織成家にも除霊が殺到しているはず。栃木県那須塩原市げんちではちょっとした事件として報道もされたのだが、玉藻前を封印していたとされる殺生石が割れたのだ。それにより普段は山奥に潜む妖怪が人里に出没するようになった。



(偶然ならいいけど、恐ろしいのはそれが人為的でなおかつ明確な狙いがあった場合だ)



 殺生石は伝説の妖狐たる玉藻前の力を減衰させた。殺生石と玉藻前の魂は完全に同化しており石が割れたとて玉藻前が復活することはない。石の破壊と共に玉藻前の妖怪としての核(あるいは魂)も消滅したと予測される。



 しかし、強烈な妖気が周囲に蔓延したことで一部の妖怪に悪影響を及ぼしている。



(名家も調査に動いたらしいし、その件で一樹さんや茜さん、それに麻衣ちゃんも氷藤家に行ったんだっけ?)



 霊能業界には絶大な影響力を持つ名家が存在する。『おりなし』『ごりょういん』『ほうらい』『むら』の四大名家。


 それに次ぐのが六族――『うらかわ』『たまづか』『ひょうどう』『つき』『きょうらく』『かざまつり』――である。


 ちなみに『一樹』とは織成家次期当主の織成一樹のことであり、麻衣と茜の兄である。織成家の実力者が他の名家に赴くほどだ。事の重大さが伺える。同時に優太の出る幕ではない。



「…………どっちみち、僕にできるのは自分の全力を尽くすことだけ、か」



 霊能力者として自分のできる範囲には限りがある。だが、それはわかっていたことであり嘆いても仕方ない。そんな暇があるならできる範囲に本気を尽くすだけだ。改めて領分を弁えた優太だったが、突如背後から強襲。



「ふしゃあ‼」



 柔らかくも重たい衝撃に、その正体を悟る。ドブである。



「ごめん、ドブ。痛いッ! 爪立てないで」

「みゃあ‼ みゃあ‼ みゃあ‼」

「ごめんて。僕まだご飯食べてないの。食べ終わったら散歩に行こう。ね?」



 優太の進言は聞き入れられなかった。ドブは優太の衣服に噛みつきぶんぶんと頭を振り始めたのだ。相当気が立っているようだ。あるいはよほど散歩に行きたかったのか。自分勝手な猫だ、呆れないこともない。しかし、自らの意思(あるいは欲望?)に忠実なドブを見ていると、余計なことを考えるのが馬鹿らしくなってきて、案外救われる。



「わかったよ。じゃあ着替えてくるからそれまでは待って」

「みゃあ」



 ドブは満足げに一鳴きすると、またしても尻尾を立ててお尻をふりふりしながら玄関に向かった。朝食は帰宅してから食べるとしよう。



(仕方ない、か)



 優太は手早く着替えを済ませて冷凍庫に保存していた白米二百グラムをテーブルに置いてから、ドブの後を追いかけたのだった。

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