七話 回想――泥酔の理由――



 ああ、嫌だ。

 結婚したい。ただ、それだけなのに。



「なによ? この気持ち悪い女。あんた馬鹿なの? 堂々と浮気?」



 ここからいなくなりたい。



『気持ち悪い』『出来損ない』『醜い』『ぶさいく』。何度も言われ続けてきた。言われなくてもわかってるのに。自分が気持ち悪い出来損ないで醜いぶさいくであることは。


 だけど、わかってても慣れない。その度に心が渇いて苦しくなる。消えてなくなりたくなる。でも、ここに来れば結婚できて成仏もできるって聞いたのに。



「だから、言ってるだろう? 除霊の協力を頼まれたんだ。お歯黒べったりって妖怪らしいんだけど、プロポーズしたら成仏するらしいんだ。そうでもなければこんな気持ち悪い奴を相手するわけないだろ? お前以外の女に靡くわけないじゃん。子供もいるんだしさ。ほら、お腹の子にも良くないから休みなよ。ああ、でもごめんな。金も必要だし、割りのいいバイトだと思ったんだけどこんな時期に、たとえフリだとしてもプロポーズするなんて不謹慎だった」



 若い男性が優しく諭す。その正面に立つ女性は細身でとても綺麗だが、男性を睨みつけている。妊娠していてお腹が膨らんでいる。


 でも、よくわからない。弥勒みろく様は『お前みたいなブスに金を払ってまで成仏させてくれる優しい男が見つかった。失礼な態度をとるんじゃねぇぞ。求められない限りは何も喋るな』と言っていた。男性はお金を払っているはずなのに、『バイト』は逆にお金をもらうことのはず。


 男性は嘘をついていることになる。どうしてだろう?



 いえ、それよりも。結婚するフリ? 本当の結婚ではなくて演技?



 なんで? どうして?

 やっとだって、期待していたのに。



 胸が、痛い。男性には妻がいて、私との結婚は本気じゃない。


 どうしてなの? 私がブサイクだから?

 妖怪だからですか? 本当に、嫌になる。



 今すぐにここから逃げ出してしまいたい。



「当たり前でしょ? さっと追い出してよ。気持ち悪い」

「……ああ。わかってるよ」



 男性が女性に背中を向けて私を見た。その表情に背筋が寒くなる。怒りに任せて歯を食い縛り、私を睨んでいる。



『え、あ……あの』

「ほら、行くよ。協力できなくて悪いね」



 恐ろしい形相なのに優しい声。そのアンバランスさが不気味だった。

 そのまま外へ。そして、腹を殴られた。



『ひぐっ……‼』



 痛みとほぼ同時に尻餅をつく。男性が私を冷く見下ろして、踏みつける。



「糞がッ……‼ こっちもッ……‼ イライラしてんのにッ……‼」



 腹を、足を、胸を足蹴にされる。



「痛いッ‼ やめてくださいッ」



 私は両腕で顔を守った。



「性格ブスがッ……‼久しぶりにッ……‼ 発散できると思ったのによッ‼」



 男性はそれから腕越しに私の顔を蹴り付けてから、肩で呼吸を繰り返した。



「はあッ…………はぁ……まあ良い。お試しの割安だったからな」



 安い? どういう意味ですか?

 それに、どうしてこんな酷いことを?



「お前にもう用はない。どっか行けよ……いや、近くの公園にいろ。いいサンドバックになりそうだ」



 男性はそう言って部屋の中に引っ込んだ。



(え? ……サンドバッグ?)



 意味はわかる。わかるから、泣きそうになった。瞳がないので涙は出ない。でも、悲しくて、心が痛かった。幸せになりたい、ただそれだけのことなのに。


 だけど、一つだけわかった。あの男性とは幸せになれない。弥勒みろく様は言うことを聞けって言っていたけど、きっと男性のことをよく知らないんだ。

 立ちあがろうとしたら、身体中が軋むように痛かった。



『あぐッ……!!』



 それでも、この場所にいては駄目だ。



 行かないと。

 どこに?

 わからない。

 でも、どこかに。



 ああ、でも。弥勒様にもう一つ言われたことを思い出す。私の右手の人差し指にある銀色の指輪。『この指輪とお前をセットなら成仏に協力してくれるって話だ。失くすんじゃねぇぞ。身につけておくんだ』


 つまり、貴重品なのだ。ならば、せめてこの指輪は置いていこう。私は指輪を外してから逃げ出した。目的地もわからずひたすらに走った。


 そうして、どれくらいの時間が経ったのか。私は見たことのない景色の中にいた。真っ暗な路地で目の前の電灯がやけに明るい。



「はぁ…………はぁ…………ふぐぅ…………ひくっ………………うぅ…………」



 私はその場に座り込んだ。包帯とマスクは消した。煩しかった。私は両手で顔を覆いながら途方に暮れた。



 どうしたらいいのかわからなかった。

 考えたくも、なかった。

 だけど、逃げ切れた。それだけは嬉しい。その程度でほっとして泣くくらいに追い詰められていた。



「うっ…………っ……ひぐっ…………」



 でも、わからない。

 本当にどうしたらいいのか。




 おい――邪魔――




 遠くで誰かが叫んでいる気がする。




 さっさと――だッ‼




 叫び声が途切れない。 思ったよりも近い? でも、私には関係ない。




「おいッ‼いい加減にしろ」




 突然、肩を掴まれて振り向かされた。私は焦る。もしかして、さっきの男性が追いかけてきたのかもしれない。怯えながら上を向く。初めて見る顔がそこにあった。あの男性じゃない。


 詰め寄られた理由はわからない。でも、別人だったことに安堵感が込み上げてきて自然と笑みがこぼれた。



 男性は泥酔していた。そして、その理由わけを私――キヨ――はあとから知ることになる。


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