十一話 桃原心愛の闘い


 始業開始十五分前。



 心愛は廊下を行き交う生徒を見ながら唾を飲み込んだ。何度目になるかわからないシミュレーションを頭の中で再現する。


 そろそろさくらがやってくる。自分はさくらを屋上へ誘導しなければならない。その工程が作戦の肝だ。屋上では優太が待機している。


 さくらに傷ついてほしくない。一緒に笑い合いたい。そのためにも役目を果たすのだ。心臓の音が大きくなる。頭の中まで響いている。時刻は八時三十分。始業まで残り五分。



(……来たッ‼)



 幽鬼のような足取りで近づいてくる、生気を喪失した少女。心愛とは別のクラスに向かう篠崎さくらである。

 太陽のように眩しい笑顔は見る影もない。


 顔は土色で頬がやつれて、目の下には炭のような隈がある。そんなさくらに狐憑きはさらなる苦痛を与えようというのか。心愛は唇を噛み締めたが、冷静さを欠いていることに気づいて深く息を吐き出した。


 優太にも口を酸っぱくして言われた。『屋上に呼び出すことだけ考えればいい』と。



(落ち着いて……さくらちゃんのためにも落ち着いて。屋上に呼び出すの。余計なこと考えちゃだめ)



 呼吸と一緒に雑念を吐き出して、さくらへ歩み寄る。



「さくらちゃん。昨日のことで話があるの」



 焦点の定まらない瞳が心愛を捉えて、大きく揺れた。



「こ、こ……あ…………」



 さくらは怯えるように視線を彷徨わせた。そのまま前歯が震えてかちかちと不規則な音を発していた。追い詰めるメッセージを送ったことは心苦しかったが、放っておいては駄目だ。取り返しが付かなくなる。



「屋上に来て」

「……ッ…………ぇ…………う、ん」



 さくらはしばらく考え込んでからそう答えた。心愛はさくらの二m前方を歩いた。背中を見せるのは恐ろしかったが、警戒しすぎると怪しまれるかもしれない。



「…………」



 心愛は無言で黙々と歩いた。後ろから覚束ない足取りなりでさくらが付いてきている。



(このままもう少し。もう少しで……ッ‼)



 そんなことを考えながら階段を上がる。恐ろしくないと言えば嘘になる。階段で襲われれば無事では済まない。優太が対策を講じたらしいが詳細は聞いていない。


 階段を一歩ずつ上がるのも煩わしい。走って駆け上がりたいくらいだ。だが、短絡的に行動して除霊をご破算にしてしまい、さくらになにかあれば後悔は尽きない。


 階段の中腹に到達する。残り七段もあるのかと驚愕したが、果たして屋上に辿り着いてそのまま扉を開く。真っ先に目に入ったのは綺麗な青空。



「さくらちゃん」



 振り返るとさくらと目が合った。さくらはまっすぐに心愛を見つめて、ほどなくしてその両眼から涙を流した。



「心愛……よか……っ……無事で…………」



 なんと、そのまま崩れ落ちる。その反応に心愛は戸惑った。これまで何度も無視されて暴言も浴びた。だからこそ、感情の落差に面喰らう。しかし、泣き崩れるさくらの姿に本心が見えた気がした。



 ああ、そうなのだ。

 やはり、そうだったのだ‼



 さくらとの友情は間違いなく本物だった。それを実感して、心愛もまた涙を浮かべる。



「さくらちゃん…………」

「心愛……本当に、よかった……」



 まだ除霊は終わっていないのだが、心愛は救われたような気分に――



「おかげでちゃんと殺してやれるからなァ‼」



 さくらが、雄叫びを上げた。





 




「さくらちゃん。昨日のことで話があるの」

「こ、こ……あ…………」



 ああ、嫌だ。さくらは思った。心愛が話しかけてくれたことは嬉しい。だが、心愛からも身に覚えないことで攻められるのだ。いや、責められるのは構わない。自分が暴言を吐いたのは事実だ。


 心愛の精神的外傷トラウマを突くようなことを言った。『死ねば』と面と向かって何度も言った。恨まれて当然だ。でも、心愛にだけは嫌われたくないと願う身勝手な自分がいる。



「屋上に来て」

「……ッ…………ぇ…………う、ん」



 断りたかった。でも、断れなかった。



「…………」



 普段は施錠されているはずの鍵が開いていたのは少し不思議だったけれど、間もなく屋上に到達した。扉の向こうには青空があった。憎たらしいくらいの快晴だ。



「さくらちゃん」



 そう言って心愛が振り返る。どんな目を私を見るだろう。軽蔑の眼差しか、憎悪の籠った瞳か。でも、やっぱり心愛だった。私の想像を裏切った。優しい、友達を心の底から心配するような、目だった。


 その瞳を見た時、私の中でなにかが弾けた。



「心愛……よか……っ……無事で…………」



 涙が溢れた。不倫している父親のことも、それに気づかない母親のことも、黒い狐の悪夢のことも、なにもかも忘れた。


 ただ、心愛が無事で、ここにいて、私を見てくれている。それだけのことが心の底から嬉しかった。



「さくら、ちゃん…………」

「心愛……本当に、よかった……」



 良かった。本当に良かった。心愛が無事で。まだなにも解決していない。それでも、心愛が無事でよかった。本当によかった。



 ――そうだな。良かったぜ。なにせ――



 その時、頭の中でいつもの声が囁いた。

 ぞくっ、とした。



「おかげでちゃんと殺してやれるからなァ‼」



 自分が舌なめずりしていることに気づく。同時に私の体は勝手に動き出していた。

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