九話 二つ尾の黒い狐 


 時刻、午後十時半。

 驚いた。

 心愛からメッセージだ。



(……え? なに?)



 篠崎さくらわたしは目を見開いた。心愛とはここ最近まともに連絡を取ってない。取れるわけがない。心愛とは距離を空けなければいけないし、無視しなければいけない。


 そんな関わり方を選択したのは自分だから後悔はないけど、連絡が来るのは予想外だった。正直不安だったけど文章を表示した。



『どうして私を陸橋から突き落としたの? 死ぬとこだった』



 目を、疑った。



(……え? 心愛、なに……言ってるの?)



 陸橋から突き落とす? 心愛を? ありえない。むしろ、そうならないように――はっとして、スマホのデータを見た。



「……嘘ッ⁉ なによ‼ なによこれぇ⁉」



 悲鳴を上げた。あってはならない写真がそこにあった。



「うえッ……げぇっ…………‼︎」



 胃の中身が込み上げてきてゴミ箱を手に取る。フォルダに保存されている写真。写ってるのは私が右手で心愛の首を絞めてる光景だった。場所は通学路の途中にある陸橋。だけど、こんなの撮影してない。



 ――お前が首を絞めて、陸橋から突き落とそうとしたんだろ?――



 獣染みた声が楽しそうに頭の中で笑う。



「違うっ‼ 知らない知らないっ‼」



 恐くなって耳を塞いだ。でも、その声は頭の中から響いてくる。



 ――だったら、なんでそんな写真を持ってんだ?――



「そ、それは…………」



 そんなの知らない。記憶もない。なのに、どうしてスマホにこんな画像が入ってるの?


 覚えがない。あるはずがない。


 私はやってない。心愛の首を絞めて陸橋から突き落とすなんてやるはずない。神に誓って断言できる。だけど――



 



 ぐらりと目眩がした。身に覚えのない行動には心当たりがあった。



(……あの夢を、見てから)



 鮮明に覚えてる。化け物が出てきた。血走った眼球が異様に飛び出していて、口の端が耳元まで大きく裂けた狐の化け物。黒い毛皮をしていて尻尾が二つあった。その化け物に明子ばあちゃんに『会いたいか?』と質問された。私は深く考えもせず頷いた。


 化け物が禍々しく笑った。これは駄目だ、直感した。でも、悟った時には手遅れだった。翌日から頭の中で声が聞こえるようになっていた。



 ――お前は屑だ。死ね――



 半日おきに一度、三時間に一度、一時間に一度。日を追う毎に声の間隔が短くなって頭がおかしくなりそうだった。



 ――お前は屑だ。死ね――

 ――騙されるな。殺せ――

 ――体を寄越せ。屑が――

 ――お前は屑だ。死ね――

 ――騙されるな。殺せ――

 ――体を寄越せ。屑が――



 いつしか友達に『待ち合わせは?』とか『まじ最低』とか『電話出ろ』とか言いがかりをつけられるようになった。心当たりはなかったけど全ての証拠がスマホに残ってた。


 不在着信の数々。SNSで友達への誹謗中傷。でも、本当に覚えがなかった。それを説明しても理解してもらえなかった。


 頭の中から糾弾されて、友達からも悪く言われてどんどん追い詰められていった。自分でも狂ってるかもと思い始めた頃、びりびりに破かれた教科書が部屋に散乱していた。飼っていたハムスタールパンが英語辞典で潰されていた。『桃原心愛を殺す』と赤マジックで書かれた落書きが部屋を埋め尽くしていた。


 心が軋んで、ぼろぼろになっていくのがわかった。



 もう、駄目だ。私はまともじゃない。

 そう思った。



 私がそんな状態なのにお父さんは馬鹿みたいに不倫してて、お母さんは気づかない。

 お父さんのシャツから女物の香水の匂いがするし、スマホの通知画面には不倫相手からのメッセージが表示されてる。

 なのに、なんでわからないの? 



 しかも、相手は職場の人間。その女性ヒトのアカウントを見たら肉体関係があることも筒抜けだった。



(お母さんが悪いわけじゃない)



 お母さんは人が良くて一生懸命なだけ。でも、察してよ。私でもわかったんだから。だけど、家族を壊したくないからって不倫を知りながら黙ってる私も最低だ。お父さんに協力してるようなものだ。



 お父さんの不倫のことは明子ばあちゃんには誰にも言わない約束で相談してた。でも、他界して、相談できる相手がいなくなった。誰かに打ち明けたかった。でも、そこに心愛を巻き込みたくなかった。



 本人には内緒にしてたけど私は心愛が好きだった。最初は友達として。でも、私の『好き』は形を変えた。冗談に付き合ってくれるところとか、共感してくれるところとか、明子ばあちゃんとの関係を色眼鏡で見ないところとか、そういうところが会う度に『好き』だなって思った。



 これまで恋愛にあまり興味はなかったけど好きな男子はいた。でも、女子を好きになったのは心愛が初めてだった。



 辛くても心愛のことを考えると心を持ち直せた。だからこそ徹底的に突き放したかった。そうしないと取り返しのつかないことをしてしまう気がしたから。だから、自分でも吐き気がするほど、全力で徹底的に傷つけた。



(心愛には酷いことをしたと思う。でも、しょうがなかった。だって、そうしないと)



 黒い狐の化け物が心愛を殺すから。それを避けたかったのに、

 


 



「うええッ……ごほッ……げぇぇッ‼」



 吐き気が込み上げる。まともな食事をしてないのにおさまらない。冷や汗と鼻水も止まらない。苦しくて辛くて頭がおかしくなりそうだ。いや、もうおかしいんだと思う。


 躊躇いながらスマホのギャラリーを見た。



(私の手が…………心愛の首を絞めてる)



 掌からスマホが滑り落ちた。拾う気にはなれなかった。この写真は如実に示してる。私が心愛の首を絞めたこと。つまり、私が殺そうとしたこと。


 心愛は無事だったらしい。でも、またいつ同じ目に遭うかわからない。

 誰が心愛をそんな危ない目に?


 ――お前だろうが。自分のものにできないから憎くて殺したくなったんだろ?――



 その言葉に、背筋が寒くなった。



「違うっ‼ 違う違う違う違うッ‼」



 心愛を殺したいなんて思ったことない。でも、このままじゃ殺すかも。そんなの嫌すぎる。想像したら恐くなる。



 もう、やだ…………なにも、考えたく……ない。



 学校も休んで一人でじっとしていたい。だけど、普段通りに学校に通わないと駄目。そうしないとお父さんとお母さんを殺すって黒い狐に脅されてるから。

 

 こういう状況をなんて言うんだっけ?


 

 ああ、そうだ。って言うんだ。私は半ば諦めながら、自暴自棄になりながら、内心で呟いた。




 誰か、助けて――




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