六話 よくないモノ
「このたびはありがとうございました」
餓鬼憑きが成仏してからしばらくして、藤崎と友恵が深々と頭を下げた。
「いえいえ。僕のほうこそ無理なお願いをして申し訳ありませんでした。ありがとうございました」
「なにかお礼をさせてもらえませんか?」
「いえ。滅相もない。依頼料も頂いていますので」
除霊料は大体の相場が決まっており、優太もそれに即して請求している。仕事ぶりを評価されるのは光栄だが、あとから追加報酬をもらうというのは互いにとって良くない。
「お気持ちだけ頂戴します。ありがとうございます」
「ですが……」
明美が予想以上に食い下がることに優太は困惑した。むしろ、礼を言いたいのは優太のほうだ。除霊に協力してもらったことで餓鬼憑きの未練を少しでも軽減できたのだから。
「では、こうします。私の知り合いに織成さんのことを紹介してもよろしいですか?」
「それは願ってもないことですが…………」
明美のように優太のことをやけに買ってくれる依頼人がたまにいる。本当にありがたいことだ。
「私も友達に紹介します」
賛同したのは友恵だった。
「ありがとう。今さらだけど、とっても優しくていいお母さんだね?」
「はいッ‼ 自慢のお母さんです」
「なに言ってるのよ。恥ずかしいわね」
友恵が嬉しそうに微笑み、明美が照れくさそうに笑う。
ああ、本当に仲の良い親子だ。
自分は両親とこんなふうに笑い合ったことはない。家族に対する暗い記憶が蘇りそうになり優太は記憶の扉を押し止めた。
「では、僕はこれにて失礼致します。ドブ、帰るよ」
今の今まで忘れていたが、ソファでドブが足をおっぴろげて腹を出しながら眠っていた。思わず笑ってしまいそうな格好だ。しかも、ぴくぴくと鼻をひくつかせている。その無防備などてっ腹を弄り回す。
「ほら、起きて」
「…………みゃあ」
気怠そうな声が返ってきた。辺りをきょろきょろと見回して、何度か瞬きを繰り返すと優太を見上げた。
「みゃあ」
「どうしたの?」
「みゃあ」
心なしか不機嫌そうな声だ。
「みゃあ」
「…………?」
ドブは眠たそうに大きな欠伸をしてみせた。かと思いきや、突如優太の左手に飛び掛かり、親の仇でも見つけたような形相で、ガジガジとその掌を噛み始めた。
「痛ぁッ‼ 止めろって‼」
慌てて左手を振り回すが、ものともしない。ドブは両手足で器用にバランスを取りながら優太の手を決して離さない。必死な形相。なにがドブを突き動かしているというのか…………いや、知っている。たまに寝起きのドブはこうやって優太に襲い掛かることがあるのだ。
「こらッ‼ 止めろッ‼」
わりと本気で腕を振り回っしてようやくドブを引き剥がすことに成功した。そのまま睨みつけたのだが、ドブは『お前なにムキになってんの? 馬鹿じゃない?』みたいな白けた顔で優太を見上げていた。
(こいつッ……‼)
正確な理由はわからないが、似たようなことが何度かあり優太はこう推測した。恐らくだが夢の中で美味い物を食べていたのだろう。鼻がぴくぴくしていたのはそのせいなのでは?
夢から覚めれば食事が終わるわけだがそれが優太の仕業だと思っているのではないか。だとしたら、どれだけ食い意地が張っているんだか。今日など起きて食って寝て文句を垂れて寝ていただけだろうに。呆れて物も言えないとはまさにドブのことだ。
「機嫌が悪そうですね。時間が掛かってしまったからでしょうか?」
「可愛いですね。右手の数珠はアクセサリーですか?」
明美が少し気まずそうに、友恵が興味深そうにドブの右前足を見る。
「すいません。寝起きに暴れる時があるんです。あと、前足の数珠はアクセサリーではありません。お騒がせしました」
締まらないな、と思いつつドブを抱き上げようとすると、お尻を向けて勝手に玄関に歩いていった。さすがはドブ。人の手に噛みついておいて、自由すぎる。そういうところを嫌いになれない自分が、少し悔しい。
「それでは失礼します」
優太は藤崎親子に一礼して、ドブを追いかけた。
それから、ドブを自転車カゴに乗せた優太は電動自転車のペダルを踏んだ。向かう先は自宅だ。
「……みゃあ」
ドブが不機嫌そうに一鳴きして、カゴから睨みつけてくる。身体はでかいくせに器量が小さい。いや、猫に器量を求めるほうが間違っているのかもしれないが。
「そろそろ機嫌なおしなよ」
「……みゃあ」
優太は軽く溜息を吐いた。ドブの機嫌を取り戻す方法は少ないが実は単純だ。しかし、経済的な理由であまり使いたくない。
「チュールでも買って帰――」
「みゃあ‼」
ドブが嘘みたいに張りのある声で食い気味に鳴いた。その瞳は夢見る少年のように輝いている。
(現金なやつ。ていうか、やっぱり日本語わかってるよね? ……まあ、いいか。僕が
ドブの力を借りることなく完遂できる依頼なら問題ない。しかし、攻撃力や機動力が必要となれば憑依を使って身体を借りなければならない。今回はドブの力を必要としない平和的な依頼だったわけだが。
「昼ご飯なににしようかな。納豆と卵とキムチがあったっけ?」
「みゃあ‼」
チュール一食分なら食事のコストを押さえれば取り戻せる。それに、優太は納豆卵かけご飯が好物で、食べる量は多いが献立としてはそれだけでも平気なタイプだ。
「お腹も空いたし、急いで帰ろうか」
「みゃあ‼」
満足げなドブに、軽い笑みを浮かべながら自転車のペダルを踏みしめた――その瞬間だった。
「ふしゃあッ‼」
ドブが全身の毛を逆立てて立ち上がった。
「ドブ⁉」
その尋常ではない様子に、咄嗟に周囲を見回した。
(なにかが近くにいるのか⁉ )
妖気を察知する方法はいくつかある。
レーダーのように霊気を飛ばして掌握できれば楽なのだが、そんな都合の良い方法は存在しない。
霊能力者が妖気を察知するあたり活用するのは霊視力、霊聴力、霊嗅覚など五感を基盤にした機能である。つまり、五感の範囲外にある妖気を霊能力者は察知できない。だが、人間より嗅覚に優れるドブの霊嗅覚ならばはるか遠くの妖気も嗅ぎつけることができる。
「ふしゃあッ‼」
ドブが藤崎家とは正反対の方向を向いて威嚇している。
その視線の先によくないモノがいるのだ。対処できるかどうかはさておき、一般人が襲われている可能性を考慮すると指を咥えて待っているわけにはいかない。せめて事態の把握だけでもすべきだろう。
「ドブ、体借りるよ‼」
優太は憑依の術式を発動して肉体を借り受けると、ドブが見据えていた方角に向かって駆け出したのだった。
序章――空腹の餓鬼憑き――完
※あとがき
ここまで本作をお読みくださりありがとうございます。山中一博でございます。僕の中でここまでが序章という位置付けで描かせていただきました。実際には本話で内容が終了しておらず次章に続きます。
序章では世界観や雰囲気を感じてもらうことを意識しております。実質的に本編は次話から「一章――醜悪の狐憑き――」でお楽しみいただければと思います。
どうぞ、よろしくお願い致します。
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