無間より来たる




 グドは剣を拾い上げると、懐から茶色い巾着袋を取り出した。

 さきほど破けたものとは、別の袋である。

 中には土が入っていた。魔力の込められた土だ。

 刃の表面に、ふりかける。

 褐色の土が、一拍置いて、湯が沸くように蠢いた。

 エソトが覗き込むようにして、尋ねた。

「何してるの?」

「血を除いてるんだ。錆びの防止もしつつ、土の魔力を増やせるから、いつもこうしてるんだよ」

 生きとし生けるものには、魔力が宿る。肉、骨、臓器、体内にあるものには余さず宿る。血液もその一つだ。体内を循環する道中に、他の部位から魔力を掠め取り、ため込んでいくのである。

 獣の血でさえ、適切な手順を踏めば超自然的な効果を発揮する。魔獣の血、それもギニグワイバーンのような強力な種のものとなれば、尚のことだ。魔術行使の触媒に練り込めば、その性能が一足飛びで跳ね上がる程度には。

 泥が沸騰を止めた。血液を練り込み終わったのだ。スライムのようにずるりと動き、ふたたび巾着袋の中に戻る。繊維の隙間から、水気が染み出すようなことはない。乾いた土に戻ったのだ。

 一連の動きを見て、エソトは「ふーん、そうなんだ」と呟き、しかし首を傾げた。

「でもさ。だったら、もっと沢山の血を練り込んだら? そのほうが、強力になるんじゃないの?」

「俺だってそうしたいけど、まあ話はそう簡単じゃねえのさ。欲張ると、さっきの石みたいになるからよ」

 グドはエソトの首にかかった、二つの巾着袋を指さす。中にはワイバーン除けの魔石だった粉が入っている。ないよりはマシとはいえ、もう当初の効果を発揮することはないだろう。

(にしても)

 綺麗になった銀刃を鞘に納めながら、思う。

 さきほどの、魔力の奔流。

 この魔石を砕いた、あの濃密なエネルギーの束は、何だったのか。

 自然現象ではなく、人為的なものだった。それも、悪意や敵意に基づいたものだ。あそこで石を砕けば、二人がギニグワイバーンに襲われる。そこまで計算した上での、攻撃だったはずだ。

(きな臭ぇな、どうにも)

 グドは、怖い顔をした。

 そんな彼に、エソトは少しも物怖じすることなく、尋ねた。

「これからどうするの、おじさん」

「決まってんだろ。帰るんだよ」

「聖剣は?」

「抜くわけねえだろ、子供の前で」

 手をヒラヒラさせて返せば、エソトは少しだけ唇を尖らせた。まだ不服を腹にしまい込めない齢なのだろう。健康的でいいと、グドは微笑ましく思った。五歳の子どもは、やはりこうであるべきだ。

 そこまで考えて、ふと、疑問が鎌首をもたげた。

「しかしよ、エソトくん。お前、どうやってここまで来たんだ?」

 ギニグの町からフィルの丘までは、随分と離れている。道も平坦ではない。高低様々な丘が顔を出し、ふくらはぎをつついてくる。そうやって体に溜まる疲労は、ワイバーン除けの魔石を持っていようと、変わらないはずだ。

 そんな道を、どうやって五歳のエソトが踏破したのか。

「え? 普通に歩いてきたよ?」

 何でもないように、少年は言った。

 グドは目を丸くした。

「おいおい、惚れ惚れする健脚だな。どうだ、宗教やらねえか。回地者はいいぞ」

「うーん、考えとく」

 流れるようなスカウトを、エソトは華麗にかわした。この齢で聖職者のいなし方を心得ているらしい。大した少年である。

 しかし、とにかくそこまでの健脚であれば、帰り道もあまり時間はかからないだろう。

 先程の魔力の奔流のこともある。フィルの丘から離れ、ギニグワイバーンの生活圏から抜けた後も、平穏とは限らない。早々と帰れるに越したことはない。グドはエソトの強い足腰がありがたかった。

 とりあえず、ふたたびギニグワイバーンに襲われないうちに、ここから出てしまおう。グドが、エソトにそう促そうとした時だった。

 微かに、産毛がざわついた。

(何だ)

 咄嗟に周囲を確認する。

 エソトの顔、ギニグワイバーンの屍、黒い聖剣。

 大地に変化はない。

 続いて、青い空。 

 影が見えた。

 しかし、群青色ではない。

 緑色だ。

 騎竜用ワイバーンの色だった。

 騎竜用ワイバーンが、こちらに向かって二匹、飛んできていた。

 一匹に、誰かが乗っている。

 女性だ。

 金髪だ。

 グドは目を見開いた。

 そのワイバーンに乗っている人間に、見覚えがあった。

(ま、町役場のお姉さん!!)

 ギニグの役場でグドを追い返した鉄の女が、騎竜用ワイバーンを引き連れて迫っていたのだ。

 行政指導。しかる後に逮捕。回地者資格剥奪。萬屋が旨い飯を食う。

 最悪の未来が、矢継ぎ早に脳裏に閃いては消えていった。

「エソトくん。あの町役場のお姉さんの対応を頼む。俺はそこで死んだふりをしとくから」

「ギニグの町役場に熊は勤めてなかったと思うけど……」

 少年の言葉を無視し、グドは光の速さで地面に倒れた。顔面がめり込むほど俯けになった。土の匂いがした。

 そんな怪しいモヒカン頭に目もくれず、町役場のお姉さんは地面に降り立つと、足早にエソトに近寄った。

「エソト! あんた、何してんの!」

「あ、ドロア姉ちゃん」

 グドは顔だけ動かし、そちらを見た。ドロアと呼ばれた金髪のお姉さんが、少年の頭に拳骨を見舞っている最中だった。

 思わず、尋ねた。

「え、エソトくん、このお姉さんの知り合いなのか?」

 そこで、ようやくドロアの青い瞳が、グドを映した。

「あ、貴方はさっきの」

「どーも、聖職者です」

 立ち上がり、泥を払いながら、微笑みを浮かべる。強面も相まって、悪巧みをしているようにしか見えない。

 ドロアは役場での笑顔はどうしたのかと思うぐらい、目一杯に眉間に皺を寄せると、挑むように見上げた。

「全くもう! エソトもですけど、貴方も貴方です!」

 捲し立てる彼女の剣幕たるや、金色の烈火のようである。やっぱり死んだふりを続けていれば良かったと後悔する。

 グドはエソトに対し、視線でそれとなく助けを求めた。しかし、少年はドロアの視界から逃れるように、ビクビクしながら蹲っていた。先ほどの拳骨はよほど痛かったようだ。

 怒声が響く。

「さっき言いましたよね! フィルの丘は泣く子も黙る禁足地なんですよ! ギニグワイバーンの恐ろしさが分からないんですか!? お上りさんかアンタは!?」

「ギニグの消滅可能性都市っぷりを鑑みるに、お上りというより都落ち……」

 うっかり口を滑らせたグドに、ドロアの拳がめり込んでいた。細腕に似合わぬ威力に、彼はもんどりうって倒れた。

「その消滅可能性都市のために、日々汗水たらしてる私たちの苦労を知っての言葉選びかオンドリャア!」

「ひえっ! ドロア姉ちゃんが切れた!」

「俺の唇も切れたァ! もう少しで靭帯もォ!」

 先ほど挫いた右足首が疼き出した。ギニグワイバーンを倒した後のほうが、ダメージを負っているような気がした。

 身を寄せ合って震えるグドとエソトを見下ろし、改めてドロアはため息をついた。

「というか、本当にびっくりですよ。ベルナさんから話は聞いてたから、エソトがいるのは予想してましたが、まさか回地者の方までいるなんて」

「え。そうなんですか」

 頬をさすりながら、グドは驚いた。てっきりドラブロウの身内である町役人を通し、グドがエソトを探しにいったことを聞き、文字通り飛んできたのだと思ったのだが。

 ドロアは目を丸くするモヒカン頭から、少しだけ視線を外した。その青い瞳が、地面に伏したギニグワイバーンを映す。

 彼女は少しばつの悪そうな顔をした。

「……本来なら、正式な書類もなしに禁足地に立ち入るのはご法度です。でも」

 彼女の視線が、ちらりとエソトに向く。少年はなぜ自分が見られたのか、理由が分からないようで、ポカンとしていた。

 しかし、グドには理解できた。

 少なくとも、こんな危険地帯に飛んでくる程度には、この少年が大切なのだろう。

 ドロアはごほんと咳払いして、青い視線を寄越してきた。

「……ギニグの町民を守っていただけたようなので、今回は目を瞑ります」

「目を瞑った上で的確に人体破壊しないでくださいよ。心眼開いてんのか」

 グドはもごもごと口の中で舌を動かした。鉄の味がした。先ほどの拳は、やはり重かったと思う。

 しかし、兎にも角にも、これで、法の裁きを受けることはなくなったようだ。明日からも職にあぶれなくて済む。グドはほっと一息つき、立ち上がった。

「……ちなみに、今回のエソトくん救出に免じて、諸々の書類提出を省かせてもらうというのは」

「駄目です。本来なら、私にそんな権限ありません。今回の件だって、貴方がここに入ったのが他の職員にばれたら、普通に罰則ですからね?」

「ええ……大丈夫でしょう、多分。ウィーベルン食堂のご主人も、この件なら身内が揉み消してくれるって言ってたし」

「ウィーベルン食堂のご主人……?」

「あ、知ってます? あの筋骨隆々髭達磨。ヤバいですよね、あの人。俺のゴーレム、魔力ごと握りつぶしましたからね」

 その瞬間を思い出し、グドが背筋を凍えさせていると、ドロアが気まずそうな目を向けてきた。

「……その人、私のお父さんです」

 沈黙。

 数秒後、グドはドラブロウの瞳が青かったことを思い出した。

 彼が言っていた身内というのは、ドロアのことだったのか。

 それにしても、と彼女を見る。

 年齢は、自分より下ぐらいか。

 肩まで伸びた金髪も、理知的な瞳も、白い肌も、美しいと感じる。

 背丈は、百六十センチ程度か。

 あの岩石が呼吸しているような大男から、こんな可憐な女性が生まれるとは。

「何ですか、じろじろ見て。張ったおしますよ」

 悲しいかな、気性はしっかり父親から受け継いでいるらしい。グドは慌てて、背後にいる二匹のワイバーンに視線を移した。

 背丈が二メートルほどのワイバーンだ。翼だけは、ギニグワイバーンと同程度に見える。騎竜用に改良された造形だった。

 話題を変えるために、尋ねてみた。

「にしても……ドロアさんですっけ? すごいですね、あんた。フィルの丘までワイバーンで来るなんて」

 ギニグワイバーンと騎竜用ワイバーンは、食うか食われるかの関係にある。無論、後者が餌だ。餌に乗ってフィルの丘に来ることなど、常人ではまずやらない。誰しも、明日の朝日が見たいからだ。

 案の定、ドロアは件の魔石を付けていなかった。ワイバーン除けのアイテムを携帯し、ワイバーンに乗ることなど出来るはずもないから、当たり前なのだが。

 彼女は近くにいたワイバーンの、その緑色の頭を撫でながら、言った。

「どの地点を通れば、どのようにギニグワイバーンの生息ルートを避けながら、最短で目的地にたどり着けるかぐらい知ってます。公務員舐めんな」

 ぐるる、と飛竜が気持ちよさげに喉を鳴らす。屍とは言え、天敵であるギニグワイバーンが近くにいるのに、このリラックスぶりはただごとではない。グドは内心、ドロアの手管に舌を巻いた。ギニグの町役場の人間というのは、皆このようにワイバーンを手懐けられるのか。

 そんな彼の横で、エソトは目を輝かせていた。

「公務員凄い……僕、勇者じゃなくて公務員になる……」

「あれ、エソトくん? 君、回地者は?」

「ならない……決して……」

「ぎょ、行政が宗教家の芽を摘みやがった……」

 呆然と立ち尽くすグドの声に、反応する者はいなかった。

 ドロアは視線を、ふたたびギニグワイバーンに移した。血が流れ尽くし、無音に包まれた屍は、美しい群青色も相まって、宝石彫刻のようだ。

「このギニグワイバーンは、貴方が一人で?」

「え? ……まあ、はい」

 グドが頷くと、ドロアは肩眉を上げた。

「腕っ節に自信があるというのは、嘘じゃなかったようですね」

「この稼業をやってて、長いんで」

「へえ」

 彼女はゆっくりとギニグワイバーンの屍に近づくと、屈んだ。

 白い掌で、群青の鱗を撫でる。

 背中が、小さく感じた。

 その小さな背中に、グドは問いかけた。

「……ドロアさん、袋とかって持ってます?」

「……どうして、そんなことを聞くんです?」

 振り返らずに、彼女は言った。

「このギニグワイバーンの肉を、持って帰ろうと思って」

 グドは答えた。

「ここで、一片残らずフィルの丘に還してやるのも良いですけど。……まあ、こいつを殺したのは俺なんで。少しぐらい、こいつを糧にしようと思って」

「……ティオラ教の人間は、天に属するものを食さないと聞きますが」

「そんなの、現代じゃあ少数派ですよ」

 ドロアは首を少しだけ動かし、目の端で捉えるように、こちらを見た。

 長い睫毛が、陽光に濡れる。

「ギニグワイバーンは天の、悪魔の尖兵なのでしょう?」

「仮にそうだとして、血肉に貴賤はないでしょうよ」

 少しの沈黙。

 彼女はゆっくりと立ち合がり、二頭のワイバーンに歩み寄ると、その背中から栗色の大きな袋を取り出した。

 植物のツタで編まれているらしく、何本もの管が複雑に絡み合い、凸凹としている。

「レザーグラス製の袋です。これで包めば、屍に残留した魔力程度であれば、漏れません。香りが強いので、血の匂いも消してくれます」

 グドは騎竜用ワイバーンを見た。いくら天敵とはいえ、同じ飛竜の血生臭さを嗅がせるのは酷だ。ドロアはそう考えたのだろう。

(ワイバーンはギニグの魂だ、か)

 ウィーベルン食堂でのドラブロウの言葉が蘇る。

 やはり、この女性は彼の娘なのだ。そんなことを、思う。

「……じゃあ、早く切り分けてください。流石に、これだけの大きさのギニグワイバーンを、全部持ち帰る訳にはいきませんから」

「あいあい」

 グドは鞘から銀の刃を抜きながら、飛竜の捌き方を思い出す。鱗の固さに魔力量など、ギニグワイバーンは勝手が違うかもしれないが、それでもアドリブである程度は何とかなるはずだ。

 ひとまずは、ブレスで鍛えられた喉肉を切り取ろう。グドは、頭のない屍に近づいた。

 否、近づこうとした。


 ぐわりと、産毛が逆立った。


「どうしました?」

 ドロアが問うてきた。その表情に、怪訝な色が混じる。

 しかし、グドは答えられなかった。

 汗腺が開き、だくだくと水分が逃げだしていく。

 魔力。それも、とても強大なものが、近くにうずくまっている。

 彼は少し前の、産毛の微かなざわめきを思い出した。

 あれは、空からやってくる二頭のワイバーンの魔力に反応したのだと思っていた。

 ここにきて、それが誤りだったと理解した。

 あれは、予兆だ。遠くにある濃密な魔力、その機微を、僅かながらに感じ取っていたのだ。

 その魔力が、今ははっきりと感じられる。

 確かに、近付いてきている。

「解体してる暇はねえな、これは」

「え? 貴方、何を言って」

「ここから離れるぞ。間に合わなくなる」

 グドは近くで目をぱちくりしているエソトを、小脇に抱えた。ドロアはまだ何が起こっているのか分からない様子だった。彼女は首を傾げながら、それでも、出発のためワイバーンのほうを向いた。

 その時だった。

 大人しくしていたワイバーンが、騒ぎ始めたのは。

 四方八方に翼をばたつかせ、周囲に威嚇の声を吐く。

「何か、来る?」

 エソトが、不安そうな声を出した。

 その『何か』は、見えない。

 グドは背後を見た。

 ギニグの町がある方角だ。

 魔石を割ったエネルギーの奔流が、押し寄せてきた方角である。

 しかし、違う。

 そちらではない。

 どの方角でもない。

 では、どこから――。


 次の瞬間、彼ら三人は濃密な魔力の海に包まれていた。


「あ……」

 エソトが、ぐらりと体を傾いだ。咄嗟に、グドが受け止める。腕の中で、少年が痙攣していた。魔力にあてられたのだ。

 さきほどのギニグワイバーンとは、比べ物にならない魔力。

「ドロアさん。エソトを連れて、早く逃げろ」

 血を吐くように、言った。

 それと、同時であった。


 地が、裂けた。


 影。

 地の底の色が、裂け目から、天に向かって伸びている。

 それは、一本の腕であった。

 黒い巨人の如き、五指を備えた腕。

 その腕が、何かを掴んでいる。

 ギニグワイバーンの、屍だ。

 背丈三メートルの巨大な屍を、その黒い腕は掴んでいたのだ。

 息を呑む間もなかった。

 腕が、地面に叩きつけられた。

 ぐしゃりと、体内のあらゆる輪郭が潰れる音がした。

 群青の美しい鱗が、赤黒い塊になっていた。

 腕が、地面を押した。

(這い出てくる)

 グドはエソトをドロアに預けると、二人を背中で隠した。

 地面に食い込む五指は、槍のように鋭かった。

 真っ黒い爪を伸ばし、関節を付け、掌を象れば、こうなるのかもしれなかった。

 地面に食い込み、ぐぐ、と力が籠る。

 溢れるように、影の束が姿を現した。

 一本一本が、太く、蛇のように揺らぐ黒。

 その黒が絡み合い、輪郭を作っている。

 大きい。

 体長だけで、十メートルはありそうだった。

 地を掴むは、四足。

 筋肉の脈動を感じさせる、大木のような後ろ脚に比べ、前脚は細長い。

 細いと言っても、グドの腕の倍は太い。それで薙ぎ払われれば、ギニグワイバーンでさえ即死する。そんな威圧感を秘めている。

 空を覆うは、二翼。

 天を毟り取ろうとするように、巨大な翼が広げられている。

 目視では、正確な大きさを判別しかねた。

 背中から、夜空を生やしているようだった。

 そして、顔。

 真っ黒い無数の針が密集したかのような、歪な右半分。

 しかし、左半分はそうではなかった。

 その色は、群青。

 ギニグワイバーンの顔であった。

 ずるり、ずるりと、触手のように、黒が蠢動する。

 黒が、本来四肢であるはずの飛龍に、二本の腕を生やしていた。

 この黒により、巨大なギニグワイバーンが、異形と成り果てているらしかった。

「……こいつは」

 グドは、理解した。

 彼の瞳は、異形を捉えていた。

 その後ろに刺さる、聖剣を捉えていた。

「……魔力汚染か」

 魔力汚染。

 森羅万象には魔力が宿る。一口に魔力と言っても、血液や臓器と同じように、個々の生物で特質が違う。

 だからこそ、ある生体の魔力を、別の生体に流せば、多かれ少なかれ反応を起こす。

 少々の魔力ならば、気つけ程度で済む。

 相性が良ければ、自分のものとして吸収することもできる。

 魔石のように特殊な性質を持っていれば、別の魔力に変換することもできる。

 だが、もしも相性が悪ければ、あるいは、魔力が濃密であったならば、拒絶反応は避けられない。

 良くて、体調を害する。

 悪くて、命を落とす。

 そして、稀にもっと悪いことが起きる。

 このギニグワイバーンには、それが起きた。

「聖剣に、呑まれたか」

 グドは、苦虫を噛み潰したような顔をした。

 生命は、良くも悪くも、適応するものだ。

 長い年月、全く異質な魔力に晒され続けた場合、肉体のほうが生存のため、変形してしまうのである。

 これを、『魔力汚染』と呼ぶ。

 このギニグワイバーンは、フィルの丘に立つ聖剣の魔力に、何らかの理由で晒され続けたのだろう。

 そして、囚われた。この黒い土と同じように、その刃に蝕まれた。

 その果ての、怪物。

「何……なの、これ……」

 ドロアは、カチカチと奥歯を鳴らしていた。

 長い間ワイバーンに触れ続けた彼女でも、否、ワイバーンに触れ続けた彼女だからこそ、そのショックは大きいようだった。

 その音が、聞こえたのか。

 あるいは、全く別の理由か。

 ともかく、グドは察知した。

 黒い聖剣の怪物から、気配が魔力を伴って溢れてくるのを。

(まずい)

 そう思った時には、彼の左腕が動いていた。

 蛇のようにしなり、彼女を突き飛ばす。

 一拍。

 影の帯が、槍のように伸び、ドロアのいた空間を穿っていた。

 虚空が、魔力で濁った。

 その余波だけで、グドは嘔吐しそうになった。

 それでも、彼は言った。

「ドロアさん。エソト連れて、逃げろ」

「え? で、でも……貴方は?」

「囮になる」

 グドは怪物を見つめて、言った。

 その黒い翼は、どこまでも遠く飛べそうだった。

 何もせず、ワイバーンで逃げるだけでは、絶対に捕まる。

 誰かが、時間稼ぎをしなければならない。

 その役を、グドが買って出たのだ。

 ドロアはグッタリしたエソトを抱きながら、そこに立ち尽くしていた。

(もし逆の立場なら、俺でもそうするだろうな)

 グドは思った。

 歯を剥いて笑った。

「安心しろ。俺は回地者だ。造作もねえよ、こんな鉄火場」

 そして、ゆっくりとドロア達から離れた。

 目で、怪物の翡翠の瞳を、見据える。

 日の光を反射し、刃を煌めかせ、注意を引く。

 注意を引きながら、円を描くように、足を進める。

 異形は、動かない。

 ぞるり、と気配が起こる。

 濃密な魔力が、奔る。

 攻撃の予兆。

 しかし、それは途中で止まった。

 代わりに、黒い触手が宙を薙ぐ。

 泥が四散した。

 グドの放つ弾丸であった。

「早く行け!」

 空気を裂く叫びに、ドロアはようやく動いた。

 意識ないエソトをワイバーンにくくりつけ、自分ももう一匹に跨ると、空高く飛んだ。

 緑の影が遠くに消えるのを、グドは見送れなかった。

 眼前の異形が、粘い魔力を滴らせた。

 それが、迷いなく彼の体に絡んでくる。

 聖剣の飛竜が、こちらを明確に認識している証だった。

(ああ、こいつはやばいな)

 グドは思った。本能で、生命の危機を感じた。

 エソトやドロアを囮に、自分一人で逃げれば良かったのだろうか。

(そんな訳には、いかねえものな)

 グドは白いボウガンを構え、浅い笑みを浮かべた。

「……悪いな、アルカ。これが最期かもしれねえよ」

 ピシリと、弦が空気を裂く。

 土の弾丸が距離を貫いた。

 異形の、黒に覆われていない群青色の部分に、向かっていく。

 しかし、それは当たらなかった。

 腕を構成する触手が解け、しなった。

 泥は宙で八つ裂きになり、飛沫だけが鱗に付着した。

 それは、硫黄入りの泥だった。

 しかし、怪物はどんな反応も示さない。

「鼻詰まりかよ、テメェは」

 否、そもそも五感が利いているかすら怪しい。

 次の手を考えねばならない。

 ゴーレム爆弾を、あの魔力の塊のような触手にぶつけて、怯ませるか。

 そう考え、巾着袋を取り出そうした時だった。

 怪物の左手が、ゆっくりと持ち上がった。

 まるで、日に延びる影のように、ゆっくりと天を仰いで。

 脳裏を過ったのは、死。

 グドは咄嗟に、左へ跳んだ。

 次の瞬間、今までいた場所が、影に押し潰されていた。

 衝撃で、風と土塊が巻き上がる。

 その隅々に、悍ましい魔力が満ちていた。

 攻撃の余波で巻き起こった全てが、毒のようにグドを蝕んでくる。

(あー、糞。ティオラ教の聖剣由来なんだから、回地者に優しくしろよ)

 愚にもつかない思考が、脳に滲む。

 意識が朦朧としているように感じる。

 ひっきりなしに、鳥肌が引き摺り出される。

 汗が次から次へと溢れる。

 異形の右腕が、水平に伸びた。

 横薙ぎか。

 グドは巾着袋を地面に落とした。

 足場用のゴーレムを、生み出そうとする。

 ずきり。

「ぐぅ……!」

 右足首が、鋭く痛んだ。鎮痛剤が、まだ効いていないらしかった。

 その痛みが、グドの足を、一瞬だけ止めた。

 その一瞬が過ぎ去る前に、黒が。


 剛腕が、グドの脇腹にめり込んでいた。


 肺臓から全ての空気が押し出され、骨に無数の罅が入り、地面の感覚がなくなる。

 浮遊感が、一秒。

 続いて、捲れる土の匂い。降り注ぐ土の味。

 グドは、仰向けになって倒れていた。

 生きている。

 跳躍の間際、足が今にも地から離れそうだったからこそ、いくらか衝撃が逃げたようだ。

 剣は、持っていない。今の一撃で、落としてしまったらしい。

 温かい血の味が、口内を満たした。

 痛みが、だんだんとぼやけていく。

(ああ、暗い)

 グドは、意識が暮れなずむのを感じた。

 目だけを動かす。

 輪郭の曖昧になりつつある視界で、影が翼を広げていた。

 怪物が、羽ばたこうとしているらしかった。

 もう、グドは眼中にないのだろう。

 次の獲物のことしか、考えていないのだろう。

 ワイバーン二匹。

 そこに乗ったエソトとドロア。

 悪くすれば、ギニグの町も。

 グドは左腕を思った。

 先ほどの被弾で、へし折れてしまった左腕。

 左腕に纏った、白い鎧。


 この鎧は、友から貰ったものだ。


「アルカ」

 ごぼりと、口から血の泡が噴き出る。

 彼は、静かな目で、怪物を見つめた。

 真っ赤に濡れた唇は、あるかないかの微かな笑みを浮かべていた。

 穏やかな笑みだった。

「俺はやっぱ、ゴーレム野郎として死ぬよ」

 ごぼりと、呟く。

 その右手を、地面に添える。

 真っ黒い、地面。

 聖剣の魔力に長年晒され、在り方を歪めた尋常でない土。

「大地よ」

 グドは、夢でも見ているように、呟いた。

「我が主、ティオラの偉大な御身よ」

 掌が、とろりとする。

 彼の魔力が、滲み出す。

「手をくだされ、足をくだされ、貴方が創り給うた我々を模する、この行いに赦しをくだされ」

 魔力が、土に混ざりはじめる。

 土に染み込んだ聖剣の影に、溶けはじめる。

 それは、詠唱であった。

 ティオラへの礼賛で集中力を高め、より強大な術を行使するためのものだ。


 自律する、ゴーレムの生成。


「その肉、腐らず。その血、湿らず」

 その術は、グドの魔力だけでは不可能であった。

 だからこそ、聖剣の土を触媒にするのだ。

 ギニグワイバーンの血を混ぜた土とは、比べ物にならない触媒。

 その魔力を、利用する。

「その骨、傷まず。その皮、歪まず」

 森羅万象、宿す魔力はそれぞれ違う。

 無論、聖剣の魔力とグドの魔力は、一から十まで異なる。

 それを利用するためには、準備が必要だ。

 すなわち、魔力の融和。

 グドは地面に、自らの魔力を滴らせていた。

 だが、それだけではない。

 地面から、自らの体内めがけて、魔力を吸い上げてもいた。

 異なる魔力がせめぎ合いながら、彼と地面の間を循環していく。

 ゆっくりと血の熱が移るように、溶けあっていく。

 強大な一つのうねりへと、姿を変えていく。

 しかし。

 どろりと、グドの目から黒い血が溢れた。

 口から溢れる血の泡も、翳りはじめる。

 続けて、鼻から、耳から、インクのような体液が垂れていく。

 言いようのない苦痛が、彼の心身を蝕んでいた。

 拒絶反応であった。

「乾いた御魂は、久遠の果てに」

 それでも、グドは呟き続けた。

 聖剣の魔力が、彼の五臓を蝕む中で、それでも彼は術を紡いだ。

 自律型ゴーレムは、その身に宿す魔力が尽きぬ限り、動きを止めない。


 術者が、死んでいたとしても


「主の栄光は、我が死の後も」

 グドは、既に決めていた。

 回地者として、彼らを守る。

 グド・ヒーカンとして、エソト達を守る。

 それで、息絶えるとしてもだ。

 詠唱が、終わる。

「……あとは、頼んだ」

 その言葉を最後に、彼は力尽きた。

 物言わぬグドなど歯牙にもかけず、ゆっくりと異形は飛翔した。

 飛翔しようとした。

 異形が、そちらを見るまでは。

 そちらに。


 グドの近くに、ごぶりと、沼が湧いた。

 

 黒い土が、魔力に潤んで、混ざりはじめた。

 泡立ち、蠢き、横たわるものを洗っていく。

 黒い草、黒い骨、地に伏すものを呑み、一体となっていく。

 グドが、そう望んだからだ。

 身を削り、命を煮て、そうして取り入れた聖剣の魔力で、ゴーレムを作ろうとしたからだ。

 しかし、彼は気づいていなかった。

 自分が、どこに倒れているのか。

 黒い血を垂れ流す、男の肉体。

 その側に、『それ』は生えていた。

 沼は、『それ』を呑み込んだ。

 

 無間の深淵。


 刹那、沼はそう成り果てた。

 泥の全てが、無明に変わってしまった。

 影よりも深い黒。

 闇。

 闇が、凝る。

 骨が生まれる。

 肉が絡む。

 皮が貼りつく。

 四肢が伸びる。

 頭がせり出す。

 目。

 鼻。

 耳。

 口。

 その全てが、黒く、黒く、黒く。

 そこに、純白の髪が、うなじを隠す長さまで生えた。

 うなじである。

 それには、うなじがあった。

 それは、人の形をしていた。

 それは、灰色の肌の少女の形をしていた。

 グドはもちろん、ドロアよりも、小さい。

 それなのに、滲む魔力は異形よりも濃密である。

 なぜか。

 理由は、少女の心臓部にあった。

 少女は、胸から黒い棒を生やしていた。


 聖剣の、柄であった。

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ゴーレム野郎に聖剣は抜けない 腸感冒 @shimogoe

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