命は天地に煌めく

 白が、煌めいている。

 グドの左腕だ。

 左腕に纏われた、鎧だ。

 ただの鎧ではない。

 形状や大きさが様々の、無数の部位が複雑に結合した鎧である。

 その鎧には、無数のくぼみがあった。

 そのくぼみに、焦げ茶色の泥が乗っている。

 泥が、蠢いている。

 蠢きに合わせて、ガチャリガチャリと、鎧が変形していく。

 やがて、せり上がるように筒が出来た。

 銃口のような筒が、グドの肘先から拳までの長さの筒が、前腕部に乗るようにして出現した。

 続いて、一対の翼が生えた。

 鎧の、手首のあたりだ。

 白い翼が――正確には翼の骨が――展開されていた。

 白い翼に対抗するように、群青の翼が羽ばたいた。

 ギニグワイバーンが、大量の風を握りしめて、飛んだ。

 高さは、十メートルはあるだろうか。

 グドのリーチでは、到底届かない位置に、ワイバーンは陣取った。

 このまま逃げてくれるならば、それでいい。

 しかし、そうはいかないのが、この飛竜だ。

 間髪入れず、その禍々しい顎が開く。

 そして、業火が吐き出された。

 ワイバーンに限らず、魔獣の蓄える魔力量は凄まじい。

 そも、魔獣とは元来、『魔力の多い獣』を指す用語である。

 だから、並外れた魔力を蓄えるギニグワイバーンが用いる簡易術式は、シンプルでありながら、とてつもない威力を誇る。

 目の覚めるような赤い輝きが、グドに迫る。

 瞬間、黒い風が疾った。

 グドだ。

 グドが、俊敏な動きで、横に跳んだ。

 辛うじて、避ける。

 煙や土塊と共に、灼火が弾ける。

 どろりとした陽炎が、立ち上がる。

 まずい状況である。

 かたや、上空から自在にブレスを放てる魔獣。

 かたや、矮小なゴーレムしか作れない男。

 グドの得物は、銀の刃と白い腕甲である。

 どちらも、遠距離に対応しているようには見えない。

 ギニグワイバーンが空を舞う。

 群青の影が、頭上を旋回する。

 そして、角度を変えながら、幾度も爆炎を吐き落としていく。

 その度に、地形が抉れ、草や苔や土が焼け焦げ、宙を舞った。

 その様子を、エソトは聖剣の後ろに隠れるようにして、見つめていた。

「おじさん……」

 不安げに、少年は呟いた。

 ギニグワイバーンとグドとの実力差は、かなりのものであるように見えた。

 それも、仕方のないことだ。

 人間と獣では、そもそもの運動能力が違う。魔獣となれば、尚更だ。

 その如何ともし難い隔たりを乗り越えるため、人は術式の強化や道具の進化に叡智を費やしてきたのである。

 果たして、グドのゴーレムに、魔獣を蹂躙する膂力があるか。

 その左腕の鎧に、魔獣を打ち倒す機能があるのか。

 エソトには、分からない。

 分かることといえば、一つだけだ。

 グドの目に、光が宿っているということである。

「……よし」

 モヒカン頭が、呟いた。

 ブレスを避けながらだ。

 その動作が、先ほどよりも、洗練されているようだった。

 危なげなく業火を躱し、彼は天に向かって腕を掲げた。

 左腕だった。

 筒と、白い翼の生えた左腕だ。

 エソトは見た。

 一対の翼を、糸が繋いでいる。

 否、翼ではなく、弓だ。

 糸ではなく、弦だ。

 グドの左腕の鎧は、白いボウガンを象っていた。

 ギチ、と音がした。

 弦が、引っ張られていく。弦そのものに伸縮性があるようだったが、かなりの張力らしく、ギチギチと重い音が軋む。軋みながら、筒の後ろの方まで引っ張られていく。

 引っ張っているのは、土だった。

 土が細長い腕を象り、肘のあたりから伸び、弦を引いているのだ。

 ピシリ、と空気が裂けた。

 弦が解放され、たわんだ。

 次の瞬間、ボウガンの筒から何かが弾き出された。

 小さな影が、ギニグワイバーンの額目掛けて、飛んでいく。

 群青の翼が、一際大きく羽ばたいた。

 風の千切れるような音が響き、影が減速する。

 それが、もしも矢であったならば、威力は殆ど殺されていたことだろう。

 矢であったならばの話だ。

 べちゃりと、湿った音がした。

 ワイバーンの顔に、何かがこびり付いていた。

 泥だ。

 それだけのはずだ。

 しかし、次の瞬間ギニグワイバーンは、苦しげに身を捩らせた。

 その時になって、群青の翼が起こした風が、地上に届いた。

 思わず、エソトは鼻を摘んだ。

 たまらない硫黄の臭いがした。

 あの、筒から放たれた影。

 硫黄の練り込まれた泥であった。

「小細工しなきゃ、常人は魔獣に勝てねぇからな」

 グドが唇を捲り、笑った。凶悪な笑みだ。策が上手くいったことを、喜んでいるような笑みだ。

 ギニグワイバーンの翡翠の瞳が、グドを映した。

 憤怒に燃えていた。

 群青の翼が大きく羽ばたく。捉えた風の量だけ、その体の速度が増す。

 弾丸のような勢いで、ギニグワイバーンが急降下した。

 狙いは、グド。

 大顎を開き、そのモヒカン頭を噛み砕こうとする。

 距離が詰まっていく。

 五メートル。

 三メートル。

 一メートルまで迫ったところで、グドは身をかがめた。

 力強く、大地を蹴る。

 地面すれすれに、駆ける。

 黒い残像を、群青が掠めた。

 その中に、銀色が煌めいた。

 ギィ、と金属の罅割れるような呻きが響いた。

 ギニグワイバーンの呻きだった。

 ギニグワイバーンは、降下の勢いそのままに、急上昇すると、宙で留まった。

 その右後ろ脚が、なくなっていた。

 エソトは地面を見た。

 群青色の足首から先が、転がっていた。

 先程の、刹那のすれ違い様に、切り飛ばしたのだ。

 鎧のようなギニグワイバーンの鱗が、綺麗に両断されていた。

 恐るべき切れ味だった。

 ばしゃばしゃと、大地を濡らす音が聞こえる。

 宙に羽ばたくワイバーンの足首から、夥しい量の血が噴き出している。

 かなりの痛手のはずだ。

 それでも、その飛竜は逃げなかった。

 手負いの獣が持つ、並々ならぬ獰猛が、鱗に満ちていく。

 群青色の内部で、魔力が凝っていく。

 炎熱を孕み、紅蓮に変わっていく。

 簡易術式。

「そいつは、悠長ってもんだ」

 今にもブレスを吐かんとする竜影を見上げ、グドは落ち着いた様子で言った。

「俺のゴーレムは、もう起き上がってるぜ」

 その声が、ギニグワイバーンに聞こえたかどうか。

 聞こえていても、避けようはなかっただろう。

 ワイバーンの顔に張り付いていた泥。

 その泥が、ごぶりと湧いた。

 細長い手が、現れて、伸びて。

 群青の眼窩に、潜り込んだ。

 ぞっとするような、苦悶の声が上がった。

 片目を失ったギニグワイバーンが、空中でもがいた。

 それを見上げて、グドは腰を落とし、膝に力を溜める。

 跳ぶ体勢だ。

 魔獣までの距離は、八メートル。

 普通、人間の跳躍では届かない。

 普通ならばだ。

 グドは、普通ではなかった。


 彼は、ゴーレム野郎だった。


 彼の足が、土塊を踏んでいた。

 先程、ブレスを巻き添えに四散したゴーレムの、残骸だ。

 残骸が、ぐぶり、と湧いた。

 再び、泥団子のようなゴーレムが起き上がった。

 同時に、ゴーレムの両腕が、その小さな見た目からは想像もつかない膂力で、グドを押し上げた。

 その腕を踏み台にして、彼は跳んだ。

 まるで、黒い鳥だった。

 凄まじい速度で、グドはギニグワイバーンまでの距離を潰した。

 五メートル。

 三メートル。

 一メートルまで迫ったところで、右手に持った刃を構えた。

 痛みに悶え、反応できずにいるギニグワイバーンの首元に、銀光がきらりと奔った。

 ざあっ、と赤い雨が降り注ぎ、一拍遅れて音が四つ。

 グドの着地音。

 ギニグワイバーンの落下音。

 ギニグワイバーンの首の落下音。

 そして、屍の首の根から、しゅるしゅると血の噴き出す音がしばらく続き、止まった。

 魔力と、硫黄と、濃い鉄の匂いが香った。

「す、すごい……。すごいよ、おじさん!」

 立ち尽くし、ワイバーンの屍を見つめるグドに、エソトが目を輝かせながら、駆け寄ってきた。

「滅茶苦茶すごいよ! 勇者!? おじさん勇者!?」

 グドは我に帰ったように少年を見ると、照れ臭そうに頬を掻いた。

「えー、そうかな。俺凄いかな? うん、俺凄いな。マジで勇者かも」

「だよね、勇者だよね!? あのギニグワイバーンを、無傷で倒しちゃうんだもん!」

「え? あ、うん。そうだよ、無傷だよ。かすり傷も負ってないよ」

 そう話すグドは、大量の汗をだくだくと流していた。

 彼は少年に告白できずにいた。

 先ほどの着地で、右足首を挫いたということを。

「あれ、どうしたのおじさん? お腹痛いの?」

「え、何? 全然痛くないけど? お腹も足首も欠片も痛くないけど? 止めてよね、言いがかりつけるの」

 そんなことを呟きながら、グドはギニグワイバーンの屍の傍でしゃがみ込んだ。そして、エソトのほうを見た。

「言っとくけど、これは足首が滅茶苦茶痛いからしゃがみ込んだんじゃなくて、ヒーカン家に伝わる由緒正しい儀式を行うためにしゃがみ込んだだけだからね。止めてよね、言いがかりつけるの」

「まだ何も言ってないけど」

「はあ、言ってたけど? 目が口ほどに物を言ってたけど? 何その疑念を滲ませた目? ゴーレムに腕突っ込ませていい?」

「何だこのおっさん話が通じねえ」

 エソトの眼から憧れの光がみるみる消えていく。子どもは正直である。

 掌を返しはじめた少年は放っておくことにして、グドは刃についた血を指で拭った。

 銀の表面は綺麗になったが、紋様部分にはまだ血液が詰まっていた。そこだけ、赤く浮き出ているようだ。

 血の文様を見て、少年は思い出したかのように口を開いた。

「あ、そういえばさ、おじさん。さっきの家訓の話なんだけど。結局、なんて書いてあるの?」

「え? ……ああ、そういやそんな話してたな」

 グドはエソトにばれないように、黒服の内側からコッソリ痛み止めを取り出しながら、言った。

「今からやる儀式と、関わりの深い言葉だよ。つーか、儀式の一部だ。呪文みたいなもんさ」

 グドはその大きな掌で、ワイバーンの頭部に触れた。零れた血には、まだ温もりがあった。

「あ、でもよ」

 エソトのほうを向き、言う。

「ここだけの話、俺んちの家訓、ティオラ教の教義的にまずいとこがあってな。だから、今から俺がする儀式も合わせて、ギニグの教会とかにチクんないでくれよ? チクられたらおじさん、最悪無職だからね? マジ頼むよ?」

 彼がこくこくと頷くのを見て、グドは「あんがとよ」と笑った。怖い笑みだったが、それは元々凶悪な顔をしているからだった。

 そして、グドは刃を地面に置いた。

 それから、ギニグワイバーンの群青の頬を撫でる。

 瞳が、屍を映している。

 静かな目だった。

 強いギニグワイバーンだったと、グドは思う。

 先程の戦闘も、どこか一つでも間違えていれば、たちまち自分は死んでいただろう。

 ブレスも、飛行も、脅威だった。

 そのどれもを、このギニグワイバーンは、親から教わったのだろう。

 あの遠い丘で見た、群青の親子のように。

 長い長い、生命の営みの中で、このワイバーンも強くなっていったのだろう。

 いつまでも続くと思われた営みが、一つ、ここで終わったのだ。


「血肉モ御霊モ、天地ニ在リ」


 グドが、呟いた。

 するり、と優しい風が吹いた。

 それは魔力も何も関係のない、フィルの丘の風であった。

 優しい風が、ワイバーンの血の香りを抱き、空へと運んでいった。 

 青い空であった。

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