中々どうして聖剣は抜けない
聖剣が実在していたことに、安心半分、検分への億劫さが半分。
そんな複雑な心情を、一先ず横に置いておいて。
(呑まれているな)
エソトの取りつかれたような雰囲気に、グドはそう思った。
濃密な魔力は、それだけで人を幻惑する。
それなりに場数を踏んだグドのような大人ならばまだしも、年端もいかない少年が魅入られるには、十分すぎる魔性を、聖剣は帯びていた。
このままでは不味い。
何せ、まだ刃が見えていないのだ。
聖剣然り邪剣然り、最も濃密な魔力を発するのは、その刀身である。
見たところ、エソトがこの聖剣を抜くのは筋力諸々の問題で無理だろうが、何かの拍子に刃を見てしまえば、幼い精神に異常をきたす可能性も十二分にある。
そうなると、彼の祖母が悲しむ。
そうなると、彼の祖母に世話になったというドラブロウが悲しむ。
そうなると、ドラブロウにグドが半殺しにされる。
そうなると、萬屋が満面の笑みで飯を三杯は喰う。
むかっ腹が立ったので、グドはエソトを止めることにした。
といっても、力づくで聖剣から引きはがすような真似はしない。
その小さな肩に掌を置き、そして、自身の魔力を少しばかり流したのである。
ぴくんと、少年の身体が跳ねた。
そのどんぐり眼が、ようやくグドを見上げた。
「ん? うわっ、誰!?」
「聖職者だよぉ」
警戒されないよう、グドはできるだけ穏やかな笑みを浮かべた。
それでも髪型然り、体格然り、お世辞にもベビーフェイスとはいえない凶相然りで、随分と危険な雰囲気を垂れ流していたのだが、意外にもエソトはそんな彼に対し、年の割には落ち着いた反応を見せた。
「せ、聖職者? ……ティオラ教会の人?」
「そだよ。てか、物知りだな君。聖職者って言葉の意味が分かるのか」
自分がこの子ぐらいの年には、鼻水を垂らして野原を駆けまわっていたものだがと、ノスタルジーが襲いくる。
そんなグドに、エソトは僅かに不審そうな表情を滲ませた。
「その聖職者が、一体何の用? フィルの丘は、入っちゃいけないはずだけど」
「そんな入っちゃいけない場所に入り込んだ悪ガキをとっちめるためだよ。ほら、帰るぞエソトくん。婆ちゃんが心配してるぜ」
「え? ベルナ婆ちゃんが?」
祖母の名前を出されて、エソトの表情に年相応の色が生まれた。不安そうな、あどけない表情。その要因は、禁足地に入り込んだことについて、大目玉を喰らうかもしれないという恐怖だろう。少なくとも、同じ立場であればグドはそう思う。
「で、でも……僕、聖剣抜かないと……」
おどおどしながら、それでもエソトは名残惜しそうに柄を握りしめていた。
よほど、勇者になりたいようだ。
「あのなあ、エソトくん。今の時代、聖剣を抜いても勇者にはなれないぜ? どこを探したって魔王なんていないんだから。世界をまたにかけて布教活動に勤しんだ俺が言うんだから間違いねえよ」
「世界を、またに?」
少年の視線が、聖剣の柄からグドの顔へと向き直った。その瞳に、きらきらしたものが見えた。
憧れの類であるように思えた。
「す、すごい! おじさん、世界をまたにかける大冒険をしたの!?」
とてつもない食いつきであった。
グドは少しばかり面食らったが、しかし何だか悪い気もしなかったので、頷くことにした。
「え? あ、うん。したよ、したした」
「千年を生きるドラゴンとか見たことある!? 空から降り注ぐ天使の軍勢は!? 大地に眠る黒い巨人の鼓動とか、聞いたことある!?」
「うん、見た見た聞いた。秘境、禁足地、大自然、映画館、果てはビデオショップまで、ありとあらゆる場所で相対したぜ」
グドはエソトの知的好奇心に身をゆだねる形で、あることないことを喋った。
彼は不良聖職者なので、法螺を吹くことに何の抵抗もなかった。
「すごーい! 勇者みたい! え、もしかしておじさんって勇者なの!?」
「あー、うん。勇者勇者。おじさん含む労働者は全て、社会という魔王に立ち向かう勇者だよ」
適当なことを喋りながら、グドは少しだけ周囲に気を配る。
幸いにも、ギニグワイバーンの影はない。
やはり、この竜除けの魔石は効果抜群なようだ。
周囲に視線を行き渡らせる中で、ふと、グドは気付いた。
地面が、黒く染まっている。
土も、草も、獣の骨片らしきものも、地に伏したものは全て。
柄の露出した場所を中心に、半径五メートルほどの面積が、影に覆われたような色をしていた。
(聖剣の魔力が、浸透してるのか)
グドは、手に持った巾着袋を、コートの胸ポケットへとしまった。
何かの拍子で、地面に落してしまうと、魔石に聖剣の魔力が入り込んでしまうと思った。
そうなると、困ったことになるのだ。
視線を、エソトの巾着袋へ移す。
彼は、首からその袋を下げていた。
エメラルド色の光が、漏れている。
その光に負けないぐらい、少年は目を輝かせていた。
「じゃあ、おじさんも聖剣持ってるの!?」
「え、聖剣? ……あー、まあ一応刃物は持ってるけど」
グドは腰の左側に下げた鞘に視線を落した。
黒い、獣の皮をなめして作った鞘であった。中にある刃に合わせて、長さは四十センチほどだ。
そこから柄が覗いている。握りやすいよう、柄の尻がやや太くなっていた。
もう一度、エソトを見る。彼はグドの刃物を見るまで、ここから一歩も動かないというような凄味を醸していた。子どもの好奇心というのは、なかなかどうして凄まじい。
もちろん、この鞘の中に入っているのは聖剣ではない。見たところで、精神に影響はない。
かといって、ホイホイ抜いて見せびらかすような類のものでもない。
グドは少しばかり逡巡し、
(まあ、マジもんの聖剣を抜かれるよりはいいか)
と思い直すと、柄に手を伸ばした。
ぬらり、と銀の刃が顔を出す。
片刃だ。
三日月を半分に割り、反りをなくしたような形をしている。
柄よりもやや幅広な刀身は、光の反射によっては黒にも白にも見える、無骨な銀色だ。
煌びやかな装飾は一切ない、黒い柄にくすんだ刃の付いた、地味な見た目であった。
「がっかりしたか? 仕方ねえさ。ありがたくも何ともない、生活のための山刀なんだから」
グドは峰を向けるようにして、少年に剣を差し出した。
エソトは露わになった刃を、食い入るように見つめると、その表面に細い指で触れた。
触れながら「これ、何?」と尋ねた。
彼の細い指が、凹凸をなぞっていた。
刀身に刻まれた凹凸であった。銀の両面に、まるで紋様のような彫りがあった。
「こいつは……家訓だな。一族に伝わる家訓が彫ってあるんだよ」
「家訓?」
「ああ。古い言葉で書かれてるし、彫った奴が随分悪筆だったのか結構崩れてて、俺達以外誰も読めねえんだけどさ」
グドの言葉通り、刃の表面でうねる彫刻は、文字というよりは絵のようだった。辛うじて、象形文字に見えないこともなかったが、何を表しているのかはさっぱり分からない。
エソトは首を傾げた。
「なんて書いてあるの?」
「ああ、これはな……」
グドは、そこで言葉を止めた。
止めざるを得なかった。
何の前触れもなく、悪意や殺意、光を一切通さない濁りきった意思の奔流が、彼らの全身を叩いていた。
否、それは正確には意志ではなかった。
空気のゼリーのような、濃密な魔力だ。
敵意と共に迸らせた魔力が、無遠慮にグドとエソトに覆いかぶさり、過ぎ去っていったのだ。
方向は、背後。
誰かいるのか。
身構えた瞬間、グドはあることに気づいた。
刹那、体内の平穏を、根こそぎ洗い流された。
臓器まで冷や汗をかいているのではないかと思った。
「マジかよ」
彼とエソトの持つ巾着袋が、共に光を失っていた。
抓んでみると、砂のような感触が伝わってきた。
ワイバーン除けの魔石が、砕けていたのである。
(さっきの魔力の奔流か)
森羅万象には魔力の蓄積限界量がある。
特に、魔石のように魔力変換の機能を持つものは、その性質上吸収率も高い。
結果、濃密な魔力を叩きつけられると、無節操にあるだけ吸収し、果ては許容量を超えて砕けてしまう。
巾着袋の中の魔石は、ただでさえ聖剣の魔力に晒されていたのだ。そこに先程のエネルギーの奔流を浴び、限界を迎えたのだろう。
魔力含有率の高そうな地面に落さぬよう、胸ポケットに巾着袋を入れていたのが、完全に無駄骨に終わった訳だ。
兎にも角にも、まずいことになった。
なぜなら。
「エソト、俺の巾着袋をやる。粉みじんでも、ないよりはマシだろう」
「え? おじさんは?」
「俺には、やらなきゃいけないことができた」
言うが早いか、グドはエソトの頭を掴むと、一緒に地面に伏した。
だから、彼らは生き残ることができた。
次の瞬間、頭上の空間が掻き消えた。
正確には、そこに滞留していた魔力なり匂いなり熱なりが、全て払いのけられて、霧散していた。
それが、通ったからだ。
それとは、すなわち。
「……近くで見ると、おっかねえよなあ、やっぱ」
グドは、苦笑いを浮かべた。
ぬるぬると、冷や汗が肌に浮いていた。
浮いたそばから、漂ってくる魔力が、その水分を濁らせていくようだった。
息を呑むほどの、群青。
それが凝り、形を作り出していた。
岩のような質感を持った、翼爪。
天に向かって尖る、棘のような耳。
翡翠色を湛えて睨む、洞穴のような眼窩。
深淵を覗かせる顎、紫炎の如き舌、白刃の如き牙。
その魔獣の名は、ギニグワイバーン。
時に天魔の尖兵として描かれた存在が、今、確かな肉感を伴って、目の前の地面に降り立っていた。
ガチガチと、音が聞こえた。
エソトが恐怖のあまり、歯を鳴らしているのだ。
それも仕方のないことだ。場数を踏んだグドでさえ、その存在感を前にすると、背骨が凍えそうになる。
背丈だけで、三メートル。翼を広げれば、七メートルは下らなそうだ。
そして、その巨体を迅雷のように操る運動能力を、この飛竜は当然のように持ち合わせている。
(死ぬかもな)
そんなことを、思う。
肌が、じりじりとしている。
強い魔力に反応して、産毛が立ち上がっていく。
こうなった時、決まってグドの胸中には、死の予感が蹲るのだ。
しかし。
(でも、死ねないよな)
グドは、
身を削り、人を救う者である。
ここでグドが死ねば、エソトも生きては帰れなくなる。
それは、回地者の存在意義に反する。
何より、グド個人の信念に反する。
「安心しな、エソト」
グドは、ギニグワイバーンから漂う魔力に身を炙りながら、立っていた。
「俺は、優秀なゴーレム野郎だ」
そう呟きながら、右手には、刃を。
左手は、ゆっくりと上着の懐に入った。
その緩慢な動作すら、ギニグワイバーンの獰猛を掻き毟るには、十分なようだった。
群青の顎が、ぐわりと開く。
その喉奥から、紅蓮が湧いた。
火球が奔った。
簡易術式による、ブレス。
たまらない熱が、迫って、迫って、グドの汗を霧消させて、今にも骨肉を炭に変えようとして。
パン、と弾けた。
赤い火花が、四方八方に散った。
何本もの煙の尾が、散った先から立ち上った。
煙の群れの中心に、グドはあいも変わらず立っていた。
火球による負傷は、ないようだった。
「な、何で」
声を上げたのは、エソトであった。
何が起こったのか、分からなかったようだ。
そんな彼の戸惑いを他所に、ギニグワイバーンは再び炎を吐き出した。魔力を練り込んだ、凄まじい炎だ。
しかし、グドは慌てなかった。汗を浮かべながらも、彼は落ち着いていた。
落ち着いて、何かを前方に掲げた。
ウィーベルン食堂で取り出していた、茶色い巾着袋だった。
もこりと、その布が蠢き、影が飛び出した。
四肢を持った泥の球体。
グドの操る、ゴーレムであった。
それは、火球に身を投じると、途端に水風船のように膨らんで、弾けた。
猛る炎熱を巻き添えに、四散したのだ。
また、無傷のグドとエソトが残った。
他には、陽炎と紫煙、魔力の残滓だけが漂った。
「恐れ入ったか。これが人間の小細工だよ」
グドが、ギニグワイバーンに語り掛ける。
その言葉の意味を、野生の飛竜が解せるはずもない。
しかし、その獰猛な意識をグドに向けさせるには、十分だった。
「どんだけ魔力の総量がデカかろうが、それだけで勝てるほど、大自然は甘くないってことだぜ」
喋りながら、グドはギニグワイバーンを睨む。視線を外さず、ゆっくりと脚を動かす。
彼と飛竜の線上から、エソトを外すためだ。
「おら、もっかい撃ってこい。その度に撃墜してやるぜ。許容量ギリギリまで魔力を充填したゴーレムの、決壊時の爆発力舐めんなコラ」
ゆっくり、ゆっくりと、歩く。
ギニグワイバーンは、視線をグドに釘付けにしたまま、首を動かす。そして、飛竜の視野からエソトが外れた、その瞬間。
群青色の翼爪が、空気を八つ裂きにしながら、グドに襲い掛かった。
エソトは、鳥肌を立てていた。
魔力の塊であるブレスならともかく、ギニグワイバーンの爪を、あの小さなゴーレムが防げるとは思えない。幼いながらに、そう確信したのだろう。
実際、グドはゴーレムを出さなかった。
体ごと叩きつけるように繰り出された、ワイバーンの恐るべき翼爪。
それを、左腕でいなしたのだ。
あり得ないことだ。
剣を、剣でいなすのとはわけが違う。
片や、竜種の剛爪。片や、人間の腕。
砂糖菓子で銃弾をいなせないように、グドの左腕もまた、飛竜の圧倒的な暴力の前に、赤い飛沫となるはずだった。
実際、彼の黒い上着は、引き裂かれていた。
黒い布地が、余波の風圧で巻き上げられる。
ティオラ教の色が、宙に舞う。
その中に、エソトは別の色を見た。
白。
「腕っ節だけじゃなくて、装備にも自信があるんだぜ、俺は」
グドが、笑った。
冷や汗を浮かべながら、それでも笑っていた。
腕が、天に向かって伸びていた。
衝撃をいなし、その反動で空を仰いだ左腕。
その肘先から前腕にかけて、白い腕輪が巻かれていた。
白に、褐色の粉末が降り注いだ。
先程の巾着袋が裂け、中身が溢れ出したようだった。
その中身の正体は、魔力を練り込まれた土である。
刹那、エソトは見た。
グドの白い腕輪の上で、土が蠢くのを。
それに呼応するように、腕輪を構成する数多の部位が、回転し、展開し、結合し、グドの腕を囲む様を。
一秒も、かからなかった。
瞬きするほどの時間で、白い腕輪が、左腕を覆う鎧と化した。
それは、天使の骨で出来ていた。
「行こう。アルカ」
グドが呟くのと、ギニグワイバーンが吠え立てるのとは、同時だった。
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