勇者ではなく公務員になりなさい

 ベルナ婆さんの孫、エソト・ミールは勇者に憧れていたのだという。

 この世界には魔法や魔獣は存在すれど、人々を脅かす魔王がいるわけではないので、勇者になったところで仕事はない。

 グドはそんなことを考えるのだが、そんなことを考えられるのは、彼が二十五歳のしみったれだからだ。

 エソトは今年でようやく五歳。まだ現実と空想の区別がつかないお年頃なのだろう。

 それに加え、自分の住む町の近くに、聖書に出てくるような聖剣が刺さっている(とされる)のだから、空想は加速して然るべきである。

 更に悪いことに最近の彼は、聖剣を手にした勇者が魔王を倒す漫画に夢中だったらしい。

 夢見がちな少年の脳内で、おあつらえ向きの現実と、膨らんだ空想が化学反応を起こし、フィルの丘に足を運ばせた。

 それが、ベルナ婆さんの描いた筋書きである。

「まあ、そうは言ってもフィルの丘は遠い。子どもの足で辿り着くのは無理だろうとは、思うんだがな」

 ウィーベルン食堂で、店主のドラブロウは黒い顎鬚を摩りながら言った。

「しかし、それでもベルナ婆さんの不安は取り除いてやりたい。あの人には、ガキの頃さんざん世話になったからよ。だから、モヒカン頭。ちょっとフィルの丘まで行って、エソトを探しちゃくれないか。まあ、多分いないとは思うけど、一応確認のためにな」

「お任せください! 男グド・ヒーカン、命に代えてもエソトくんを見つけ出してまいります! なのでそろそろアイアンクローを止めていただけないでしょうか! 髪型が変わってしまいます! 頭蓋骨ごと!」

 ミシミシと自分の頭が音を立てるのを聞きながら、グドは汗だくになって懇願した。それもこれも、彼が結果的にワイバーン肉を粗末に扱ったのが悪いのだが、それでもやはり懺悔の意識と生命の安全を天秤にかけた際、後者のほうが大事と思う程度には、彼は不良聖職者だった。

 ドラブロウは耳を傾けることなく、自らの発達した胸筋でせり出したエプロン、そのポケットに手を突っ込むと、緑色の巾着袋を取り出した。

 布越しに、淡い光が滲んでいる。

「こいつをお前に渡す。中に入ってるのは、ワイバーン除けの魔石だ。大気中の魔力を取り込み、竜種の嫌う性質の魔力に変換してくれる。身に着けてれば、とりあえずはフィルの丘で無事にやっていけるだろう。本来であれば所持が認められるのは町のやつだけで、余所者に渡すのは禁じられてるんだが、事態が事態だからな」

「おー、良かったすねえ、グドさん。これで糞ザコなグドさんでも、安全にフィルの丘にいけるっすよ」

 横から茶々を入れるのは萬屋である。

 元をただせば、グドがアイアンクローを受ける羽目になったのは、彼女が彼を煽り散らかしたからだ。

 全ての元凶であるにもかかわらず、彼女は安全圏でモヒカン頭の苦しむ姿を眺めるばかりで、助け舟を出そうともしない。

 それどころか、追加でフライドポテトにワイバーンソーセージの盛り合わせを頼んだ。グドの醜態を肴に、旨い飯を食べてやろうという魂胆が見え隠れしている。

 いつかこいつ業火に焼かれてくんねえかなと思いつつ、グドは意識を朦朧とさせながら、気になっていることを尋ねた。

「で、でもご主人! 確か、フィルの丘ってギニグワイバーン危険地帯ってんで、禁足地なんですよね!? 俺みたいな余所者が勝手に入っていいんでしょうか!?」

「ああ、気にするな。俺の身内に役場で働いてる奴がいるんでな。何かあっても、そいつに手を回してもらうさ。安心して死んでこい」

「さっきこの魔石があればフィルの丘で無事にやっていけるって言ってませんでした!?」

「ワイバーンを粗末にする奴に、その魔石の加護があるかどうかまでは分からんからな」

「ワイバーン除けを謳っているのに何でワイバーン寄りなんですかこの魔石!?」

「嫌よ嫌よも好きのうちってやつっすよ、グドさん。あ、このソーセージ美味しーい」

(主よ、このクソガキの小指を、箪笥の角にお導きください。出来れば事あるごとに)

 そんなこんなで、グドは頭蓋骨を犠牲にしながら、何とかギニグワイバーン対策を済ませることができた。ドラブロウの言葉を信じるならば、恐らく役所対策も。


 それが、一時間前のことである。

 現在、グドはどこまでも続くような丘の連なりを歩いていた。

 草、苔、あらゆる色合いの植物が、湿った大地の上に繁茂している。

 踏みしめるほどに、青い匂いと、微弱な魔力が立ち昇った。

 グドの分厚い、黒い長ズボンが少し湿った。

 彼の身に纏う服は、いくらかの例外や、濃淡の差こそあれど、一様に黒かった。

 上に羽織るコートも、その下に着込んだシャツも、腰に巻いた剣の鞘でさえ、全てが夜の色をしていた。

 それは、ティオラ教のイデオロギーに則ったカラーリングだった。

 グドの所属する、この世界宗教において、黒とは神聖な色なのだ。

 主神であるティオラも、黒い髪と黒い瞳をしていたと考えられている。

 天の光の届かぬ場所の色だ。

 ありのままの、大地の色である。

 そんな黒装束のグドが、えっちらおっちら丘の上を歩いているのだった。

 ギニグの町からフィルの丘までは、六キロメートルほどだ。幼児の足では無理でも、グドの健脚であれば半刻もかからない。

 大昔に火山活動があった名残か、道中は高低様々な丘があった。

 グドは東奔西走なんのそのな回地者ローラーであるため、このような地形を歩くのも慣れたものだが、五歳の子どもには到底無理だろう。

 この調子だと、エソトがフィルの丘に辿り着くことは絶対にない。

 そんな確信を抱きながらも、グドは前に進んでいく。一応、周囲を見渡しながらだ。

 高い木々がないため、随分見晴らしのいい地形だった。

 エソトを探して視線を彷徨わせていると、遠くにひときわ大きい丘があった。

 フィルの丘ではない。それよりも向こうにある、さらに高い丘だ。

 そこから、群青色の影が落ちていくのが見えた。

 二匹のギニグワイバーンだ。

 それぞれ、大きさの違う個体だった。

 片方の個体は、もう片方の半分ほどのサイズだ。きっと、幼体だろう。

 ワイバーンの子供は、空中で翼をばたつかせながら、落ちていく。

 落ちて、落ちて、落ちて、もう少しで地面に激突するというところで、大きな方のワイバーンが、幼体の下に潜り込んだ。

 子どもを背負うようにして、大人のワイバーンが上昇していく。

 一つになった群青が、たちまちグドの眼でもとらえきれないほど、小さくなっていった。

 きっと、あれは親子だ。すとんと、そんな思考が胸に落ちてくる。

「ギニグワイバーンの飛行教室か。これはレアなもんを見たなあ」

 しかし、貴重な体験に喜んでばかりではいられない。

 つまり、ギニグワイバーンの巣が視認できるところまで、近付いてきたということなのだから。

 グドはドラブロウに渡された巾着袋を握りしめ、改めて周囲に視線を配る。やはり、エソトの姿は見えない。

「……騎竜用のワイバーンが使えりゃあ、上から見下ろして一発なんだがなあ」

 ない物ねだりとは理解しながらも、グドは呟かずにいられなかった。

 ギニグは、ワイバーンの町である。

 ティオラ教が世界に展開するよりも前から、この地は飛竜と共に悠久の時を過ごしてきた。

 長い長い付き合いの中で、人はワイバーンを飼育することを覚えた。

 ギニグワイバーンではない、比較的おとなしく、小さな種だ。

 この種のワイバーンを、人々は時に食肉にし、時に鎧や剣にし、時に狩猟用に手懐けた。

 背中に乗って飛び回れる、騎竜用ワイバーンもその一つ。

 品種改良で翼を発達させ、なおかつ背中から物を落さないよう訓練を積んだこのワイバーンは、古くから人々の空の旅を支えてきた。

 自動車や飛行機などの魔動機関が発達した現在でも、近場への移動であれば、ギニグの人々はワイバーンを利用する。小型飛行機よりも安価だし、何より直に風を感じられるからだ。乗り心地も抜群で、都会の喧騒に疲れた観光客が、わざわざ飛行体験のために遠くから来る場合もある。

 観光資源としても優秀な騎竜用ワイバーンだが、欠点が一つある。

 フィルの丘への移動には使えないという点だ。

 何故なら、小ぶりな同種はギニグワイバーンの格好の餌であり、ワイバーン除けの魔石を使おうにも、そんなものを持って騎乗すれば振り落とされるからである。

 そうこうしているうちに、グドはフィルの丘に足を踏み入れていた。

 子どもがいるにせよ、いないにせよ、自分に与えられた人探しのミッションは終わろうとしている。

 危なげなくここまで来れたことに安堵しつつ、グドは周囲に呼びかけた。

「おーい、エソトくーん。勇者志望のエソトくーん、出てきなさーい。聖剣なんか抜いてないで、帰ってきなさーい。いまどき勇者なんて喰いっぱぐれるよー。公務員とかにしときなさーい」

 説得の言葉を吐きながら進む。ギニグワイバーンに聞こえてもいいよう、魔石を掲げながらだ。

 魔石を掲げるのには、ワイバーン除け以外にも理由があった。

「……お?」

 グドは立ち止まった。そして、右手の中にある巾着袋を見つめた。

 指の隙間を縫うようにして、エメラルド色の光が強まっていた。

 魔石の共鳴現象だと、ドラブロウは言っていた。

 何でも、ワイバーン除けの魔石が変換した魔力というのは、それを更に取り込んだ同種の魔石を、強く光らせるのだそうだ。

 ということはつまり、この近くに自分の持つものと同じような魔石があるということだ。

 ドラブロウ曰く、この魔石はギニグの住民しか所持を許されていない。

 そして、ギニグの住民はフィルの丘の危険性を知っているため、近付かない。

 であれば、この共鳴を引き起こしている別の保持者は、ギニグの住人で、なおかつフィルの丘に入り込むほど無謀な人物ということ。

 そんなの、一人ぐらいしかいないわけで。

「まさか、ホントに辿り着いてるとは」

 グドはもう一度、ぐるりと周囲を見渡した。

 案の定、小さな人影が見えた。

 栗色の髪をした幼い少年が、膝をついていた。

 背中しか見えない。何かをしているようだ。

「おーい、エソトくん」

 グドが呼びかけても、反応がない。振り返ることなく、ゴソゴソとしている。

 まさか、弁当を広げている訳でもあるまい。グドはゆっくりと回り込んだ。エソトの白い肌、長い睫毛、緑の瞳と、順繰りに顔立ちが露わになる。

 そして、彼が何をしているのかも分かった。

 少年は、その小さい手で、地面から生えるものを握っていた。

 黒い棒のようだった。

 それがただの棒ではないと、グドは直感した。

 ジワジワと、肌が粟立つ。強い魔力を前にすると、彼の肉体はそのように反応するのだ。

 しかし、仮にグドでなくとも、この世界の住人であれば、あの棒が尋常でないことは、肌感覚で分かるだろう。

 あれは、柄だ。

 フィルの丘に刺さっているとされる、聖剣の。

 エソトは脇目もふらず、おびただしい魔力を滲ませる聖剣を、地面から抜こうとしているのだった。

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