第23話 月の祝福

「レギ、ただいま」


 寝室のドアが開いて、カガリさんが入ってくる。

 室内はすっかり暗くなっていた。外は既に夜の色で、昇り始めたばかりの月の明かりが、窓から見える草原をぼんやりと照らしている。


「レギ?」

「……」

 

 毛布を頭から被ったまま、僕は返事しない。


 僕の返事がない理由をわかっているのかいないのか、彼は黙って着替えを始めた。

 衣擦れの音がする。

 漂う香水の香り。

 ……カガリさんの香りがかき消されてしまう。


「香水のにおいする」

「香水?」

「……嫌」


 そう、とカガリさんは答えた。

 ギシとベッドが揺れる。端っこに腰掛けたらしい。


「君はなにをしているの」

「なんもない……、あっちいけ」


 なぜか声を荒げてしまった。

 声が震えてるのに気付かれたかもしれない。

 ちょっと間を開けて、小さく笑う声。


「拗ねてるの?」

「すねてないです」

「おなか空いてる?」

「……すいてないです」

「困ったな」


 カガリさんは小さくため息をついた。

 全然困ってないみたいな言い方に悔しくなる。


「カガリさんのばか! あっちいけっ!」


 毛布にくるまったまま、僕はわめき散らした。

 余裕ある態度が気に入らない。

 僕はこんなにいっぱいいっぱいなのに。


「怒らないで、レギ。……可愛くて困る」


 カガリさんの気配。

 ベッドの上の方にきて僕の隣に横たわり耳元で囁いた。

 火が付いたみたいに顔が熱くなる。


 絡め取られたつもりで纏った毛布の上から包み込んでくる本物の腕。

 カガリさんの香りがした。

 顔を見せて、と僕が握り締めていた毛布を捲りあげられた。

 何もできず、枕に顔を埋めてうずくまる。


「……泣いたの?」

「泣いてない」


 いつもの抱き枕より密着した身体。

 嘘言ってもわかるよ、と目元に唇をそっと落とす。


「涙の味がする」

「うるさいっ、泣いてないったら!」


 両手で顔を隠して声を荒げるけど、もう誤魔化しようがない。

 なんのものなのかわからない涙はポロポロとこぼれ落ちる。


「ごめんね、寂しかったんだね」


 肯く。これ以上意地を張っても意味がない。


「……だって、カガリさんはメレさんのとこ行ったから。……わかってたけど、なんだかつらくなって……寂しくて……、苦しい、です」

「……彼女にはもう触れてはいないよ」


 唐突な告白に戸惑う。

 ……触れてない?



 ──そっか、そういうことなんだ



 するりと彼の腕から抜け出し、ベッドから降りて南の窓辺に立った。


 灯りのない暗い部屋。

 外の弱い光に、僕の身体が照らされる。


「カガリさん、僕を……見てください」


 内腿に伝う、一筋の雫。

 バイオノイドに本来なら有り得ない、自発的欲求の証拠。

 身体が、暴走してる。


「花が……開くのです」

「花?」

「大切な人の前でだけ、なんだそうです」


 たぶんそれは、僕の首筋から立つこの香りのことだ。

 他の人の前では絶対にしない、熟した苺のような甘い香り。昔、これは誘う香りだと教えてもらった。


「……あなたに触れてほしいと願う僕は……きたない、ですか?」


 ふ、と息を吐く。

 全身が小刻みに震えている。

 これはなんだろう。


 カガリさんの視線は、上から下へ全身をなぞる。

 人に見られるのなんて平気だったのに。

 服だって着ているのに。

 カガリさんの視線に耐えられない。

 自分から見せたことのないものを見せてる。

 逃げ出したくなる。


 ……僕……恥ずかしいんだ……


 ベッドから降りたカガリさんは僕の前に立ち、両手で僕の頬を包んだ。


「穢くなどない。──君はとても綺麗だ」


 カガリさんは静かに答えた。


 外で細い雨音がする。

 星が瞬く空から静かに降り注ぐ。


 僅かな沈黙の後、彼は迷いを吹っ切るように言った。


「……自然に求めることの何が穢いのか」


 そうして、いつもみたいな唇が軽く触れるだけではない、深いくちづけをくれた。


 窓の外、夜空に掛かる淡い色の月虹。

 それは『世界からの最高の祝福』と呼ばれる。


「愛して、いる」


 カガリさんが僕を抱きしめて、囁く。

 ああ。やっと……聞こえた。


「僕も、愛しています」

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