わたし 3 / エピローグ

 彼女は手提げの紙袋から、カップ型のチーズケーキを取り出して私にくれた。実は営業先に渡すものだったが、急に予定をキャンセルされたので、要らなくなってしまったと言う。下はタルト生地で、パクリと頬張ると中からクリームのチーズペーストがどろりと溶け出した。

 私たちは時間を忘れて語り合った。家族のこと、好きなアイドルのこと、何色が好きでどんな男の子が好きか、彼氏はどんな人なのか。

「私の彼氏はとても優しい人なんです。私にはもったいないぐらい」

「そんなことないわよ。あなたはとてもチャーミングだし、チーズケーキも美味しそうに食べる」

 私は恥ずかしくなって、ありがとうと言った。

「彼は例えば、私たちがドーナツを一つずつ買った時に、自然とそれぞれを半分個にして一個のドーナツにしてくれるタイプなんです」

「あなたが二種類の味を食べれるように」

「そう。お会計だって、ごめん奢れないから100円頂戴とか言うんですけど、割り勘にしたら本当は一人200円ぐらいのはずなんです」

「あなたが気を遣わないように」

 彼女は噛み締めるように私の話に耳を傾けていた。

 それに甘えて私は話を進める。

「でも私、彼とセックスもしたことがないんです」

「そんなに焦る年でもないでしょう。でもどうして?」

 私は横に首を振りながら、分からないと答えた。

「彼に経験はあるのかしら?」

「たぶんあると思います」

「たぶんって、それについて彼と話したことはないの?」

 おやつの時間を過ぎた公園には、子供たちが多く訪れていた。一人の少年が蹴ったサッカーボールがゆるやかに私たちの足元に転がってきた。私はそれを拾って少年の方へ向かって投げた。球は少年の頭上を大きく超え「お姉さん、強く投げすぎだよ」と少年に言われてしまった。

 彼女は苦笑いをしながら私の方を向いている。私はこう言った。

「昨日、彼と会ってしまったんです」

 ついさっきまで我慢できていた涙がまたこぼれてくる。私は行為が終わった後もよく涙を流していた。何事もない自室の寝床でも、漠然と涙を流すことが多々あった。わたしの涙に意味などないのかもしれない。しかしそれでも私は涙を流す。

 彼女に全てを話してしまった。高校一年生のころからネットで見ず知らずの男と出会うこと、週に一回身体を重ねていること、お金を貰っていること、そして昨日待ち合わせに現れた男が今の彼氏だったこと。

「彼、とても驚いたでしょ?」

「うん、とっても」

「それからあなたたちはどうしたの?」

「私たちお互いのこと認識してから、それから何も喋れずにそのまますれ違ったんです。でも約束の場所はホテルの前だったから、間違えるはずもなくて、偶然なはずもないんです」

「それじゃ、セックスをすることはなかったのね」と彼女は優しく言った。

「私は男性の顔写真ってあまり見ないから気づかなかったんですけど、彼はもともと私のことに気づいていたのかもしれない。私の暴走を確かめにきたのかもしれない」

「もしくはあなたに似た女性とセックスがしたかったのかもしれない」

「え?」

 私は驚いて彼女の顔を見返した。彼女は静かにどこか一点を見つめていた。


 性欲とは不思議なものだと思う。おのが命を守るために食事が必要ならば、性欲はその種の生殖活動のために必要な欲求であることは至極当たり前のことだ。しかし私の性欲は、エサの誘惑に負けた薄汚いネズミがネズミ捕りに挟まれながらも、届くことのない目の前のチーズに舌を伸ばす姿を彷彿とさせた。

 私と彼はおそらく愛し合っているはずなのに、一度も身体を重ねることなく(実際に私たちはキスもしたことがなかった)、その一方で見ず知らずの男女と身体の結合を繰り返していたのだろうか。

「私は今日も男と会おうとしてたんです。結局男には逃げられたけど」

 私自身の止まることのない性欲に恐怖を感じ、そして抗うこともできずに私は欲望に飲まれていく。彼女は悲しそうな顔をしてこう言った。

「私も自分の欲望には幾度となく傷つけられてきたから」

 彼女は身の回りのゴミを拾い集めて、それをチーズケーキの箱の中に詰め込んだ。

「ありがとう、今日は楽しかったわ。わたしもなんだか気分が晴れないとこだったから。今時の女の子が考えていることが知れてよかった」

 気がついたら涙も止まっていた。しかし彼女は私にハンカチを渡して、元気出してねと耳元で呟いた。ベンチで横並びに座っていた時には気づかなかったが、ほんのりとムスクの匂いがした。

「ねえ、お姉さんの欲望ってなんだったの?」

 私は立ち去ろうとする彼女の背中にそう問いかけた。

「私?私はね、恋がしたいという欲望よ」

 そう言って彼女は公園を後にした。



 インターホンが鳴り、玄関を開けるとそこには彼女が立っていた。

 彼女は笑顔でぼくを見つめる。今ぼくの目の前にいる女はゾンビかもしれないと思った。やっぱり火葬にしておくべきだったのだ。

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ドーナツ りゅう @ryu_kasa

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