吉野の山の後朝に

陸 なるみ

吉野の山の後朝に





 ――朝ぼらけ 有明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪  坂上是則――






 僧房そうぼうの厚い板壁の隙間を抜けて、薄明かりが入ってきていた。


「行かねばならぬ」


 小柄な割に鋼のように強い胸板が目の前で波打つ。




「まだ朝は浅い。外が明るいのは雪のせい」


 あたしは抗うように応えた。


「日より先に雪が足元を照らしてくれる。それを僥倖と時を稼がねば」


 思わずはだけた胸ぐらを掴んでいた。


「早う別れたいとは……」




 男は焦るでもなく鷹揚に微笑んだ。


「のう、しづ、名は捨てられぬか?」


 異母兄の不興を買って命を狙われている恋人が不可思議な問いを口にする。


「舞も捨てると言ってくれまいか」




 肌理の細かい肌を持ち、おみなごの振りも容易たやすかろうその笑顔は、悔しいことに眩しかった。だだをこねるようにぷいっとそっぽを向いて不貞腐れてみる。


「日の本一の白拍子との名を賜った妾から、舞を取ったら何も残らぬ」




 男は妾の下腹を撫でた。


「昨夜、お前のここに種を付けた。名と舞を捨て母を取れ」


「は?」


 恋人の言うことは、いつもよくはわからない。この人だけに見えていることがあるらしいとうっすら感じるばかりだ。




「これ以上は連れていけぬ。奥州で兵を纏めいくさをすることになる。落ち着いたら迎えに来る。それまで、本名を隠し一差しも舞わぬと約せ」




「……できませぬ」




「木こりの妻でも百姓の妻でもよい、身をやつして難を逃れよ」


 妾は鼻白んだ。


「白拍子は所詮遊び女、他の男の世話になれと?」


「我のややを育むためなら」


「赤児を宿したかどうかもわからぬうちに、そのようなこと……」


 後朝きぬぎぬ、それもこれを限りの別れとなるだろう朝に、何と興醒めな情けないことをいうのだろうか。




「母は妾に、身を守るために芸を仕込んだ。一流の舞手になれれば選り好みもできる、くだらない男にまみれなくて良いと」


「ああ、禅師さまは正しかった。その儀は我が身が証となれる」


 妾の、初めての夜を思い出してにやける男に嫌みを言うことにした。


「九朗様がくだらない男かどうかは別として」




「くだらなくはあるな。お前は兄弟喧嘩に巻き込まれたのだから……」


 恋人は肘をついたまま妾の下唇を親指でなぞる。妙にじれったくて質問に替えた。


「なぜ兄上様はこうも九朗様を目の敵にする?」


「兄弟だからであろう。兄上は人の情けを避けて通ろうとされる。我は逆に他人に支えられて在ると知っておる。その違いのみ」




 下から見上げる綺麗な顔は瞬間歪んで薄い笑顔に変わった。


「日の本一の白拍子はこの九朗のものと知れ渡っている。名を騙ってもお前が舞の踏み足始めれば、静だと見抜かれてしまう。兄はお前を捕まえたら、どうするかわからない」




 そんなことに怖気づくと思われる方が心外だ。貧乏人から権力者まで男どもの思惑に使われ乗られ踊らされるが白拍子。その中を母とふたり矜持を保って生き抜いてきた。


「妾は白拍子を母に持ち歌舞に専心した者、木こりや百姓の真似ができるはずもない。それをいうなら九朗様こそ源の名を捨てれば良い」




「それがそうもいかぬようでな。我を慕うものが多過ぎる。兄上と違って、我が周りは損得抜きで集まった者ばかりだから」




 共に逃げて木こりをしてくれるわけでもない。


 妾もよよと泣き崩れる可愛い女子おなごなどに、急にはなれぬ。


 九朗判官の室としての気概を忘れるなと言ってくれたほうが余程助かる。覚悟した別離を取り乱さずに受け容れられるというのに。




「ここに我の分身を宿してもだめか?」


「分身は九朗様そのものではない」




 隣のぼうとの扉がガタリと鳴った。弁慶という名の偉丈夫が、山伏衣装を手に入ってくる。


 恋人は立ち上がると、慌てて身づくろいをする妾を見下ろした。




「吉野の山を抜けるか、大峰を行くか、お前がついて来られぬよう、女人結界門でも潜るかな」




 最後にもう一度微笑むと恋人は僧房を後にした。




 弁慶が「京への足代あしだい雑色ぞうしきに渡してあるから母上の元へ戻るように」と話しかけていたように思う。




 妾は余りのあっけなさに呆然とし、雪の上に点々と続く足跡を眺めるしかなかった。




 ――これを辿れば追いつける、あしあとは妾を九朗様まで案内あないしてくれる。雪がさらに降り積もり跡を消してしまうまで、あのひとと妾を繋いでいてくれる。




 思いが胸の中に結実すると、じっとしていられなかった。同行を許されないならせめて気の済むまで追いたい。




 雪上の痕跡を頼りに山を登った。上に行くほど雪は厚く、森の下萌えも深まった。身体の半分も雪や羊歯に埋まり、両手両膝をついて進む姿は獣にしか見えぬ。


 もう冷たさも痛みも感じなかった。濡れた着物が全身の感覚を奪う。




 しばし魂が抜けた時を過ごしたらしい。気がつけば足跡も見えない漆黒の闇にいた。




 ――断崖絶壁をも馬で駆け降りたような男を追うものではない。わかっていたことだ。だから好きになったのだから。




 妾はつんのめり、まろびながら傾斜の緩いほう、緩いほうへと降りた。


 濡れそぼった衣に振り乱した髪、妾を見つけた僧兵たちは異形の者を見たと思ったようだ。蔵王堂の近くまで降りてきていたらしい。




 あの僧房に用意されていたなけなしの金も雑色どもが懐中に入れたことだろう。女独り逃れようもない。妾は「九朗判官の妾だ」と名乗り、僧兵たちに従った。








 ――吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき  静御前――






 妾は母と共に京から鎌倉に送られ、執拗な詮議を受けていた。


 九朗様の行方について何度も何度も同じことを訊く。答える度に前回と話が違うと罵る。東国武士とやらはどうにも品が足らぬ。


 鞍馬育ちのあのひととは全くもって毛色が違う。




 あのひとが予言したように、妾は確かに身籠っていた。


 母と一緒に安達の屋敷に身を寄せつわりも乗り切り、人並みの暮らしはさせてもらっていたが、舞を見せろとの鎌倉様の再三の命には、のらりくらり、あることないこと理由を付けて断っていた。




 ――あのひとを追い落とした男のために、何故舞わねばならない?




 憎しみの方が募ってくる。


 だが、ある春の日、ほとんど引き摺られるようにして鶴岡八幡宮に連れ出された。鎌倉様と御台様が参詣されるから、衆目環視の中で踊れと。




 水干衣装に目立ってきた腹を隠し、吉野の雪跡を追った夜を謡い踊った。そして、あのひとが妾を「しづ」と呼ぶ声を思い出し、「しづやしづ しづのをだまきくり返し 昔を今になすよしもがな」と唱えながらの扇舞。


 日の本一のこのしづかの、一世一代の舞台となったと自負している。




 舞に嘘は乗せられない。技巧は優れていても、思いの入らない舞が人心を掌握することはない。


「人の情けを避ける兄上様」に女子おなごの恋の激しさを突きつけて差し上げたのだが、やはり九朗様の言葉は正しかった。


 無理矢理舞わせておきながら、「謀反人を恋う」と咎め立てする。真情吐露の舞でさえ、その心も趣も届かぬ冷血漢であった。




 しかし、より恐ろしいのは御台所様のように思えた。


 我が舞に涙浮かべて感動し夫に妾の命乞いをしてくださりながら、それを後々の取引に使えると思し召す。ここで恩を売っておき、のちに「居場所を教えてくれたら想いびとに逢わせてあげましょう」などと言い出しかねない。




 その懸念は今になって明らかになった。


 妾は潮風の吹き荒ぶ中、由比ヶ浜を右に左に彷徨っている。端から端まで、そしてまたこちらからあちらへ。


 妾のややが沈められたから。どこぞに漂っているから。母の羊水から海水へと投げ込まれたから。


 九朗様の男児が。


 あのひとに似た綺麗なお顔になったであろうに。


 小柄であっても俊敏に動き、他人に優しく笑いかけ、思いを熱く語ったであろうに。




 御台所様はもう何日も正体なく浜を歩く妾に多額の金品を用意させて言った。


「さあ、京へ戻られませ。ここは悲しき思い出ばかりでしょう」


 その言葉の真の無さ。実の薄さよ。


 赤児を殺されて金品を喜ぶ母がどこにいようぞ?


 同じく母であれば、どれほど宝を積まれようと立ち去れぬとわかりそうなものだ。




 鎌倉様を宥め、男児であっても生かせと嘆願してくださった由。


「私は嘆願しますが、あなたさまは聞き入れてはなりませんよ」


 夫婦の褥でそのような会話でもあったのだろう。


未来さきに禍根を残してはなりません。十分な富を与えて京へ帰しますから……」


 それが女のまつりごとだ。




 妾は一際高くなった波に目をやった。


「おまえを守ってやれなかったのはこの母の不徳。あのひとが言われたように、名もなき百姓女にでも化けておけばよかった。妾が足跡を追わなければ。捕まって名乗らなければ。どこかへ身を隠し妾が踊らなければ……」




 波打ち際に両膝をつく。


「自分を棄てられなかった愚かな母を許せ。あの後朝に、二度と逢えぬあの別れのきわに、恋する女から母に転身しろというのは、むごいことであると、そう容易くできるものではないと、女にも母になるには心整える間が必要であると……、それだけは……わかって……ほしい……」




「母に……なる、のが、遅、すぎた……」






 浜を抜ける強い風は、慟哭を乗せ吹き続けている。










―了―

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