聖なる円形

 平日の昼を少し回った時間、地下鉄の車内は空いていた。座席が五割ほど埋まっている程度で、田口は易々と座席に腰を下ろすことができた。

 田口の家がある藤丘は終点だ。考えに集中するあまり乗り過ごす心配はない。藤丘まで、駅数で八駅、時間でいうと二十分。それが思考を整理するために田口に与えられた時間だった。

 その限られた時間で、田口は思考を巡らせる。

 母がレシピ帳を隠すとしたら部屋のどこだろうか。リビングやキッチンにあったなら、今まで誰かが気づいたはずだ。そう考えると、最も疑わしきは、二階の母の自室である。 

 母が亡くなった時から、部屋は手つかずのまま残してある。部屋はもともと両親の寝室として使われていたが、母の死後、父が客間に寝室を移したからだ。だから父の私物を除けば、部屋から持ち出されたものはなかった、と田口は記憶している。ならば母のレシピ帳も、部屋のどこかに残されているとみて間違いない。

 続いて田口は、部屋の間取りを思い描いた。

 部屋に入った右手には、クローゼットと母の化粧台。左手には、ベッドが二つ並んでいる。クローゼットやベッドは、父が触れる可能性も捨てきれない。そうなるとやはり、母しか使わない化粧台という線が有力だろう。

 化粧台には一体型の引き出しと移動可能なキャビネットが付属していたはずだ。母が引き出しから宝飾品を取り出す姿を、幼い頃に見た記憶が残っている。引き出しにはたくさんの宝飾品が仕舞われていて、子供心にキラキラ光るそれらに興奮した記憶が鮮明に残っていた。だがその一方で、キャビネットの中を見た記憶は曖昧だ。

 レシピ帳はキャビネットの中にあるのだろうか。

 そうこうしているうちに、車内アナウンスが到着を告げていた。

 ただでさえ少なかった乗客は、すっかり姿を消している。田口は早足に電車を降り、改札を抜けた。

 駅から家までは、田口の足で十五分。駅の構内を抜け、外へ続く階段を上りきれば、まばゆい光が田口を襲う。目が慣れるまで田口はゆっくりと歩を進めたが、目が慣れてくるといつしかそれは駆け足になっていた。

 そして、家に辿りついた頃には、額に汗が浮かび、汗を吸った衣服はすっかり重たくなっていた。だが、シャワーを浴びる時間も、着替えを済ませる時間も惜しい。田口は乱暴にスニーカーを脱ぎ捨て、玄関を抜ける。向かうは二階――階段を上って廊下を進んだ突き当たりが、目的の部屋であった。

田口がその部屋のドアを開けると、中からは埃と湿気の入り混じった空気が流れだした。父が休日に時間を見つけては掃除機をかけているが、それでも人が使用していない部屋は独特の臭いがする。

 田口はそれを気にせず、化粧台に足を向けた。キャビネットや鏡の上はうっすらと白い埃で覆われている。田口がキャビネットの中を探るために身を屈めると、その息遣いに合わせて埃が宙を舞った。キャビネットを開いた瞬間、田口はその埃を思いっきり吸い込み、咳き込んだ。

「うわ、埃っぽ……」

 田口は悪態をついて顔を背けかけたが、視界の片隅を掠めた物の存在に、その動きを止める。今まで咳き込んでいたのが嘘のように、田口はその一瞬、息をするのも忘れた。

 そこに入っていたのは、十数冊にも及ぶノートだった。

 それは何の変哲もない大学ノートだったが、母がそれらを使う必要性はレシピを記す以外に思い至らない。

 田口は、恐る恐るノートを手に取った。表紙に記されているのは、そのノートを使用した期間だろう。そして手から伝わる感触は、思いのほか重い。紙を貼り付けてあるページもあるようだから厚みもある。そのままノートを開けば、それはやはりレシピ帳だった。

少しページをめくると、田口の焦がれたチキンカレーのレシピもあった。

「懐かしいな……」

思わず懐かしさが声に出た田口は、呟いた後、首を傾げた。そのレシピ帳は、田口が思い描いていたものとどこか違う。見開きの左ページには通常通り、母の小奇麗な筆跡でレシピが記されているが、問題は右ページだ。

 田口はそこに記されている字を目で追って、目頭が熱くなるのを感じだ。


『亮平五歳。玉ねぎ嫌いの亮平も、喜んで食べてくれた。このチキンカレーは気に入ってくれたみたい。これを機に、玉ねぎ嫌いが直るとよいんだけど……。』


 チキンカレーの右ページには、そう記されている。田口がさらにページをめくれば、他のレシピにも同じような書き込みがあった。田口自身のことであったり、父のことであったり、その一言、一言に母の思いが込められていることは明らかだ。

 まるで日記帳のようだ――と田口は思った。

 事実、それがレシピ帳であると同時に日記帳であるなら、母がレシピ帳を見せたがらなかった理由にもなる。

 このレシピ帳には、レシピの数だけ母の思いが綴られている。

 母は今までどんな思いで料理を作ってきたのか。そして亡くなる直前までどんな思いでいたのか。

 そんなことを考えながら田口は、一番真新しいノートを手に取った。といっても、表紙の日付は五年前から始まっている。ページを順にめくっていけば、五ページと進まないうちに目的とするティラミスのレシピは見つかった。そこには、印刷された紙が貼りつけてある。ティラミスという文字の上にはアンジェの文字。それは先程、店で目にしたレシピと同じ形式をとっていた。間違いなくアンジェのレシピであることは明らかだ。

「母さんは、あの人のお菓子教室に通ってたんだ」

 これだけ証拠が揃えば、それはもはや確信だった。店主が母のレシピを使っていたのではない。母が店主からレシピを授かっていたのだ。もしかしたら、四、五年前の母の思い出の味の多くが、店主のレシピにより形成されてきたのかもしれない。

 田口はそれを知るために、次々にページをめくる。プリンにミルフィユ、ジャムにロールケーキ。田口が母の手作りの味として口にしたレシピがいくつも、アンジェの文字と共に貼りつけてあった。その一つ一つに思い出がある。その右ページはどれもが母の文字で埋まっていた。田口はそれを懸命に目で追った。

 そして、最後のページに行きついた頃、田口はようやくその手を止めた。

 そこには、アンジェの文字の入ったショートケーキのレシピと一枚の写真が挟まれていた。

 田口はその写真に見覚えがあった。それは田口の高校入学記念に、制服を着て撮った家族写真である。椅子に座った母を囲む形で、田口と父が立っている。現像された写真を見た母は、父と田口の身長差がなくなったことに心底驚いていたはずだ。だが、ショートケーキには覚えがない。田口が記憶している限りで、母がショートケーキを作ってくれたことは、一度としてなかったはずだ。それを証明するように、その右ページは空白である。

 母が亡くなったために、作られることがなかったレシピなのだろう。田口はそう結論づけた。

 よく考えてみれば、母はホールケーキ自体を焼いたことがなかった。田口の記憶に残るケーキといえば、パウンドケーキやロールケーキが主だった。田口の誕生日ですら、クリスマスが近いことから、ブッシュドノエルだったはずだ。

 そんな母がどんな思いでこのケーキを焼こうと考えたのだろうか。

 それを考えた時、田口の脳裏に浮かんだのは店主の顔だった。

 あの人なら何かを知っているかもしれない。

 田口はレシピ帳を手に立ちあがった。





 田口は再び電車に飛び乗り、アンジェに辿りついた。店に飛び込んだ頃には、店内は砂糖の甘い香りで満ちていた。田口が店を出てから二時間ほど経過している。カウンターの上をはじめ、テーブルはドラジェがのったバットで覆われている。どうやら川村さんは、ドラジェに居場所を占領されて帰ってしまったようだ。例のカップルはフロアの端で、作り終えたドラジェの包装を行っている。けれどその中に、店主の姿はない。

 田口は二人に店主の居所を尋ねようとしたが、彼女はタイミングよくキッチンから姿を現した。彼女は田口の姿を見て足を止め、手にあるノートに目を細めた。

「見つけたんだね」

 まるで母のレシピ帳の存在を知っていたような、そんな口ぶりである。

 母はここにレシピ帳を持ち込んでいたのだろう。だとすると、田口が欲しい答えを店主が持っている可能性がぐんと高くなる。そしてレシピ帳と共にあの写真を見たことがあったのなら、田口の顔と名前を知っていたことにも納得がいく。

「川村さんが帰り際に少年の様子を教えてくれたから、気づいたのだろうな、とは思ったけれど、こんなに早く答えを見つけてくるとは思わなかったよ」

「母はあんたにお菓子作りを教わっていたんですね」

 一拍置いて店主は頷き、「賭けは君の勝ちだね、少年」と微笑んだ。

 そこでようやく田口は、賭けのことを思い出した。母のレシピ帳を読むのに一生懸命になるあまり、田口は店を出るまで覚えていたはずの賭けをすっかり忘れていたのだ。賭けが終われば、この店に逃げ込むための理由も失ってしまう。だがそれでも田口には、聞かなければならないことがある。

「賭けのことよりも、あんたには聞きたいことがあるんだ」

「何をだい?」

「決してホールケーキを焼くことがなかった母が、どんな思いでショートケーキを作ろうとしていたのかを」

 店主は、その質問を予測していたかのように笑みを深くした。

 田口はごくりとつばを飲む。

「私にはモットーがあってね。特別なことがない限り、ホールケーキは焼かないんだ。だからお菓子教室でも教えてこなかった。けれど少年の母親、祥子さんはそれを不思議に思ったんだろうね。一年ほど経った頃、彼女は私に尋ねてきたよ」

「それであんたはなんて答えたんだ?」

「ありのままを。聖なる円形の秘密を」

「聖なる円形の秘密?」

 田口はホールケーキの形を思い浮かべて、首を傾げた。

「少年がキリスト教徒でないならわからないだろうけど、ホールケーキは切り分ける時に必ず十字にナイフを入れることになるだろ。だから特別な日に焼く特別なお菓子だったんだ」

「だけどあんたは、その特別なレシピを母さんに教えただろ?」

「祥子さんはね、君と旦那さんと一緒に撮った写真を見せて私に言ったんだ。君の誕生日は十二月だろう。誕生日祝いと受験の成功を願って、ホールケーキを焼いてやりたい、とね。だから私は彼女に、ショートケーキのレシピを教えた。残念ながら、新聞で交通事故の記事を見て、レシピが使われることなく終ってしまったことを知ったけれど」

 店主は当時のことを思い出したのか、目を伏せた。それは悲しみを表しているようでもあるし、後悔をしているようでもあった。

 田口は交通事故で母を亡くした日のことを思い出して、目の奥が熱くなるのを感じたが、目をそらすことなくその心情を問う。

「あんたはそれで後悔したのか?」

 店主は顔をあげ、瞬きをした。

「いや、後悔とは違うよ。でも、このままではいけないとずっと悩んでいた。だからあの日、君に出会えたことに私は心底驚いた。同時に、今まで抱いていた思いを払拭するチャンスだとも思ったんだ」

 田口は店主と出会った日のことを思い出す。顔を確認した後に態度が変わったのは、その思いがあったためなのだろう。そうでなければ、いくら知り合いの息子であったとしても、軽々しく店に招き入れない。だがそれならば、店に招いた後、正直に話してくれれば事足りたはずだ。賭けという回りくどい方法をとったことがどうも引っかかる。

 田口がそれを尋ねれば、店主は首を横に振った。

「人から言われて気づくのと、自分から気づくのとでは大きな違いがあるんだよ。だから少年には、自分から祥子さんの残したものに気づいて欲しかった。ティラミスを出した時の反応で、少年がレシピ帳のことを知らないのは明白だったからね」

「じゃあ、デザートを出してくれたのもわざとだったんだな」

 店主は田口の言葉に唇に弧を描いた。それは肯定の証である。田口が眉間に皺を寄せると、店主の口からは笑い声がもれた。

 確かに店主が切欠を与えてくれなければ、レシピ帳に残された数々の母の思いに気づくことはなかっただろう。

「あの時は本当に驚いたんだぞ」

 田口が非難を込めてと言うと、店主は「ごめん、ごめん」と謝罪を口にして言葉を続けた。

「でも、ちゃんと埋め合わせはするつもりでいたよ。さて、少年は私の言った賭けの内容を覚えているかい」

 田口は店主の言葉に目を瞬かせる。

「俺が勝ったら、大切なものをくれるってあれか?」

「そうだよ。それが私にできる最後のことだ。少年はいらないと言うかもしれないけれど、私が何を与えようとしていたのか、見てからでも遅くはないだろ」

 確かに内容も知らずに辞退するのは惜しいかもしれない。店主のことだ、きっとなにもかも考えた末のことなのだろう。田口はその言葉に頷いた。それに満足そうに頷き返して、店主は手招きをする。

「とりあえずキッチンにおいで」

 なぜキッチンなのか、田口には予測がつかなかった。けれどキッチンに足を踏み入れた瞬間、田口はすぐにその言葉の意味を悟った。

 五帖ぐらいのキッチンには、中央を立ち位置に手前側にシンクとコンロ、奥には銀色の作業台とオーブン、冷蔵庫といったものが設置してある。作業台の上には銀色の戸棚が備え付けてあり、材料や型といったものが仕舞われているのが確認できた。だがその中で、丸型やボールといった一部の器具だけが作業台の上に置かれている。ボールの中には計量された小麦粉や砂糖が入っているようだから、今からお菓子を作ろうというのは明白だった。

「俺にお菓子を作れとでもいうのか?」

 田口が問えば、店主は隣に立つ田口の手からレシピ帳を取った。田口が奪い返そうとするも、器用にその手を擦り抜けて、彼女はレシピ帳をめくる。

 そうして開いたページは、空白のあるショートケーキのページだった。彼女は写真とレシピが落ちないように手で押さえながら、そのページを田口に見えるように示してみせた。

「この右ページに思い出を書き込んでみたいとは思わないかい」

「それがあんたのいう大切なものなのか?」

「手作り料理は、人に大切な思い出を与えてくれる。それが私の持論だよ」

 店主はレシピ帳を作業台の上に置いた。

「お父様に祥子さんの味を届けてあげたらどうだい」

 母の味もなにも、田口も父も母のショートケーキを一度として口にしたことはない。それでもきっと、それは母の味といえるのだろう。不思議と田口はそんな気がした。

 だから店主の言葉に、田口の頬は自然と緩む。それを隠すように田口は、ボールを手に取った。

「で、なにからすればいいんだ」

 ぶっきらぼうなその物言いに、店主の目尻に皺が寄る。田口の照れ隠しはお見通しなのだろう。店主は笑いをこらえているようであったが、声音からは親しみが滲み出ていた。

「粉の計量は終えてあるから、まずは卵をほぐして、そこに砂糖を加えていくんだ」

「こんな感じか?」

 店主の指示に従って、田口は順に材料を混ぜ合わせていく。

 母もこんなふうに店主に作り方を学んだのだろう。甘い香りと包まれて、田口は母の笑顔を思い出した。母がいつも料理を出す時、決まって浮かべていた笑顔だ。母の優しさに触れたような気がして、泣きたいような、けれど決して悲しくはない温かな気持ちが田口を支配した。料理は食べる側だけでなく、作る側にも幸せを運んでくるのかもしれない。

「少年?」

 あとは型に生地を流し込むだけの状態になって手を止めた田口に、店主は訝しそうに声を掛けた。田口は熱くなった瞼を強く閉じて、その感情をやり過ごし、

「なんでもない。そこの円型とってもらっていいか」

 と店主の方を向く。その表情に何かを察したのだろう。店主は、

「聖なる円形にどんな願いを込めるんだい?」

 と満足そうに微笑んだ。その問いには答えず、田口は黙って悪戯っぽく笑った。

 それは田口のせめてもの反撃であり、意趣返しだった。それを教えてしまっては、負けを認めてしまったことになる。

 型に生地を流し込みながら田口は思う。自らの手でお菓子を作り出すことがこんなにも温かな気持ちにしてくれるものだとは知らなかった。それは母の思いを知ったからなのか、食べてくれる人のことを考えて作るからなのか、田口にはわからない。

 けれど、一つだけ心に決めたことがある。

 調理師免許を取りたい。大学を卒業したら一生懸命働いてお金を貯めて、いつか――店主のように思い出を届けられる店を持とう。そして母の残したレシピで、母のように思いのこもった料理を作りたい。

 田口が聖なる円形に込めた願いは、その夢が叶うことであった。


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砂糖菓子のレシピ メグ @color_aqua

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