幸福の種
スコーンの一件からただ一つわかったのは、店主の作り出すお菓子が、客に幸福をもたらしているということだけだ。
店先に掲げられた「思い出の味お届けします」の言葉には、種も仕掛けもないのかもしれない。あの一件から半月も経てば、田口はそんな考えすら浮かぶようになっていた。
何より、店主が届ける思い出の味が客の心を豊かにしていることは、田口がその目で確認している。あの一件の三日後、店で顔を合わせた川村が、スコーンを頬張り穏やかに笑ったのを思い出して、田口は誰かを幸福にできる仕事を生業とすることの意味を噛み締めた。
しかし、だからといって母のレシピの謎も明かされたわけでもなく、田口自身の悩みが晴れたわけでもない。それどころか、少しずつ増す暑さに、体だけでなく心までも蝕まれ始めている。夏が終われば、この猶予期間もあとわずかになってしまう。店主に小言を言われることは、もはやわかりきっていながらも、田口は賭けの内容を言い訳に、今日もアンジェに逃げ場を求めた。
だが訪れてみれば、今日のアンジェはどうも様子が違う。店の前に掲げられているはずの看板が出ていない。
もしかして休みなのか、と田口は不思議に思った。今まで看板が出ていなかったのは彼が知る限り、定休日である日曜くらいだ。したがってそれは、田口の中で店の休みの証と位置付けられている。だが、今日は水曜日。定休日ではないはずだ。
田口は首を傾げながら店のドアノブに手を掛けた。内に向かって軽く押せば、ドアに鍵は掛かっていない。ドアの隙間からはいつも通り、コーヒーとバターの香りが漂ってくる。きっと看板を出し忘れていただけなのだろう。
そう結論づけてしまえば気が楽になった。しかしドアをくぐったその瞬間、目の前に広がった光景に唖然とした。
いつも客は決して多くない。それでもいつもはテーブル席が一つ二つうまっているはずだ。けれど今日はそのテーブル席の配置ががらりと変わっている。椅子は壁際に追いやられ、一定の距離を保って配置されていたテーブルは、距離を置かずフロアの中央に固められている。そのテーブルの上に、ボールやトレイといったお菓子作り欠かせない器具が並び、さらにその横には、ガスボンベをさした簡易式のガスコンロと、いくつかの小瓶の存在が確認できる。
それは明らかに、お菓子作りの準備であるように見える。
「いったい今から何を作ろうっていうんだ?」
大掛かりな準備に、田口が思わず呟けば、「おや、店の看板は片づけていたはずだけど、入ってきてしまったのかい」とカウンター席に座っていた川村が溜息をついたのが聞こえた。
「川村さん……」
困ったように訳もわからず川村の名を呼べば、わけもわからず突っ立って田口に向かって川村が手招きをする。
「そんなところで呆けてないで、こちらにおいで」
それにつられて田口がカウンターまで近づくと、彼の左隣には、いつもはテーブル席に着いているはずの男が一人、コーヒーを啜っていた。三十歳くらいのその男は、この暑い中、ネクタイをしっかり締めて、額には汗が滲んでいる。しかしそれを気にした様子はない。いつもと違う座席が落ち着かないのか、どこかそわそわと、キッチンの入り口と手元のコーヒーカップに交互に視線を向けている。
男がこちらに気づいていない様子だったので、田口は川村にのみ挨拶をしてその右隣に腰を下ろした。 いつもはこのタイミングで、店主が水の入ったコップを出してくれるのだが、今日はそれがない。田口はそこでようやく、カウンターの中に店主の姿がないことに気がついた。どうやらテーブルの配置に気を取られ、店主の声がしなかったことにすら気づかなかったらしい。
田口はこの状況の真相を知っているだろう川村を見やった。
「あの人は今どこに?」
「キッチンだよ」
その答えに田口は眉を寄せる。ケーキの盛り付けなど、彼女がキッチンへ姿を消すことは多い。それでもテーブル席をあんな状態で放置して、いったい何をしていているというのか。田口には理解し難いことだ。ましてや、客の来訪にも出てくる気配がないのは珍しい。キッチンはさほど大きくないようだから、客の声や気配も伝わっているはずだ。
田口がキッチンに気を向ければ、確かに中で動いている気配がする。それも一つではなく、二つあるようだ。
店主の他に誰かいるのだろうか。
それに首を傾げながら、田口は川村に、先程抱いた疑問を口にした。
「テーブル席はあんな状態だし、あの人は出てくる気配がないし、いったい何を始めるっていうんです?」
「まあ、見ての通りお菓子作りだろうね。私はこうして、スコーンとコーヒーにありつけたけれど、私が店を訪れて間もないうちに、臨時休業状態さ。もうしばらくしたらメイさんが出てくると思うから、詳しくは彼女に聞いてごらん」
「じゃあ今日のコーヒーはお預けか……」
肩を落とした田口の姿を見て、川村が喉の奥を鳴らして笑う。田口は川村がそのような笑い方をするのを始めて見た。思えば川村とこうして店主抜きで話すのは初めてのことである。
川村はとても気さくで話しやすいから、昔馴染みのような錯覚に陥りそうだった。
「そういえば、川村さんとこうして二人でお話しするのは初めてですね」
「そうだね。メイさんを挟んでばかりだったかな」
店主が席を外している――これはもしかしたらチャンスなのではないだろうか。
川村の穏やかな声を聞きながら田口は、悩みを一人で抱え込むよりも人に話を聞いてもらうべきだという店主の言葉を思い出した。店主には話し辛いことでも、川村ならきっと嫌な顔せず聞いてくれる気がする。
「あの、実は俺、川村さんに聞いて欲しい話があるんです」
その言葉に川村は首を傾げる。田口は意を決し、
「本当は父に相談するべきなんでしょうが、忙しい父にはどうも切り出せなくて……」
と言葉を続けた。すると川村は驚いたように目を瞬かせたが、すぐに表情を変え、「ほう、私でよければ」と微笑みを浮かべた。田口は一度大きく深呼吸をして話を始める。
「俺は大学四年生で、本来なら内定をもらうまで就活に奔走しているような時期なんです。でも俺、どうしてもこのままではいけないような気がして」
「でも、一生懸命勉強してきたのだろう?」
「それなりに勉強はしてきたつもりです。だけど、それがやりたいことに結びつくかというと、そうでないような気がして……。夢を持って頑張っているあの人に比べると、今までの自分の頑張りは、ちっぽけなものだったんじゃないかって思ってしまうんです」
「君は夢を持って頑張っているメイさんが羨ましいのだね」
川村に心中を言い当てられ、田口は瞬きをした。流石に歳の功というべきか川村は鋭い。
「……俺も、あの人のように夢を持った生き方がしたいのだと思います。だけど、その肝心の夢がわからない」
田口の言葉に川村は、半ば独り言のようにつぶやきをもらす。
「通りで私が店に来る度に君をみかけたわけだ」
「どういう意味ですか?」
「おや無意識かい? 君は店にいる時ずっとメイさんを見ていたからね。今の話を聞いて、私はてっきり君がこの店に出入りしているのは、メイさんから夢を見つける切欠を得ようとしてのことだと思ったのだけれど」
思ってもみない答えに、田口は言葉に詰まる。自分がこの店に出入りしているのは賭けのことがあったからだ。しかし最初はその理由があったとしても、店で得られる情報がなかった時点で調べる手段を変えることもできたはずだった。それこそ、この間川村に進めたインターネットという手段もある。だが田口がそれをせず店にいることを選んだのは、ここが逃げ場所である以前に、自身にとっての価値を見出したからなのかもしれなかった。
「俺、そんなにあの人を見てましたか?」
田口は川村の返答を待った。
しかし間が悪いことに、それは店主の声によって遮られた。
「あれ、少年、来ていたのかい?」
声の方を見やれば、店主はいつものごとく白いシャツに黒い綿パンという出で立ちで、茶色の中味が入った大きなガラス瓶を抱え、キッチンから出てきたところだった。店主はこちらに興味を示したのか、その瓶を一旦カウンター上に置いて言葉を続ける。
「お休みってことで板も取り下げておいたはずなのになぁ。それにしても川村さんと何を話していたんだい?」
まさか店主の話をしていたとは言えない。その上、痛いところを突かれた田口は、それを誤魔化すように言葉を発した。
「そんなことより、一体何りなんだよ」
「幸福の種を作るんだよ」
「幸福の種?」
「そう、幸せを掴んだ女性が、その幸せをお裾分けするために配るお菓子だよ
返された答えに、田口の疑問はさらに増す。
「幸せを掴んだ女性となると、あんた、何かよいことでもあったのか」
「私もそうだと嬉しんだけどね。だけど今回は、残念ながら私のことじゃないんだ」
「じゃあ誰が……」
田口の問いに店主は、川村の左隣に座る男に視線をやった。女性と限定しながら彼に視線をやる意味がわからず、田口は再度首を傾げる。それに店主は苦笑を浮かべた。
「意味がわからないという顔をしているね」
「女性と言っておきながら、これじゃあ混乱するに決まってるだろ」
「はは、正確には、その女性のパートナーが彼だと補足しておこうか」
「パートナー?」
田口がオウム返しに言葉を口にした、ちょうどその時、
「智子、手伝うよ」と、男が音をたてて立ち上がった。
田口が驚いて視線を向けると、キッチンから姿を現したのは、黒髪をシュシュで結いあげた見知らぬ女だった。その女性は店主より少し若い。
田口が感じた気配が二つあったのは、どうやらその女性が原因らしい。そこで田口は彼女を目で追った。
彼女は青いシャツワンピースの上に、花柄のエプロンを身につけている。それは明らかに客がするような出で立ちではなかった。そして、その両手に店主と同じ三十センチくらいのガラス瓶を抱えている。よくよく凝視すると、その中味はオレンジ色がかった沢山の木の実のようだった。
あれはアーモンドだろうか。
田口がそれを認識する合間に、男は若い女に駆け寄って、その大きな瓶を受け取った。どうやら、店主のいう幸せを掴んだ女性とは彼女のことらしい。男がカウンター席でそわそわしていたのは、彼女がなかなか姿を現さなかったからなのだろう。
そんな彼らのやりとりに微笑ましそうに目を細めた店主は、再び田口に目を向け、声をあげた。
「少年も突っ立ってないで、手伝いなさい」
「何で俺が……」
「女性が大きな荷物を抱えていて、何も思わないのかい」
出会った当初なら進んで手を貸しただろうが、彼女に散々小言をいわれるようになった身としては、素直に手を貸す気にはならない。
まったく動く気配のない田口に、続けて声をかけたのは川村だった。
「亮平君、私の代わりに彼女に手を貸してあげてください」
川村は足が不自由だから、手伝いたくても手を貸せないのだろう。流石の田口も、その言葉には動かざるを得ない。
田口は席を立つと、店主のもとへ向かい、渋々その手から瓶を受け取った。
「あそこのテーブルに運べばいいのか?」
店主はそれに頷くことで返して、自分は早々にテーブルへと足を向ける。
瓶自体は成人男性にとっては大して重いものではなかったが、この大きさがあれば足元も見えづらい。田口はテーブル席とカウンター席を隔てる段差を慎重におりて、テーブルに瓶を置いた。
その横には同じように、男の手によって瓶が置かれる。瓶の中に入っているアーモンドの数は軽く千を超えそうだ。瓶二つ合わせれば、三千粒以上の数になるだろう。
こんなに沢山のアーモンドを、田口は見たことがなかった。
テーブルの上に準備された器具から、このアーモンドで何かを作ろうというのはわかる。しかし、材料は見たところ、これと砂糖だけだ。たったそれだけで作り出せるものが、田口には思いつかない。ましてや作ったところで、この数をいったいどう処理するのか想像もつかなかった。友人知人に配るにしてもたかが知れているし、自分で食べきれる量でもない。
田口は自ら沢山のアーモンドを頬張る姿を想像して、眉を寄せた。
「材料はアーモンドと砂糖だけだろ。こんなにたくさんのアーモンドからどうやって幸福の種ができるっていうんだよ?」
「あら、幸福の種を知っているなんてなかなかロマンチストなのね」
田口の言葉を聞いて、瓶を運び終えた男の隣に寄り添うように身を寄せた女性から、軽やかな笑い声があがる。
「少年がロマンチストねぇ」と店主も釣られて笑い声をあげた。そんな彼女達の様子に、田口は隣に立つ男と顔を見合わせる。女性というものは時に理解し難いことがある。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ない」
男は田口に謝罪を口にした。こうして近くでみると、服装はしっかりしているし、眼鏡の奥から覗く目は優しい。言動からも察することができるように、大学生である田口の周囲にはいない誠実な男のようだった。田口も自然と彼に好感が持てた。
なので、田口は迷わずその疑問を言葉にすることができた。
「いえ、あの人の言動には慣れましたから。ところで、気になることがあるんですが」
「僕に答えられることかい?」
「はい。あの人は、幸せを掴んだ女性のパートナーがあなただと言っていました。そんなあなただからお聞きします。彼女の掴んだ幸せとはいったい何なのですか?」
男は目を瞬かせた後、「僕らはもうすぐ結婚するんだよ」と、幸せそうに微笑んだ。
その言葉に、今度は田口が目を瞬かせる番だ。それには間をおかず、店主の叱責が飛ぶ。
「少年、驚いてないで、真っ先に言う言葉があるだろう」
「おめでとうございます」
田口が祝いの言葉を口にすれば、「ありがとう」と、若い男女の声がきれいに重なる。そこで田口は、改めて二人の関係を認識した。
言われてみれば、彼は彼女を始終気に掛けていたし、これからお菓子作りをしようというのに、彼女の左手の薬指にはしっかりと婚約指輪が輝いている。店主の性格なら外せと言いそうなものだが、結婚が近いということで大目に見たのだろう。
田口が指輪に気付いたのを見てとって、店主は苦笑いを浮かべた。田口はそれに対し口を開きかけたが、店主は誤魔化すように手を叩く。
「さて、準備もできたし、そろそろ始めようか」
それに慌てたのは他ならぬ田口だ。
「待てって。俺、まだ幸福の種の正体を教えてもらってないぞ」
「ああ、そうか。ここに書かれているのが、今日のレシピさ」
店主はテーブルの上に置かれたA4サイズのコピー用紙を手にとって、田口に渡す。
左上には「カフェ・アンジェ」のロゴが入り、その下には太文字で「ドラジェ」と記されている。さらに材料には、アーモンドと砂糖の文字が見てとれた。幸福の種は、「ドラジェ」という名前らしい。
「……聞いたことない名前だけど」
田口がその音の響きに首を傾げると、男は助け船を出すように、
「確かに、男性には馴染みの薄いお菓子ですね。僕も彼女に教えてもらうまで知りませんでしたから」
と言った。
彼のパートナーは、彼を見上げて苦笑を浮かべる。
「そうだったわね。太一、ちゃんと私が説明した話覚えてる?」
「もちろん」
「ほう、じゃあ、少年に説明してやってくれるかい」
店主の言葉に、彼は田口に向き直った。
「ドラジェに使われるアーモンドは、実をたくさんつけます。だから多産や繁栄を意味し、幸福の象徴だと言われているのだそうですよ」
「イタリアでは幸福、健康、富、子孫繁栄、長寿の願いを五粒のドラジェに込めるそうだよ。それらの風習が日本にも伝わって、結婚式の引き出物にドラジェが加えられるようになったんだ」
店主の補足が入り、そこでようやく、田口は全てに合点がいった。どうしてドラジェが幸福の種であるかも、結婚を控えた彼らがドラジェを作ろうという理由も。
「だから私、どうしても手作りしたかったんです。そうすれば、よい思い出にもなるでしょう」
田口の中に生まれようとしていた感情は、その言葉で心の内に芽吹いていく。
店主の教えたドラジェが結婚式の思い出の味となる。そして、この先ずっとずっと、それを口にする度に、彼女達は幸福の時を思い出すのだ。
できることなら自分も、誰かをそんなふうに幸福にできる仕事に就きたい。その思いがどんどん大きくなるのを田口は感じた。
そんな田口の思いなどいざ知らず、店主は皆に指示を飛ばす。
「さて、今度こそ始めよう。少年は邪魔にならないように向こうに行っておいで。太一さんには、粉砂糖をふるうのを手伝ってもらおうか」
言葉と共に店主は、鍋に砂糖と水を加え、火をつけた。それから木ベラを女性に渡し、焦がさないように混ぜるように指示を出す。
カウンターへ追いやられた田口は、その一連の動きをじっと見つめながら川村に語りかけた。
「あの人はお菓子を売るだけでなく、その作り方を教えることで思い出を作り出している。あの人が思い出の味を届ける方法は、一つではないんですね」
田口の視線の先を目で追って、川村は苦笑を浮かべた。そこには先程の田口の問いに対する答えも含まれているのだろう。
「そうだね。むしろ彼女が作り出す思い出の味は、あんなふうにお菓子教室から生まれることが多いのかもしれないね」
「あの人は、以前からお菓子作りを教えたりしているんですか?」
「かれこれ五年ほど前からかな。月に一度はお菓子教室を開いているね。ドラジェを作っている彼女も、その教室に通っていた一人じゃなかったかな」
五年前――その時期に田口は覚えがあった。田口の記憶が正しければ、それはちょうど母がお菓子作りに凝り始めた時期だ。もしかしたら、それこそがあのティラミスの謎と関係しているのかもしれない。 そこで田口は、ある可能性に思い至って愕然とした。
母が店主のお菓子教室に通っていたとしたら。
店主が母のレシピを使っていたのではなく、母が店主のレシピを使っていたということはないだろうか。
田口は、先程店主から渡された手の内のレシピに目を落とす。今まで店主の方にばかり手掛かりを求めていたが、母の方にこそ手掛かりが残されているのかもしれない。そうなると、母のレシピ帳を見つけ出す必要性がありそうだ。
「川村さん、ありがとうございます!」
田口は川村に頭を下げて席を立った。母のレシピ帳を探すために、すぐにでも家に帰らなければならない。
レシピという名の手掛かりを求め、田口は店を飛び出したのだった。
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