運命の石

「少年、ここ最近うちに入り浸ってるけど、就活や卒論の準備はよいのかい」

 田口がカフェ・アンジェに出入りし始めてから、すでに一週間になる。結局、ティラミスと名前の謎には辿りつけず仕舞いだ。それでも、その間に覚えたこともある。店の営業時間だ。  

 カフェの開店は午前十時、閉店は基本的に午後八時だが、週末だけそこから一時間の休憩を挟んで営業時間が深夜まで延びる。そして、定休日は日曜日。あの週末の出来事の翌日、日曜日に店に入れなかったことを除けば、田口は毎日欠かさずこの店に出入りしている。それも昼間を中心にやってくるものだから、店主の心配はもっともであった。

 店主と向かい合う形でカウンターに座っていた田口は、アイスコーヒーに浮かんだ氷をストローで突き顔をしかめた。

「嫌なこと思い出させないでください。俺にだって事情ってものがあるんですから」

 もちろん田口とて自覚していないわけではない。それでも田口には思うところがある。田口は、正直このまま就活を行い、ありふれた会社に就職する自分が想像できなかった。

 思えば自分はいつ頃からそう思うようになっていたのだろうか。田口は頭の片隅で思考を巡らせる。

 第一志望の大学に合格できなかったのがそもそもの原因だろうか。母が亡くなるまでは、両親の期待に添えるように一生懸命だった。だが、母の死と大学入試の時期が悪い具合に重なって、田口は母が応援してくれた第一志望の大学に落ちてしまったのだ。そして辛うじて受かったのが今の大学である。田口はそんな大学でできた友人たちとの一時が嫌だったわけではない。講義自体もそれなりに興味深いものであった。何より、母の死で塞ぎこんでいた田口を元気づけてくれたのは、そんな大学での生活と新しい友である。それでも母の死から数年経って、いざ社会に出る時が近づいて、田口は漠然と疑問に思った。

 これで本当によいのか、と。

 あの時は父も塞ぎこんでいたし、田口に浪人するほどの心の余裕はなかった。それは重々承知しているし、今になって悩むことでもないのかもしれない。しかし田口は今でも、自分が何になりたかったのかはっきりとしなかった。この就職の難しい時代に何を贅沢な、と言われてしまそうだが、それが田口の今の思いだ。

 だから一週間前のあの日も、友人である悠斗にそれを相談するつもりでいたのだ。結局相談できず仕舞いだったため、あの日の店主に対する怒りは、それらの鬱憤が爆発した結果であったといえる。

 今思い出すと気恥ずかしくもあるが、店主との賭けは、その悩みから逃げる恰好の言い訳となっていた。

 そんな田口の悩みも知らず、店主はグラスを洗っていた手を止め、興味深そうに目を細める。

「事情ねぇ。私が納得できるように話してごらん」

 店主の口ぶりは好奇心からくるもののようで、田口にとってはあまり気分のいいものではない。それが表情に出ていたのだろう。店主は困ったように肩をすくめてみせた。

「私は一人で抱え込むよりは、断然ましだと思うんだけどねぇ」

「まるで、経験があるような口ぶりですね」

「そりゃあ、私にだって悩みはあったさ」

「過去形なんですか?」

「正確には〝ある〟なんだろうけど、今は少し前進中だから

 店主は田口を見てどこか嬉しそうに笑った。

 もしかしたら、店のことで大変な時期もあったのかもしれない。若いうちからこれだけ立派な店を切り盛りしているのだから、田口には推し量ることができない悩みもあるのだろう。それでも「今は前進中」と言える店主は強い人だな、と田口は思う。

 だが強い人だからこそ、田口の悩みに共感してもらえない可能性だってある。それこそ思いを素直に口にしてしまえば、折角見つけた避難所を失うことになりかねない。なりたいものになるどころか、タダ働きという未来に一歩近づくだけだ。

「その……」

 田口は言葉に困り、手元のグラスへ視線を落とした。

 店主の視線が自分から離れていないことを肌で感じる。グラスに浮かぶ水滴のように、背中には嫌な汗がじわりと浮かぶ。このままでは、本音を引き出されるのも時間の問題だ。

 けれど救いの手は、思わぬところから現れた。

「メイさんはいらっしゃいますか」

 メイというのは店主の愛称だ。それを認識した途端、田口の頬を熱気が撫で、店内に広がっていた焼き菓子の香りがふわりと混ざり合った。田口が顔をあげ店の入口を見やれば、強い日差しを背に一人の小柄な影が浮かび上がる。田口は眩しさに思わず目を細めたが、その横でカウンターを抜け出した店主が、早急に来訪者へ駆け寄った。

「川村さん、この暑い中お一人でいらしたんですか」

 目が慣れてきた田口が、来訪者の姿を視界に捉えると、それは一人の老紳士だった。長身の店主と並ぶと小柄で、足が悪いのか茶色の杖を手にしている。身につけているものは仕立てのよいシャツに麻のズボン。日よけの帽子の合間からは、白髪交じりの髪と温厚そうな目が覗いている。

 老紳士は店主にその身を支えられ、目元の皺をいっそう深くした。

「ちょっとメイさんにご相談したいことがあったものだからね」

「奥様のことですか?」

「相変わらずメイさんは鋭いです」

「最近奥様をお見かけしていませんでしたから。とりあえず、座ってからゆっくりお話を聞かせてください」

 二、三、言葉を交わし、店主が老紳士をカウンターまで誘う。木製の床に、杖の音が響いた。田口がカウンター席からその音に耳を傾けていると、それは田口の隣で止まった。足元に目をやっていた老紳士が顔を上げ、彼と真正面から目が合う。

「お隣、失礼します」

 驚きに対応が遅れた田口の横で、朗らかに言葉を発した老紳士が席につく。お昼を過ぎたこの時間、客はこの老紳士と田口しかいなかった。

 足が不自由な老人にテーブル席への段差は辛いのはわかるが、大切な話をするにも関わらず、他人がこんなに近くに座っていてよいものだろうか。カウンターに戻った店主からの視線を感じて、田口は老紳士に遠慮がちに問い掛けた。

「なんなら俺、席を外しますよ?」

「いいえ、先客であるあなたが気を使う必要はありません」

 田口は気を使ったつもりだったが、逆に気を使わせてしまったらしい。

「でも、大切なお話なんじゃ……」

 田口の言葉に重ねるように、店主が老紳士の前にすかさず水のコップを置く。

「就活やら学校やらをさぼってここに入り浸っている奴なので、川村さんが気を使う必要はないですよ」

「そんなことはないです。折角、煩わしいことを忘れてゆっくりされている方の邪魔をするのは、私も本意ではありませんから。それに、知恵をお貸しいただける方は一人でも多いほうがいい」

 老紳士は田口と目を合わせて、目元の皺を深くした。田口はその言葉にわずかに緊張を解く。

「じゃあ、お言葉に甘えてこのまま同席させてもらいます」

 だが、そう口にした後、よくよく彼の言葉の意味を考えて、田口は少し不安になった。この教養深そうな老紳士に貸す知恵を、自分は持ち合わせているだろうか。もしかしたら、潔く店を後にした方がよかったのかもしれない。

 店主も同じ考えだったのだろう。彼女は、「亮平にあなたにお貸しできる知恵があるとよいのですが」と皮肉のこもった言葉を口にした。

 それを聞き、老紳士は声をあげて笑う。

「メイさんがそのように言うのは珍しい」

「不甲斐ない男は嫌いですから」

 そう言って彼女は、ちらりと田口に視線を向けた。田口は居心地悪さを感じて、手元のストローを咥え、コーヒーを啜る。しかしながら、居心地の悪さを感じたのは、田口に限った事ではなかったらしい。

「では私も嫌われてしまいますね」

 隣からあがった声に、田口は口に含んだコーヒーを思わず吐き出しそうになった。

 店主も驚いたのだろう。

「川村さんは不甲斐なくなどないでしょうに」

 店主はまさかとでもいうように、目を丸くして老紳士に言葉を掛けた。それでも老紳士は、首を横に振る。

「いいえ、私は妻の願いすら叶えられない不甲斐ない男なのですよ」

「奥様の?」

 店主が確認すれば、老紳士は「はい」と頷いた。

 そういえば、奥様がどうのという話をしていたな、と田口は先程のやりとりを思い出す。店主の言葉から察するに、店にはよく二人で訪れていたのだろう。彼の言葉は、彼の妻の姿がないことに関係しているのかもれない。

 田口が考えを巡らせる側で、店主は姿を見せない件の妻の居場所を問う。

「奥様は、今どちらに?」

 その問いに老紳士は、視線を遠くへ向けた後、大きく息を吸って、「妻は二年ほど前から患っていた認知症が悪化して、先月から施設に入っております」と答えた。それに店主は眉を寄せた。

「それで最近、お二人でいらっしゃらなかったのですね」

「ええ、妻はとても外出できる状況にありませんから」

 彼が先程遠くへ視線を向けたのは、きっと妻との思い出を振り返っていたからなのだろう。今、彼は悲しみとも、苦笑いともつかぬ表情を浮かべている。

 田口とて母との思い出を振り返ると、複雑な気持ちになることが多い。田口には彼の気持ちを察することができた。だが、この老人がその妻のことで相談に訪れた以上、その話に触れないわけにはいかない。

 田口は老紳士の表情の変化を気に掛けながら、店主が話を促すのを待った。

「相談事は、その奥さんに関することでしたね。川村さんが妻の願いを叶えられないとおっしゃることに、関係があるのですか」

「お察しの通りです。実は先日、妻が入っている施設から連絡がありまして。妻があるものを食べたがっていると言うのです」

「あるもの、とは?」

 店主は真剣な面持ちでカウンターから身を乗り出した。

「運命の石――と呼ばれるもの。それをあなた方は御存じでしょうか」

「運命の石?」

 老紳士の言葉に、今まで黙って話を聞いていた田口は、思わず声をあげた。

「俺は石が食べられるなんて、聞いたことありませんよ」

 そもそも「運命の」という言葉には、宝石のような響きがある。田口が始めに連想したのは、結婚指輪だった。

 テレビでよく目にする認知症は、症状の悪化と共に、記憶の喪失やせん妄を引き起こす病気であったはずだ。もしかしたら病気の影響で記憶があやふやになって、勘違いしているのではないかと田口は思った。

「私も、施設の方々も、石は食べ物ではないと言い聞かせました。しかし妻は、何度言い聞かせても運命の石が食べたいと喚き散らすのです」

「病気の影響で何かと勘違いしてるんじゃないんですか」

 田口は自らの考えを口にした。その考えに老紳士は頷き、「施設の方はこのようなことは日常茶飯事らしく、勘違いで片づけられたようです。しかし、私はそうは思えない。可能ならば彼女の願いを叶えてやりたい。そこで食べ物と言って最初に思いついたのが、メイさんだったのです」と言って、店主を見やった。

 その横で田口は思う。これはよいところを見せる絶好のチャンスではないだろうか。ここで老紳士の悩みを解決すれば、不甲斐ないという汚名を返上できるし、店主も店に出入りすることをとやかく言えなくなる。一石二鳥だ。

 田口は素早く行動に出た。

 店主が口を開く間を与えず、「川村さん」と老紳士の名を呼ぶ。すると、老紳士の視線は再び田口へと向いた。

「インターネットで情報は集めましたか?」

 それは田口が老紳士に協力する上で、最低限知っておかなければならない確認事項だ。

 田口や田口の父親の年代では考えられないことだが、この年代の人の中には、まだまだ満足にパソコンやスマホを扱えない人も多い。案の定、老紳士は恥ずかしそうに口ごもりながら、「お恥ずかしながら、機械には疎いもので」と少しばかりの言い訳を口にした。

 その言及をとってしまえば容易いものだ。今時、ネットで調べられないことの方が少ないから、勘違いでないなら何かしら情報は得られるはずだ。そう考えて、田口は率先してスマホを取り出した。

「ちょっと、俺が今から調べてみますよ」

 だがディスプレイを見て田口はすぐに肩を落とした。ディスプレイはボタンを押しても明るくなる気配がない。

田口には、電源を切った覚えなどなかった。そこで記憶を辿れば、思いあたる節は一つだけある。昨日、帰宅してから、充電するのをすっかり忘れていたのだ。

 田口は、ディスプレイを横から覗きこんでいた老紳士を申し訳なさそうに見やった。

「すいません」

 肩を落とし、声の張りを失くした田口に、老紳士は「一生懸命になっていただけただけで嬉しいですよ」と言葉を返した。そのやりとりを無言で見守っていた店主は、「まったく……」と呆れたように溜息をつく。

「やはり、少年は不甲斐ない」

 ぼそり、と呟かれた言葉についカッとなって、田口は店長にくって掛かった。

「なら、あんたはわかるっていうのか」

「もちろん」

 店主が胸を張って肯定を示したと同時に、田口は隣で老紳士の気配が揺れたのを感じた。

「では、運命の石は本当に存在するのですね」

 声音からも、彼の気持ちが期待に踊っているのがわかる。

 店主は、「ええ」と今度は力強く頷く。

 老紳士は明らかな肯定を得て、気が抜けたように言葉を失った。きっと安心したのだろう。その様子を見て、店主は優しく微笑んだ。

「いつもお店に出しているものなので、今からお持ちしましょうか?」

「お願いしてもよろしいですか」

「はい。少しお待ちくださいね」

 店主は言葉を残し、キッチンへ姿を消した。そして数分して戻って来た彼女の手には、二十センチくらいの小さなバスケットがあった。

「お待たせしました」

 店主は言葉と共に、バスケットをカウンターに置いた。田口は老紳士と揃ってバスケットを覗き込む。バターの香りが鼻をくすぐり、田口はじわりと滲み出た唾を飲み込んだ。バスケットの中には、こんがり丸く焼かれたスコーンが入っていた。

「これが、運命の石」

 田口と老紳士の驚きの声がちょうど重なる。老紳士と互いに顔を見合わせれば、店主は笑って言葉を補足した。

「正確には、これの由来になったスコットランドのスコーン城にある台座が、The Stone of Destiny、つまり運命の石なんだけどね。この石にちなんで、スコーンは石の形に焼きあげられることが多いんだ。そして伝説では、モーゼの先祖であるヤコブがこの石を枕にして眠ったところ、神様が現れたそうだよ」

「でも、なぜ川村さんの奥さんがスコーンの由来を知っていたんだ」

「それはおそらく、私が。奥様は私のスコーンがお好きだったから、一度スコーンの由来をお話したことがあったんだよ」

「でもそれにしたって、スコーンだって言えばいいだけのことだろ?」

 それを口にして田口は、老紳士がスコーンを見つめ柔らかく微笑んでいることに気がついた。きっと川村の中で答えは出ているのだろう。川村さん――と田口が名を呼べば、川村は瞬きをして、田口を見た。

「妻は昔、喫茶店の店員をしていて、彼女が私にスコーンを運んできたのがそもそもの出会いなんです。だからまさしく、これが私と妻を結びつけた運命の石なんですよ」

 川村は手で優しくバスケットを包み込む。彼の中でその思い出は、とても大切なものなのだ。

「これを頂いて帰りたいのですが、おいくらになりますか」

 店主は首を振って、バスケットを持つ彼の手に自らの手を重ねた。

「お代はいただかなくて結構ですよ。奥様に思い出の味を届けてあげてください」

「しかし、それでは私の気が済みません」

「それなら、またお店にいらしてください。それが何よりのお礼です。それに、不甲斐ない少年を叱る大人は多いに越したことはない」

 店主の言葉に、バスケットを抱えて席を立った老紳士は、声をあげて笑った。

「それでは、また後日立ち寄らせていただきます」

 田口は老紳士の後ろ姿を目で追いながら思った。

 彼の妻はまだ亡くなったわけではない。記憶を失っていく妻を見守るのは辛いかもしれないが、それでも彼の中に新たな思い出は作っていける。彼は運命の石から始まる思い出を、また一つ作っていくのだろう。それはきっと彼にとって掛けがいのないものとなる。

 そしてその切欠を与えたのは紛れもなく店主だ。

 田口はカウンター内から老紳士を見送る店主の横顔に、「あんたがうらやましいよ」と思わず本音をもらした。

「何か言ったかい?」

 店主はその呟きが聞こえなかったのか、田口を見て瞬きをする。

「いんや、独り言」

 田口は店主の耳にその言葉が届いていなかったことにほっとして、首を横に振ったのだった。

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