第三章 一節 ある医師の遺言

     1


 厄災というものは予測された上で起きることではない。突然勃発することを厄災という。いつ、どこで起きるかは見当がつかない。それを知るのは生命の死を把握する死神のみだろう。


『……トーマスが……死んだだと!?』

 事態は急だった。

 死因は過剰服薬オーバードース。自殺だった。

 電話の連絡で病院まで駆け付けたレーザン先生だったが、彼が目にしたのはすでに棺に入っていた友の姿だった。それは眠っているかのように静かな死に顔だった。現場はライアンの自宅。密室でもないが、殺人でもない。証拠もなく、正真正銘の自殺だった。あのときの先生の泣き崩れた背中は今でも目に焼き付いている。


 ライアンの遺体はレーザン先生の頼みで解剖されることなく、そのまま埋葬された。だが、死生裁判士として数ミリグラム程度の血液サンプルと骨髄、脊椎等の一部を注射採取する許可を特別にいただいた。念のためにと隅から隅までコンピュータで分析した。

 その結果、鉄や亜鉛などのミネラル成分を始め、あまり市販では見ない類のビタミン剤に含まれていたフィロキノンとメナキノンの異常量が体内に確認できた。そしてライアンは非感染者だった。疑っていた感染が晴れて薬物自殺だということを現実として叩き付けられた。


〔記録ノート 4〕

 十一月二十七日。

 葬儀から二週間後。ここのところUNCアンクの活性が収まってきた。特異型は相変わらずだが、通常型は攻撃しない状態で消滅しないまま。その上、一切抗体に攻撃されることなく、「悪意なき異物」と化している。それは自分の知っている患者の範囲内だけではないはずだ。

 形は変えずとも遺伝子改造ジーン・リモデリングを繰り返して私たちを苦しめてきたが、その内変異の活動さえもやめ、ただの培養物と化したUNCバクテリアは電脳界保健機関の「Cプロジェクト」の研究を大いに進めた。最低でも推定五年はかかるはずだったものを、遅くともあと数ヶ月で治療薬が完成するだろうと医療雑誌に掲載。今更ながらUNCの存在を小規模だが世間に公表した。


     2


 真っ暗な無意識の奥底から駆け上がるように意識を取り戻し、目を覚ます。しかし、目を開いても真っ暗なまま。だけど、微かに何かが見える。病室だ。傍にはここからでも手を伸ばせばすぐに届く小さな本棚、テレビのある台にはスタンドと家族の写真、随分前にプレゼントされた蝶々の折り紙、窓際にはガーベラの彩られた花籠が置いてある。

 起き上がってはベッドから降りる。本当は歩くことさえ上手くいかずに、酔っぱらった人みたいにふらふらしてしまうけど、普通の人達みたいに歩ける。


『――イマカラソッチヘイクヨ』

「――っ!」

 不協和音の機械的な野太い声に悪寒が走る。毎晩の暗い病室で必ず聞く声。振り返ると、電源のついていない液晶テレビに白衣を着た血だらけの赤い死神が映っていた。


 いつも見ている悍ましい姿。慣れるものじゃない。いつみても、いつ聞いても、その声はとても怖かった。それどころか日に日に恐怖が増している。

 病室から慌てて飛び出す。しかしそこは廊下でも何でもない、ただ真っ黒な世界の中、ブラウン管のテレビが山のように大量に捨てられていた。中身の回線が飛び出ているものもあれば液晶が罅割れているのもある。それにも関わらず、そのブラウン管すべての画面にあの赤い死神の姿が映り、あの不気味な声で誘ってくる。


 いやだ。まだ死にたくない。

 捨てられたブラウン管の山の間を走り抜ける。聞こえてくる声がやさしげなものから段々と声の荒げたものとなり、後ろから誰かが追いかけてくる足音が私の走る足を速めた。

 液晶の破片や部品が足に刺さる。だが、今はそんなことを気にしている余裕はない。よろめきながらも必死に走る。


 気がつくと、原っぱにいた。透き通った限りない青空。奥に何かの建物が見える。その場所のことを微かに覚えている。微かだが、忘れもしない一番の思い出。

 建物の前に辿り着く。そこは教会だった。周りには四季を象徴するトリニオスの花畑。

 誰かが呼んでいる。懐かしい、愛おしい声。ただ、声の聞こえる方へと走る。その先は眩しい程の白い光の点。それが近づくにつれ徐々に大きくなっていく。そして、その光に包まれた時、陽炎のように揺らめく何かの黒い闇が微かに見えた。


「そこまでして生きたい理由があるのか」

 闇が問いかける。もう一度、外に出たい。それが唯一の理由だ。

「それが叶えば、もう死んでもいいのか」

 あの病室で一生を送るぐらいなら、それでも構わない。

「少しでも永く生きる。それだけのことでも、周りにどれだけの影響を及ぼしていると思っている」

 迷惑はかけていると思う。でも、病人だから仕方ない。

「仕方ないと思うならすべてを知ろうとする努力をしろ」

 知ろうとする努力?

「知らないことは罪だと思え。知るべきことも、知ってはならないことも、すべてをその穴の開いた脳髄に刻み込め。その上で決断をしろ。本当に自分は生きるに値するのか」


     3


 今年も最後の月を迎え、初雪が降り始めた頃、自宅に一通の手紙が届いた。今どき、特にこの電脳界は電子メールが一般だ。実体ソリッドとしての手紙が来るとは珍しい。どんなものずきが何の用で私にこの手紙を送ったのか。


「――っ」私は小さく声を上げた。

 送り主は殉職したライアンだった。死ぬ前にこの手紙を私に送ったのか。いったい何の為に。

 私は急いで自室に入り、コートも脱がず、その封筒を開ける。


『拝啓 ゼクロス・A・コズミック様

 これは仕事としてではなく、君個人へ向けたメッセージだと受け止めてくれ。内容はUNCの研究と関わっている。

 まず、この手紙を読み終えたら直ちに燃やしてくれ。手紙の存在とその内容は誰にも話すな。しかし、もしものことがあればラルクを頼れ。あいつは信用できる俺の親友だ。

 伝えたい内容は直接的には伏せておく。私はとんでもないことを知ってしまった。おそらくだが、近いうちに私は研究から離脱し、音信不通になる。その際、君は私の家に行って、リビングにある本棚の一番下の列の『不確定性原理 運命の秩序』という本を探してほしい。一八六九ページを開けばわかるだろう。天才肌の君ならあとは答えを導き出せると信じている。

 私が何を知ったのかは、そのページに書いてある。導き出した答えをもとに辿れば、すべてが分かるはずだ。そのあとは君の自由にしてもいい。

 支離滅裂だと私でもわかる。どうか勝手を許してほしい。ただ、これだけは例え死んでもはっきり言える。

 UNCは一日でも早く食い止めろ。遅くとも今年までには根絶しなければ手遅れになる。

                       敬具 トーマス・T・ライアン』


「……どういうことだ?」

 手紙の言う通り、確かに訳が分からなかった。それに、あのお気楽なライアンがとてもこんなことをする人だとは思えなかった。

 わかったことはただひとつ。あのUNCを今年までに、残り二十九日の間に完全に根絶やしにしなければならない。

 とりあえず、まずはライアンの自宅に行かなければ何も始まらない。

 だが、この手紙は自分が生きていると想定した上で書いている。だとすれば、あの死は本当に自殺だったのか? 何にしろ、明日明後日辺りに遺品整理の業者が来るだろう。遺品が回収される前に行動せねば。


〔記録ノート 5〕

 十二月二日。

 UNCの優性遺伝の通常型は活動が停止に近い状態になっているにもかかわらず、劣性遺伝の特異型は一時期収まった。しかしそれもつかの間、今は活性化が著しい。患者のアイリスはここのところ容体が悪化するばかりであり、私のいない間、レーザン先生が何度か手術していることがあったと聞く。

 先端再生医療とはいえ、まだまだ未完成。彼女の症状に再生がついていっていない。その際、輸血や臓器移植を行うが、中々拒絶反応のない献体を探すのは困難である。

 気になっているのは内分泌バランスが異常の割に慢性的に向上していることだ。破壊しながらも超回復を繰り返している。そのおかげか、あの病弱な身体でも奇跡的に命を繋ぎとめている。

 否、徐々に体の基盤が発達しているのだ。あの病状では命が幾つあっても足りない。常人ならばすぐに死んでいる。現にアイリスから摘出したバクテリアをいくつかの実験動物に移植すると、奇病を発し、一晩ですべてが死亡した。

 そして、治療をしていない失った両手の短期再生。あればかりは不可解だ。これも含め、他の医院の特異型患者には見られない現象。調べたところ、異常な性癖という共通症状も、アイリス以外で自食症を起こした患者は一人もいなかった。分泌物バランスも、シーソーのように他の患者はどれかが異常に向上し、どれかが同様に低下している。電脳型も関連なし。再現世界特有のものだと捉え、電脳型を考慮しないものとする。

 アイリスは例外だ。だが、その原因は不明。これもバクテリアの気まぐれなのだろうか。

 誰に訊いても、何度調べても不明。こうなれば根本から考え直し、徹底的に調べるしかない。まずはレーザン先生に独自研究の許可をもらおう。

 時間はない。アイリスこそが治療の鍵だ。


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死神 多部栄次(エージ) @Eiji_T

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