第二章 九節 咲いた花の名は
8
あの瞳を忘れられない。
どこか懐かしくも感じられた。ただの他人だというのに。
彼女から感染した私の症状は感覚までも侵蝕しているのか。今すぐにでも治療法を見つけなければ。
あいつはただの患者だ。血など繋がっていない、ただの他人だ。
そう、あいつはただの、何も知らない病弱な少女だ。
ファルモス市、ジェスタの聖丘。墓地であるこの場所は白い尖塔と聖母「リーリア」の像を中央に、綺麗に墓石が並べられている。ここの宗教の墓石は十字架でもなんでもない。石板ともいえるプレートの墓。裏に刻まれている鳥は魂を運ぶ不死鳥だという。私はそこに来ていた。
「……」
寒気だった昼の空は薄い雲が覆い、薄暗くなってる。寒さで身を縮めたような木々は茶褐色の枯葉を手放し、冷たい礫土の通路へと転がす。
私はある墓の前に花束を持ち、ただずんでいた。冬の寒い風が黒い髪を揺らし、体温を奪っていく。
目の前の墓には「Whalo A Cosmic」と刻まれていた。
ホワロ・コズミック。私の母であり、無差別殺人を犯した死刑囚。あの優しかった母が何故そんなことをしたのかは知る由もなかった。ただ、どんなに世間が消えるべきだと非難した悪人だったとしても、私のたったひとりの母であることに変わりはない。喪った悲しみは今でも覚えている。
「元気だったかい、母さん」
私は墓の下に埋まっているだろう母の遺体に語りかけ、花束を添えた。冷たい風が肌に沁みる。
電脳界では死者をデータとして電脳化、保存される。場所によって供養の方法は異なるが、人体は物資として効率よく別の形として再利用リサイクルしている。逆にいえば、その個人の遺物がいつまでも残らないということだ。
この現実世界をイメージした世界は目の前に広がる景色のように、墓に死体を埋める。分解されにくいプラスチックのようにずっと墓の中で遺体が残っているのだ。おそらく、この墓の下には母の白骨体が眠っていることだろう。
私は黒い鞄を持って立ち上がり、歩を進めた。
「……」
死とは、世の中をうまく動かしてくれるシステムだ。死がなければ、すぐに世界はオーバーヒートを引き起こす。それを防ぐための完璧なプログラムがアポトーシス。この自然の摂理に何度私たちの先祖は抗ったことだろう。そしてこの墓に眠る者たちのようにゆくゆくは死んでゆく。
――外に出たい。生きて外に出たい。
あの言葉がなぜか一週間経った今でも頭痛と共に頭の中で繰り返される。
その願いを叶えてやりたい気持ちは少なからずある。約束したから。
しかし、この電脳界せかいがどれだけ理想の世界に更新アップロードしたって、現実が夢と相対している限り、常に残酷性をもつ。
だとしても。
医者である以上、人を治す者である以上、救わなければならない。患者が生きたいと願う限り。
「あ、もしかして! いつかの死神様じゃない?」
近づいてくる砂利を踏む音。同時に遠くから聞こえてきたこの声は聞いたことがあった。女性であるにも関わらず、声自体好きではない上、必要以上に構ってくるという嫌いな性格を兼ね備えたあいつの声が。
「……ラッセル、何故君がここにいるんだい」
「いやだなぁゼクロスくん。あたしにだってちゃんとお参りする人ぐらいいるよー。あと、ちゃんと『ヘレン』って呼んでくれるとうれしいんだけどなぁ」
「……その猫撫で声をやめろ」
「いやん、ゼクロスくん怖い顔しないのっ」
どうもこういう可愛さを振舞う、甘ったるい高音声は生理的に好かない。だが、向こうは生理的に私を好んでいる。こういうところでも理不尽は起きるのだ。
「貴様のような輩がいるから、選別者のイメージがおかしくなるんだ」
「それゼクロスくんが言っちゃう?」
確かにそもそもの原因は私にある。だが、こいつも死生裁判士のイメージをおかしくしているのは間違いない。
同じ選別者の一人「ヘレン・ラッセル」の服装は私と同じように礼服の姿だが、茶髪のポニーテールと長い睫毛まつげ、すらっとした体格と豊かな胸、皮肉にも見た目のデフォルトが高い。種族的に私と顔の骨格が少し異なるが、どんな人種であれ、その顔立ちは整っているものだった。
「そんなことよりだゼクロスくん、困ったことに暇だった私ヘレンは最近多忙のあまり死にそうになっている」
きりっとした顔つきで凛々しい声を出す。こいつは一時期声優にでもなろうとしていたのだろうか。
「いいことじゃないか。それだけ信頼されているんだろう」
「もう疲れたのよ。だからあたしを慰めてぇ~」
「寄るな気色悪い」
抱き着こうとしたラッセルの頭部を片手で掴み、進行を止めた。
「いい歳なのに彼氏もいない独り暮らしのあたしを慰めてよぉ~ゼクロスせんぱ~い!」
「まだ二十六の未熟者が何を下らんことを言っている。あと先輩ではない。同期だ」
「カラダは先輩でしょ、熟練者さん?」
「黙れ」
私は掴んだ手に力を入れる。媚びた声でくだらないことをほざいたラッセルは「痛い痛い痛い!」と掴んだ手を離そうとする。どさくさ紛れに喘ぎ声を入れる余裕があるのも腹立たしい。いや、口元がにやけているし、そういう性癖かもしれない。個人的に悪寒が走るが。
私は手放す。ラッセルはフラフラとし、「あぁ痛ったぁ……ふへへ」と知りたくもなかったこいつの性癖が漏れたのを私は聞き逃さなかった。
「あーあ、折角同じ選別者、それも同期で、あの話題になっていた天才死生裁判士ゼクロスくんに久しぶりに出会えたのに」
がっかりした表情で背の低いラッセルは私を上目使いで目を潤わせるが、鬱陶しいだけだった。
「僕と仲良くなりたかったら、とりあえずそのおめでたい性格を治すことだな」
「ゼクロスくんがあたしを調教すればいい話でしょ?」
「名案だね。最近記憶を書き換える技術をインストールしてね、まだ実践していなかったんだよ。これを機にまともな人間になってみるかい」
「んー本当にやりそうだしやめとく」
流石のラッセルもおどけつつも一歩引いた。脅しという形でありつつも本気の目で言ったのだからそういうリアクションを取らなければ本当に常人ではない。
「正しい判断だ。そろそろ帰りたいんだが、もういいか」
「あーちょっとちょっと待って! 聞きたいことがあるんだってば」
「……? なんだ」
眉をひそめる。ろくなことでもなさそうだが、とりあえず聞いてみることにしよう。
「
当然、知っていたか。公表はともかく、そこまで隠すことでもない。
「あぁそうだ。まさかおまえもか?」
すると、豊かな胸を大きく張っては威張るように意気揚々と話し始めた。
「とーうぜんよ! 選別者の勘が言ってるんだもん、あの病こそ『死亡宣告』するべきって。知っている誰もが警戒し始めてきたわ」
UNCの存在を知りつつもそれの研究や薬物が開発されないのは、いや、その進行が遅いのは、UNCが稀少病だからだ。難病の治療薬の開発には利益が最優先される。患者数が少なければ儲からない。故にUNCの治療薬開発を行うのは、もの好きや偽善者くらいのもの。だが、知名度が上がり、噂にでもなったということは、それだけ感染が広がってきたのだろう。
「やっとあの細菌の恐ろしさがわかってきたか」と呟くように言った。
「細菌っていうより虫だよね、アレ。脳髄に入り込んで、いいように利用されるのも予想できるし」
「治療に関するヒントは掴めたかい」
「んー……魔法的技術の存在する世界に接続して万能的な治療薬とか、まぁそれこそ魔法でUNCを滅しようって思って魔術師に頼んだんだけど」
高活性型拡張量子化学に基づく特異的3次元分子相互作用、つまり魔法で感染を治療するか。そういえば試したことがなかった。魔力で弱めたり、圧縮したり、高度なものだったら分子配列を変えることだって可能だ。私は微かに彼女の次の言葉に期待した。
「従来の病原体には効果あるんだけど、肝心のUNCには効果なかったみたいでさ」
「どういうことだ? まさか魔力耐性でもあるのか」
少し気を乱したかもしれない。だが、ここまでいくと逆に笑えてくる。
「でも実際にそういうのいるよ? 薬剤耐性菌がいるように、そういう特殊環境下での活性に耐性がある魔法耐性菌が存在するのよ」
「……わかったのはそれだけか」
「んー、こっちは特に何も。為す術ナシってわけじゃないけど、そろそろ手詰まりって感じ。そもそも何しても死なないからなぁアレ。寿命もないし、ただ増えていってるし、まるで癌細胞」
癌細胞か。正常の細胞の遺伝子に異常が生じ、分裂や増殖のコントロールを受け付けなくなった自律的な細胞。いわば不死に最も近い細胞とも言っていい。確かに当てはまっている。
「そうか。ま、こっちも手詰まりと言ったところか。電脳界医療先端研究推進機関の『Cプロジェクト』に賭けたいところだよ。あれほどの万能薬は他にないだろう」
「うわ、死神ともあろうお方がそれに頼っちゃいますか」
「別にいいだろう。正直あれには敵わない。僕だってただの
「まぁ、それはそうだけど」
風が吹く。ラッセルの髪が揺れ、周囲の枯葉は芝生へと入っていく。
「そろそろ行っていいかい? そっちも暇じゃないんだろう」
「あぁ、うん、そうだね。あ、そうそう! 最後に一つ。ここの近くに『
「……何故だ」
その店の名は初めて聞いた。母に添えた花束はそれとは別の花屋で購入したものだった。
「ん? だってゼクロスくんスーパードライの常温ダイヤモンドフェイスだからお花で心を癒して――」
「余計なお世話だ」
私はそう吐き捨て、その場を辞す。彼女の呼び止める声が聞こえたが、無視を続けた。
何が花で心を癒してだ。最後までろくなことを言わない奴だ。
私は駐車場に着き、黒い高級車で病院へと向かう。
「……花、か」
花は確かに見れば美しいものだ。家にいくつか飾ってある。
花は子孫を残すための方法として形成された自然の産物。いわば生殖器にあたるが、これまでの歴史の中で性器としての機能をもつ花は人々に愛されてきた。見た目もそうなのだが、私が思うに、人の裸が最も美しいと評されてきたように、生殖器もまた芸術的で、神秘的だ。愛の権化だと言える。それを花に置き換えるのも、つくづくデジャヴが感じられる。
私は鼻で溜息をつき、まっすぐ行くはずの道を右へと曲がった。
9
研究後、私はいつものように一日一回アイリスの部屋へと向かう。殺菌室で立ち止まり、滅菌された後、第二の扉を開ける。
「元気にしていたか?」
患者アイリス以外誰もいなことを確認した私は院内用ガスマスクを外した。
カニバリズム、自食症の件以来、アイリスは自分では取り外せない人工呼吸器をマスクとして装着されている。そこから常時鎮静剤を与えているので、あのような暴走はないだろう。
「うん、大丈夫……」
そう言ってはぼうっと私を見る。意識が朦朧としているのか。少し危ないかもしれない。
「寝ておけ。体に負担かけるな」
「うん……」
素直に起こしていた上体を倒す。傍に数冊の本が置いてあった。その一番上の拍子を見る。
「もしかして『沈黙の窓』を読んでいたのか」
個人的に好きな作家のダルシア・ファン・ダウドナが著した推理小説のひとつだ。今まで見かけなかったが、案外こういうジャンルが好きなのだろうか。
「う、うん……な、なんとなく読んでみたくなっただけだけど」
「理由はなんでもいい。僕もその本好きなんだよ。あぁそうだ、用は早く済まさないとな」
「……?」
私はもうひとつ持っていた少し大きめのビニール袋から中身を取り出す。
「……っ」
アイリスは目をまんまると大きくした。まさに驚きの一言だっただろう。
「どういうのが好きかわからなかったから、僕なりに選んできた」
アイリスの前に出したもの。それはフラワーアレンジの入った花籠だった。ピンクや白、オレンジや黄色などの色とりどりのガーベラがアレンジされてあった。
「ピンクのガーベラは崇高な美しさ、オレンジは我慢強さ、黄色は究極の美しさ、ガーベラ自体には希望という花言葉があったかな。まぁ元気の象徴の花だ」
アイリスは驚いたままで、何も話してくれない。だが、次第に反応が出てくる。
泣いていた。
涙を流していた。体を震わしながら、涙を流していた。
「……それだけ嬉しかったのか」
こくりと頷いた。真っ白な部屋に微かに嗚咽の声が聞こえる。
「……そうか」
私はベッドに座り、彼女の頭をやさしく撫でる。さらさらとした長い金髪。とても美しく、それでいて儚い。まるで花のようだと私は微笑んだ。
「はは、涙こぼれてるぞ」
私は人差し指で彼女の涙をすくうように拭きとる。恥ずかしかったのか、それとも嫌だったのかアイリスは顔を赤くし、慌てて「両手」で涙を拭い取る。
「――っ!」
一瞬気が付かなかった。見間違いか、いや、そんなはずはない。
「悪い、ちょっと『それ』みせてくれ」
「?」と涙目のアイリスは両の手を見せた。
「……っ!」
治っている。自食症で半分以上なくなっていた右手も、手首さえなかった左手も何もなかったかのように元の細い、きれいな手に戻っていたのだ。
昨日までは包帯だったはずだ。だが、形状的に巻いてある包帯の形が少し変わってきているとは思ったが、まさかこの短期間で完全に再生しているとは。
なんの前触れも因子も不明の状態で再生していることもそうだが、驚いたのはそのスピードだ。筋肉から神経まで完全に再生しており、何より早すぎる。知らぬ間にレーザン先生はこれほどまでの技術を、いや、だとしたらとっくに情報として広まっている。少なくとも研究に携わっている私たちの間では。
「その手……」
呟くように訊く。アイリスは右手と左手をを見ながらぽつりぽつりと答えた。
「ずっと、むずがゆかったの。それをレーザン先生に相談して、包帯を取ってみたら、治ってた」
「いつのことだそれは」
「え、今日、だけど……?」
「レーザン先生に何かしてもらった記憶はあるか?」
「特に何も……どうしたの?」
いや、落ち着け。あの手術の時にレーザン先生が再生基盤でも、いや、そのとき傍に居たがそのようなものや行為はなかった。説明もされていない。一応、壊死を防ぐために毎日診てはいたが、特に変化はなかった。ここのところ点滴以外なにもしていないし、注射も手術から今日までの間はなかった。そもそも薬物による再生など聞いたことがない。
いつ、何をアイリスにしたんだ。
「……いや、なんでもないよ。無かった手が早く治ってちょっとびっくりしただけだ。無事に治ってよかった」
だが、今考えたところで何も出てこない。今は余韻に浸ろう。
私は看護士の落合が来るまで、ずっとアイリスと小説の話をしていた。思った以上に話が合い、私にとっては嬉しいひと時だった。
窓際に置かれた花籠のガーベラの花が、この薬剤臭い無機質な白い部屋を明るく見せていた。
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