元王女は、勇者の旅路を辿る

第二百五十六話 漸く捕まえたぞ

「何なんだよ、これは……」

　マルセロの呟きが溶けて消える。右の肩から腰にかけて、人のものとは思えない黒ずんだ体液が飛び散る。

　切断には至らなかったが、オルトはすぐに切り替える。明らかに人の身体と違う手応えは、マルセロがその内部構造から別な生物になった証。それでも、オルトが今の一撃から得たものは大きかった。

　振り下ろした剣を下段に持ち、狩りに臨む獣のような低い姿勢でオルトが前に出る。

　後退（あとずさ）るマルセロの懐に飛び込みスタインベルガーを鋭角に切り上げれば、肌色と黒紫の斑（まだら）に染まった右手が地面に落ちた。

「…………」

　マルセロは呆然と、体液が溢れ出す右手首の切断面を見つめた。

　直後に絶叫が響き渡る。

「ああああああああアァッッ！！」

　ビリビリと空気が震え、【菫の庭園】の面々が顔を強張（こわば）らせる。

　叫ぶマルセロが二回り程も膨張し、全身に黒ずみが広がっていく。肥大化した筋肉の収縮により、傷口から流出していた体液も止まった。

　変貌するマルセロを見て、ネーナは息を呑んだ。

　闇と見紛う漆黒の眼球に、燃え盛る焔のような赤い瞳。右腕の切断面からは新たな手首が生えている。その容貌は『深緑都市』ドリアノンで見た魔族、アルカンタラを想起させる異形のものだった。

　マルセロの変化に呼応するかの如く、長剣サイズだった魔剣『魔神の尾（デビルエンド）』も大剣のように大型化していた。剣が帯びる魔力も禍々しさを増している。

　対するオルトも臆する事なく、腰を落として剣を構え直す。

　――科人（とがひと）マルセロ・オスカー・ベルナルディ。我が手に星の剣スタインベルガーある限り、万難を排して汝に永久の生を与えん――

　誓いの言葉を口ずさめば、スタインベルガーを包む光が薄いグリーンから赤に変わった。

　――リィィィィィィン！！　――

　無数の鐘の音が不協和音を成し、警報の如き喧（けたた）ましさで鳴り響く。

　膠着（こうちゃく）を破り、マルセロが先に動いた。

「やってくれたなクソがッ！」

　大きくなった魔剣を軽々と振り下ろし、オルトに叩きつける。しかし脳天より目標を両断せんとする刃は、その手前で逸らされ大地にめり込んだ。

「どうして俺が！　こんなっ！」

　続く力任せの打ち込みも、悉（ことごと）く軌道を外されオルトを捉える事が出来ない。

「何でだ！　魔人の身体なんだぞ！？」

　人外と化したマルセロが咆え、遮二無二攻め立てる。攻撃は先刻より力強さを増すが、オルトは全てを捌き切る。

　後ろから見ているネーナには、あたかも強固な防御結界のように思えた。それを魔術に依らずたった一振りの剣で成すなど、およそ人間業ではない。

「――腕力に頼り過ぎだ。前よりも酷い」

　暗に以前から修練不足なのだと指摘しつつ、オルトが頭の上で魔剣を受け止めた。足が僅かに地面に沈み込むが、それ以上は押し込ませない。

　動かない魔剣に力を込め、マルセロが激昂する。

「何故倒れねえ！　どうして受け止められる！　そんな力が、てめぇのどこにある！？」

「――力なら、身体の奥底から湧いてくるさ。お前には決して理解出来ない、決してお前の手には入らない力がな」

「ぐあッ！？」

　動きが止まったと見るや、ネーナとエイミーが攻撃を集中させる。マルセロの身体が大きくなった事で、後衛からの援護は格段に容易になっていた。

「わからずとも構わん。反省の必要も無い。だがマルセロ、お前が直面している状況は、間違いなくお前自身が招いたものだ。その報いは受けろ」

「俺は好きに生きてるだけだ！　それのどこが悪い！」

　マルセロの身勝手極まりない叫びに、ネーナは全身の血が沸騰しそうな怒りを覚えた。魔術師が我を忘れるなど愚の骨頂、そう考えて努めて冷静であろうとする。

　こんな時、オルトならどうするのかと背中を見つめる。疑問に対する答えは、すぐに得られた。

「――そういうお前が生きていると、俺が安心出来ないだろうが」

　ネーナは目を見開いた。オルトは全てを、マルセロと戦う為の力に転化していた。

　スミスとエイミーはこみ上げる感情を鎮めるように、奥歯をグッと噛み締める。

　【菫の庭園】はパーティーの総意として、『剣聖』マルセロと戦う事を決めた。だが元々、オルトとフェスタ、ネーナには全く関わりの無い話であった。

　マルセロと因縁のあるスミスやエイミー、レナも、ネーナ達に戦ってくれと求めた訳ではない。マルセロが大きな被害を与えたシュムレイ公国に多くの知己が出来ても、オルトならば周囲の人々を守りつつ、マルセロに関わらないよう生きて行ける筈。元王女であるネーナの安全を考えれば、そうするのが妥当とも言える。

　けれどもオルトは、そうしなかった。そして今、戦う理由についても自分自身にあるのだと言い切った。傷だらけの身体で、生死を分ける戦いの中で。

　こちらの都合に仲間を巻き込んでしまったという、事ここに至ってもスミス達が抱えていた、そんな後ろめたさを吹き飛ばすには十分過ぎる言葉であった。

「ふざっけんなあああッ！」

　どうしてこうなるのか。マルセロは全く理解出来ないまま、怒りをぶちまけた。

　既に自身が人ではなくなったと、マルセロも自覚している。そこまで追い込まれたのは不本意だが、死ぬよりはと魔人化を受け入れた。

　新たに手に入れた強靭な肉体、スピードとパワー。『剣聖』と称される強さに加えて人族とは桁違いなスペックを得たマルセロは、勇者トウヤにも負けはしないとの確信を持った。

　それなのに目の前の男は、『刃壊者（ソードブレイカー）』は怯まず立ち向かって来る。何度力の差を見せつけても諦めず、いつの間にかマルセロは劣勢に立たされていた。

　オルト・ヘーネスとの戦いは、とにかく思い通りに進む事が無い。得体の知れない気持ち悪さ、不気味さが常に付き纏う。

　故にマルセロは疑心暗鬼に陥っていた。この戦いは相手の思うつぼなのではないか、自分はヤツに踊らされているのではないか、と。

　そんな筈は無いと頭（かぶり）を振るマルセロの耳に、よく通る声が届く。

「――お前がいくら強くなろうと、トウヤ殿には到底及ばない」

「ウガアアアアッ！！」

　内心を見透かされたかのような言葉に、怒りの雄叫びを上げる。しかしマルセロには、辛うじて踏み止まるだけの自制心が残されていた。それにより、ある事に気づく。

　エイミーの矢を弾き返すと、マルセロはオルトとの距離を詰めた。こうなれば動きが止まらない限り、後衛はマルセロを狙えない。

　援護する為の隙を探していたネーナは、マルセロの視線の先を見て青褪めた。

「レナさん！？」

　レナは肩で息をしながら立ち尽くしていた。

　直接ダメージを受けてこそいないが、レナは最前線でオルトのサポートとセカンドアタッカーを兼務していた。高難度の麻痺解除を一度の失敗も無くこなし続け、極大回復に費やした魔力消費も大きい。レナにかかる負担も尋常なものではなかったのだ。

　仲間達の意識は、マルセロと切り結ぶオルトに向いていた。レナ自身も集中を要する為に動きが少なく、後衛の面々が異変を察知するのは困難だったと言える。

　注意が足りなかったと自分を責めながらも、ネーナは動けずにいるレナの前に障壁を展開する。

　マルセロはオルトに斬りかかると見せかけ、その背後のレナを狙った。

　レナは重要な回復役、これまで何とか持ち堪えてきた仲間が一人でも倒れれば、戦局が大きく変わる。オルトも僅かに遅れて、菫色の戦外套（アーマード・コート）に手をかけながら素早く反転した。

「こんなもんで止まるかァ！」

　マルセロは難なく障壁を破壊する。しかしその先にあるものを見て、ピタリと足が止まった。

「なっ――」

　出遅れた筈のオルトが、目の前に剣を構えて立ち塞がっていた。

「上手い」

　スミスの口から称賛が漏れる。エイミーは口に手を当てて驚いていた。

　咄嗟（とっさ）に出せる程度の壁でマルセロを阻止出来るとは、ネーナも考えていなかった。

　自分には無理でも、オルトなら止められる。だけどそのオルトは出遅れている。ならば、追いつくまでの時間を稼げばいい。

　ネーナはマルセロの視線を切る為に障壁を展開し、その向こうにオルトの幻覚（イリュージョン）を置いたのだった。絵心があり、オルトの造形を細部まで脳内に叩き込んでいるネーナならではの一手である。

「……美化し過ぎじゃないか？」

「ぬおっ！？」

　本物のオルトが苦笑しながら追いつき、マルセロの頭部に戦外套を巻きつける。

　随分と切り裂かれてはいるものの、通常の金属鎧を遥かに上回る強度を誇るドワーフ製の戦外套は魔人の膂力（りょりょく）でも容易には引き千切れない。

　オルトはスピードを殺さずにレナの下へ到達すると、胸倉を掴んだ。

「ちょ、オル――」

「エイミー！！」

　有無を言わさず全力で投げ飛ばせば、宙を舞うレナの身体を突風が攫（さら）っていく。

「馬鹿が、命綱を放しやがった」

　漸（ようや）く戦外套を除去し、視界を取り戻したマルセロはニヤリと嗤った。

　この瞬間、オルト一人が完全に孤立していた。レナを逃がす為に体勢を崩し、マルセロに大きな隙を晒した状態で。

　レナの回収で後衛の手は塞がり、オルトへの援護は間に合わない。マルセロの本当の目的はこれだったのだと、ネーナは愕然とする。

「――手間かけさせやがって」

　対応しようと振り返るオルトの胸を魔剣『魔神の尾（デビルエンド）』が捉え、鮮血が舞う。

　仲間達が息を呑む。ネーナは声にならない悲鳴を上げた。

　今にも倒れそうな独楽（こま）のように、麻痺で力を失ったオルトの身体がゆっくりと回る。

　レナが駆けつけて麻痺を解除するよりも、ネーナやエイミーが援護するよりも、マルセロがオルトに止めを刺す方が早い。完全な詰み、オルトを助ける方法は無い。

「――レナ！　エイミー！　ネーナ！」

　スミスが三人の名を呼ぶ。その後に続く指示は、余りにも厳しいものだった。

「全力でマルセロを攻撃しなさい！　ここで逃してはなりません！」

　他に手は無いのだと、ネーナにもわかっている。

　マルセロはどの道、後衛のネーナ達を襲う。早いか遅いかの違いでしかない。接近されれば勝機は無い。であれば今、まだ離れている内に狙うべきだ。

　だけどこのタイミングで三人が最大火力の攻撃を放てば、確実にオルトを巻き込んでしまう。それはネーナにとって、余りにも残酷な指示であった。

　それでもネーナは、棒杖（ワンド）を両手で握り締めた。オルトならば必ず、「撃て」と言うからだ。戦いが始まる前、「どんな犠牲を払ってでもマルセロを倒す」と言ったのも、他ならぬオルトだ。

「ギャハハハ！」

　マルセロがオルトの背後で勝ち誇り、魔剣を掲げる。

　――剣身強化（エンハンサー）――

　振り下ろしかけたその時、オルトがグラリとバランスを崩した。背中からマルセロにもたれ掛かる。

　マルセロが舌を打つ。ネーナ達は、驚愕していた。

「チッ、悪足掻き、を――っ！？」

　マルセロは口から黒い体液を吐いた。その背中には、光の切っ先を伸ばすスタインベルガーの刃が生えていた。

「――漸く捕まえたぞ、マルセロ」

　口の端から血を流しながら、自らの腹に剣を刺したオルトが不敵に嗤った。