第二百二十九話 こっちは急いでんのよ

 ネーナは屋上の庭園で、ロレッタと紅茶を楽しんでいる。

 

 周囲は柔らかな光に包まれているが、遠くまでは見通せず霧の中のようでもある。

 

 ロレッタはカップを置くと、おもむろに立ち上がった。深々とお辞儀をし、ネーナに背を向けて歩き出す。

 

 彼女の前方に、いくつもの人影が浮かび上がる。それらは老夫婦や、使用人と思しき制服を着た人々の姿となった。いずれもネーナが知らない顔だ。

 

 ロレッタを迎える人々の眼差しは優しい。振り向いたロレッタの顔は、時が戻ったように若々しかった。

 

 ロレッタが人々と共に手を振り、その姿が薄れ始める。

 

 ネーナは胸の前で、小さく手を振り返す。

 

 やがてロレッタ達は消え去り、ネーナの視界は暗転した――

 

 

 

 

 

「――夢、ですか」

 

 ぼんやりとした頭で、ネーナは呟いた。

 

 滞在四日目ですっかり慣れたベッドの感触。自分が寝室の高い天井を見上げているのだと認識する。陽光は厚手のカーテン越しにも、室内を薄く照らしていた。

 

 隣のベッドにエイミーはいない。寝衣は脱ぎ散らかされ、脱皮した虫の抜け殻のように盛り上がった掛け布団が残されている。

 

 昨晩の記憶はロレッタを看取り、寝室に戻った所で途切れていた。自分で寝衣に着替えたのか、ベッドに入ったのかも定かではない。

 

 強い倦怠感と疲労感が残っているのは、半日以上もバフを切らさず維持し続けた為だ。時間の長さもることながら、死期間近の人間に対する術でネーナは極限の集中を強いられたのだ。

 

 枕元には一通の封筒が置かれている。ロレッタは侯爵家の人々だけでなく、【菫の庭園】の面々にも几帳面な文字の手紙を残していた。

 

 ネーナ達が侯爵邸の離れに来たのは、ほんの四日前だ。たったそれだけの関わりな相手にも文を書き、別れを告げる為、夢にまで現れた。義理堅い事だと、ネーナは微笑む。

 

 夢の中でロレッタを迎えた人々について、ネーナは何となく想像がついていた。

 

 老夫婦の衣服や装飾品は落ち着いた、とても上等なものであった。使用人達の制服は侯爵家のもののようだが、細部が異なっていた。どちらのデザインも、少しばかり古さが感じられた。

 

 ロレッタを迎えた人々は、先に逝った親しい者達。おそらく先代の侯爵夫妻や使用人だ。ロレッタが寂しくないように、道に迷わないようにとやって来たのだ。

 

 我ながら突拍子もない事を考えるものだと思いつつ、ネーナは手に取った封筒をじっと眺める。けれど不思議と、推測はそう外れていないような気がしていた。

 

 

 

 ネーナはベッドを出てカーテンを除け、窓を開け放った。

 

 既に日は高い。腹の虫はクゥと可愛らしく、寝過ごしたネーナに抗議する。

 

「昨日はご苦労様、調子はどう?」

 

 物音を聞きつけたのか、フェスタがやって来た。エイミーのベッドの惨状に目を丸くし、苦笑交じりに片付け始める。

 

「ごめんなさい、寝坊してしまいました」

「出発は明日だから、ゆっくりしていても大丈夫よ」

 

 ここで【菫の庭園】を離脱するテルミナは、スージーと行動を共にしている。元聖女であるレナは、エイミーと共に葬儀の手伝いをしているという。フェスタは出発の準備を終え、ネーナが起きるのを待っていたのだった。

 

 出発までにしておく事と言えばスミスと連絡を取り、帝都に向かう旨を伝えるだけである。

 

「食事を用意してもらう?」

「他にもお願いしたい事があるので、自分で行きます」

 

 本来ならば帝都への移動やオルト達との合流に備え、僅かな時間でも体力回復に専念すべきだと理解している。だが出発まで時間があると聞いたネーナには、やっておきたい事が出来ていた。

 

「実は――」

 

 相談を受け、フェスタは微笑んだ。

 

「いいんじゃないかしら」

 

 ネーナは着替えを済ませて部屋を出る。

 

「では、行ってきます」

 

 メイドを通じて目的の品を手に入れたネーナは部屋に籠もって作業に没頭し、そのまま夕食になっても出てくる事は無かった。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆

 

 

 

 侯爵邸の離れの屋上。

 

 晴れ渡った空の彼方を見据え、エイミーが告げる。

 

「来たよ、ネーナ」

「はい」

 

 ネーナは棒杖ワンドを一振りし、直上へと火球を打ち上げた。それを合図としたように、東南東方向にポツンと黒点が浮かび上がる。

 

 黒点は急速に大きさを増し、左右に翼を伸ばした鳥のような影となって侯爵邸に迫る。その正体は、巨大な赤竜であった。

 

「すっごいねえ。マジでドラゴンだわ」

 

 額に手をかざし、嬉しそうにレナが言った。

 

「ジーナのやつより全然デカいよね」

「うん」

 

 エイミーがコクコク頷き同意する。

 

 ジーナという名にはネーナも聞き覚えがあった。勇者パーティーメンバーの一人で、黒竜を友とする竜槍士ドラグランサーだ。

 

 Sランクパーティーの【華山五峰フラムピークス】に所属していたが、カリタスに対する帝国の調略、工作活動並びに軍事侵攻に加担したとしてリーダーは処刑、他のメンバーは終身刑として収監されている。

 

 ネーナもカリタスで黒竜を目撃しているが、それと比べても明らかに赤竜の方が大きかった。

 

「ラーヴァドム……」

 

 侯爵邸の上空を旋回する竜を見上げ、緊張した様子でスージーが呟く。赤竜の名だと、テルミナが補足する。

 

 フェスタは肩を竦めた。

 

「きっと今頃、町は大騒ぎね」

 

 事前に知らされていた使用人達さえ目を丸くしており、いきなり巨大な竜を見た領都住民の反応は推して知るべしである。

 

 赤竜は帝都へ急ぐネーナ達の為に、テルミナが呼んだものだ。侯爵が公都に呼び出されて不在な事から、竜の飛来はスージーが家令に通告している。

 

 だが普段からバスティアンに仕事を丸投げしている家令と、侯爵夫人を自認しながら家の差配も領地運営もしないバーバラは狼狽えるばかりだった。

 

 多くの人族にとって、竜種は災厄のようなものだ。羽ばたき一つで家屋は吹き飛び、軽く振った尾が掠っただけで人は死ぬ。瘴気や突風、火炎などのブレスは、熟練の魔導士が放つ上位攻撃魔法をも凌ぐ。

 

 不幸中の幸いなのは、生息域が人里から離れている上に個体数が少なく、遭遇は極めて稀な事だ。竜を見る事なく一生を終える者が大半だろう。

 

 バーバラと家令は竜を来させるなと騒ぎ立てたが、スージーは取り合わなかった。ロレッタが亡くなったのを機に、スージーと彼女に従う使用人はバーバラ達への対応を改めたのである。

 

 そもそもバスティアンを始めとする離れの使用人達は、スージーが個人で雇用しているのだ。本来ならバーバラはおろか、侯爵でさえ強制は出来ない。

 

 それが不本意な仕事の肩代わりを引き受け、離れとはいえ居心地の悪い侯爵邸に留まっていたのは、老いたロレッタの環境を変えたくなかったからであった。

 

 ロレッタの見送りを済ませた以上、後は各々で侯爵家を出ていくだけだ。スージーもバスティアン達使用人も、ロルフェス侯爵家は当代で終わりだと考えていた。

 

 何もしなければ竜が暴れる事は無いが、余計な手出しをすれば責任は負いかねる。そうテルミナが脅した甲斐あって、本邸から騎士や兵士が出てくる様子は無かった。

 

「降りてくるわ」

 

 テルミナに促され、ネーナ達が外へ向かう。

 

 館の窓が嵐のようにガタガタと揺れる。離れの前がちょうど開けていて、赤竜がそこに着地しようとしているのだ。

 

 僅かに足下が揺れたものの、思いの外に衝撃は無かった。

 

「マヌエル!!」

 

 弾くように扉を押し開け、スージーが離れの外に駆け出す。立ち上がれば三階建ての離れと変わらぬ高さの竜が悠然と佇んでおり、その背から男が飛び降りる。

 

「スージーか?」

「元気そうね、マヌエル……」

 

 スージーはマヌエルを前に立ち止まった。

 

「あの、私……」

 

 ネーナの横で、チッと舌打ちが聞こえた。

 

 レナがスタスタと歩き、スージーの背後に近づいていく。マヌエルもスージーも接近に気づいていない。

 

「あっ」

 

 ネーナが短く声を上げる。レナは右足を振り上げ、躊躇わずに前蹴りの要領で突き出した。

 

「こっちは急いでんのよ――」

 

 

 

 ドンッ

 

 

 

「えっ?」

 

 次の瞬間。何が起きたかわからないような表情で、スージーがマヌエルの腕の中に収まっていた。

 

「お尻を蹴るなんて……」

 

 額に手を当て、フェスタが嘆息する。レナは全く悪びれる様子もなく、スージーに言い放つ。

 

「いい歳こいてモジモジしてんじゃないわよ。乙女かっつーの」

 

 何か問題でもあるのか、そんな顔で振り返るレナを咎める者はない。誰もが予想外の出来事に啞然としていた。

 

 いち早く我に返ったテルミナが、【菫の庭園】の四人に頭を下げる。

 

「ごめんなさい。私が言っておくべきだったわ」

「視野の狭さと想像力の欠如は、テルミナのせいじゃないよ。二度目だからね、これで」

 

 テルミナの謝罪は筋が違うと、レナはバッサリ切り捨てた。

 

 元々レナ達の滞在が長引いたのは、スージーが【菫の庭園】の都合を聞く事もせずにロレッタに引き合わせたからだ。そして今、一刻も早くアルテナ帝国へ向かいたい状況で寸劇を見せられそうになった。

 

 どちらもスージーが噛んでおり、レナの不満にテルミナは返す言葉もない。

 

「あたしらはもう行くから、小芝居は後で存分にやってよ」

 

 苦情を述べる時間すら惜しいと、レナが赤竜に向かって歩き出す。マヌエルも慌ててスージーから離れようとする。

 

「俺も――」

 

 だがレナは鬱陶しそうに手を振った。

 

「あんたも邪魔だから要らない」

「えっ」

 

 赤竜を連れてきたマヌエルが同行を拒まれ、愕然とする。マヌエルはレナ達と共に赤竜に乗り、帝都へ行くつもりだったのだ。

 

 レナは懐から指輪を取り出し、右手の人差し指にはめた。

 

「ラーヴァドム、あたしはレナ。急な話だけど、あんたの力を貸して欲しい」

 

 かざした手を風が巻き、赤竜が目を見開く。

 

『トラムソーニック……どうしてそれを』

 

 低い声がネーナの頭の中に響く。周囲を見れば、その場の全員に聞こえているようであった。

 

「『嵐帝竜』から直接預かったの。あたしらは急いで行きたい場所がある。無理にとは言わないけど、連れて行ってくれない?」

『よかろう』

「有難う、ラーヴァドム」

 

 赤竜はあっさりとレナの要請に応じた。

 

 驚きのあまり固まっているマヌエルに駆け寄り、テルミナが背中を叩く。

 

「何してるの、お土産持ってきたんでしょ! 早く出して!」

「あ、ああ」

 

 テルミナはひったくるように取ったポーチを、丸ごとネーナに渡した。

 

「使えそうなものを見繕って持ってこさせたの。お礼のつもりだったけど……お詫びになったわ」

「貰っといたら?」

 

 興味無さそうにレナが言い、フェスタも頷く。ネーナは礼を述べてポーチを手にした。

 

「ドラゴンさん、よろしくお願いしまーす」

「お背中に失礼します」

 

 エイミーがヒョイヒョイと鱗をよじ登り、フェスタが続く。

 

「ラーヴァドムさん、宜しくお願いします」

 

 二人のように身軽でないネーナはペコリと一礼し、棒杖ワンドを出して『空中浮遊レビテーション』を行使しようとする。

 

『待て、小さき人族よ』

「はい?」

 

 制止されたネーナは首を傾げる。長い首を曲げ、赤竜はマジマジとネーナを見た。

 

『名を何と言う』

「ネーナ・ヘーネスと申します」

 

 問われたままに答えると、赤竜は解せない様子ながらそれ以上は聞かず、背に乗るよう促した。フワリと浮き上がり、エイミーの横に着地する。

 

 最後にレナが、赤竜の鱗に手をかけた。

 

「あんたは、あたしの事が嫌いみたいだけど――」

 

 振り返り、スージーを見据える。

 

「あたしもあんたみたいな、ウダウダウジウジしてる構ってちゃんは嫌いだね」

「っ!」

 

 レナが竜の腹を駆け上がる。スージーはマヌエルの腕の中で、唇を噛み締めた。

 

「ラーヴァドム、行って」

『承知』

 

 赤竜が遠慮がちに羽ばたくと、四人を乗せた巨体がゆっくり上昇する。

 

「皆、気をつけて! オルトとスミスに宜しくね!」

「テルミナさんもお元気で!」

「テルミナお姉さん、またね!」

 

 テルミナの呼びかけに、ネーナとエイミーが応えた。

 

 ホバリングしながら向きを変えたラーヴァドムは、地上でテルミナ達が見守る中、弾かれたような急加速で帝都に向けて飛び去った。

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