第二百二十八話 こんな幸せな事が、あるのでしょうか

 侯爵邸滞在四日目の朝。

 

 屋上の小屋でネーナが尋ねる。

 

「――お加減は、いかがですか」

 

 血色の良い顔に笑みを浮かべ、ロレッタは応えた。

 

「とても良いです、ネーナ様。お許しが出たらスキップしたいくらい」

 

 補助や背もたれなしでベッドに上体を起こした姿は、三日前とは別人のように生気を感じさせる。毎日ロレッタの様子を見に来ていたスージーは、今朝も早くに顔を出し、安堵した様子で立ち去った。

 

「自分の身体がこんなに軽快に動くだなんて、すっかり忘れていました」

 

 周囲の尽力もあって、今日のガーデンパーティーに照準を合わせたコンディション調整はピタリとはまった。今の姿を見て、誰も彼女が死期間近だとは思わないだろう。

 

 ただネーナもロレッタ自身も、周囲の者もわかっている。これは生命の蝋燭に点る灯の、最期の輝きなのだという事を。

 

 既にネーナは、ロレッタに受け入れの意思を確かめた上で『身体強化フィジカル・アップ』を行使している。

 

「ロレッタさん、そろそろ支度をしましょうか」

「ええ」

 

 メイドのコルネに促され、ロレッタは自分の力で鏡台の前に座る。

 

「覚えていますか。私が初めてこのお屋敷にご奉公に上がった時、ロレッタさんに髪をかして貰った事を」

「勿論よ。コルネはまだ成人前で、頬が林檎みたいに真っ赤で可愛らしかったわ」

「仕事の仕方も、お化粧や身だしなみ、読み書きや計算まで教えて貰いました」

「ふふっ」

 

 突然、ロレッタが何か思い出したようにクスクスと笑った。どうしたのかとコルネは首を傾げる。

 

「そう言えばコルネ、領都のタチの悪い男に引っかかりそうに――」

「そ、それは忘れて下さい!」

 

 ロレッタの髪を梳かす手は休めず、コルネが顔を赤くする。

 

「私も覚えていますよ。当時のメイド長やロレッタさんが、男の家に乗り込んだんですよね」

「シリルまで……」

 

 ベッドメイクをしていたシリルも話に交ざってくる。

 

 苦笑いのコルネはネーナとエイミーを置いてきぼりにしていた事に気づき、鏡越しに微笑みかけた。

 

「私は貧しい村の代官の娘で、幸運にも先代の奥様にお口添えを頂き、ご奉公に上がれるようになったのです」

 

 学も無く世間知らずな小娘に、領都ハリステアスはあまりにも魅力的で、かつ刺激的だった。無警戒に歩き回るコルネが女子供を食い物にする輩に目をつけられたのは、必然の成り行きと言えた。

 

 ロレッタが遠い目をする。

 

「コルネが町でも評判の悪い男について歩く所を、買い物に出ていた使用人が偶然目撃しまして。私に相談に来たんです」

 

 ロレッタからメイド長に話が上がってからは早かった。

 

 侯爵家の使用人は男女の別なく、変事に備えて剣や短槍の訓練を積んでいる。ロレッタを含むメイド達は各々の短槍を引っ掴み、メイド長を先頭に侯爵邸からの長い坂道を領都に駆け下ったのだという。

 

 男の家を取り囲み突入すると、コルネは厳つい男達に脅され、借金の証文にサインする寸前。正に間一髪であった。

 

「その後私は、メイド長やロレッタさん達に大目玉を食らって大変でしたよ」

「私達は先代の奥様に叱られたのよ? どうして自分も連れて行かなかったんだって」

 

 悪びれないコルネに、ロレッタは呆れ顔で言う。

 

「暫くは町に出ても冷やかされるし、恥ずかしかったわ」

「『ロルフェスの戦乙女ヴァルキュリア』って、語り草になりましたものね」

 

 揃いのメイド服に身を包んだ一団が小脇に短槍を抱え、戦に臨むような鬼気迫る形相で町を駆け抜けたのである。それは領都住民達も仰天し、シリルが言う通りの語り草にもなるだろう。

 

「はわあ……」

「かっこいい〜」

 

 ネーナ達が感嘆する。ロレッタは顔を赤くして俯いた。

 

「あの時ロレッタさん達に助けて貰わなかったら、今日こうやってロレッタさんの髪を梳かす事は出来なかったんですね。不思議な気持ちです」

 

 コルネの声には感慨が込もっていた。

 

 

 

 久しぶりにメイド服に袖を通したロレッタは、自ら小屋の扉を開けて一歩を踏み出した。

 

 日射しを遮るように、額に手をかざす。

 

 本人が自分の足で歩きたいと希望した事で、台車を通す為に渡された板は撤去されていた。ロレッタはコルネのエスコートを受けながら、しっかりした足取りで庭園の土を踏みしめる。

 

 ネーナは医師の代わりとして、ロレッタの異変を見逃すまいと目を凝らす。もう一つネーナには、このパーティーが終わるまで絶対にバフを切らさないという大事な役割もあった。

 

 パーティー会場にロレッタが現れると、待ち構えていた参加者がワッと沸き返る。彼女が椅子に腰を下ろすのを待ち、人々が集まって来る。

 

 中に数名、ネーナが初めて見る使用人がいた。

 

「ロレッタさん……私達までパーティーにご招待頂けるなんて……」

 

 男性の使用人が涙ぐむ。その肩にロレッタは優しく手を置いた。

 

「イオタ、来てくれて有難う、嬉しいわ。他の皆もね」

 

 ロレッタはスージーやバスティアンに、これまで開催されたガーデンパーティーにならって、侯爵家の使用人全てに招待状を出したいと伝えていた。

 

 侯爵家に解雇され、スージーに雇用された者が三十名ほど。今も侯爵家に雇用されており、侯爵邸に常駐している者は七十名ほどだ。後者にはバーバラやその父親、兄も含まれ、新たに雇われた使用人もいる。

 

 結局、侯爵家からパーティーに参加したのは六名のみ。バーバラや家令が参加を禁じた為、職を辞して駆けつけたのだという。

 

 その使用人達は、スージーが面談して召し抱える事となった。

 

 

 

「これだけの参加者が集まり、パーティーを開催できる事を嬉しく思います。今日は楽しみましょう、乾杯!」

 

 スージーの宣言でパーティーが始まる。

 

「お料理適当に取って来たよ~」

 

 エイミーが早々にどこかへ行ったと思えば、料理が盛られた皿を両手で持って戻ってきた。パーティーの間、不測の事態に備えてロレッタに張り付くネーナを気遣ったのである。

 

「有難うございます、エイミー」

「わたし、フェスタお姉さんとレナお姉さんにお料理持って行くね」

 

 そう言い残したエイミーは、談笑する参加者の間をスルスルと抜け、再びバイキングのテーブルに向う。レナとフェスタは、館の入り口で警備についていた。

 

 そのバーバラ達はと言えば、レナに蹴散らされた翌日にやって来たものの、再び追い返されてからは静かなものであった。 

 

 

 

 入れ替わり立ち替わり、ロレッタの下を使用人達が訪れる。バスティアンもワイングラスを片手に昔話に花を咲かせ、ネーナに会釈をして去っていった。

 

「調子はどう、ロレッタ」

 

 パーティーも終わりに近づいた頃に近づいてきたのは、紫のドレスに身を包んだスージーであった。

 

「有難うございます、奥様。素敵なパーティーを楽しんでおります」

 

 二人は暫し、黙って見つめ合う。

 

「――有難うと言うのは、私の方よ」

「奥様、頭を上げて下さい」

 

 突然感謝を述べたスージーに、ロレッタも他の使用人達も狼狽える。

 

「貴女がいなければ、私はとっくここを逃げ出していたわ」

 

 結婚式を終えたその日の夜。スージーは寝室で、夫である侯爵よりねやを共にする事は無いと告げられた。

 

 自らは内縁の妻の隠れ蓑でしかなかったのだと知り愕然とするスージーに、ロレッタや心ある使用人達は正当な侯爵夫人として尽くした。

 

 それだけでなく主の侯爵に対して、請われて来たスージーへのこの仕打ちは、ロルフェス侯爵を継いだ者のする事ではないと意見したのである。

 

「あの時の料理長は亡くなってしまったけれど……貴女が彼に、ピルチャードとじゃがいものパイを焼いて欲しいと頼んでくれたのでしょう?」

 

 スージーの故郷を調べる事は出来ても、郷土料理まで知る者は珍しい。雑談で軽くロレッタに話した事を、スージーは覚えていた。

 

 一人で寂し気に食事をするスージーに、使用人達とテーブルを囲む事を勧めたのもロレッタだ。

 

 こんがり焼けた生地の海から、魚の頭や尾が飛び出す特徴的なパイ。皿を前に目を丸くするロレッタ達を思い出し、スージーは微笑む。

 

「貴女がしてくれた事は、私にとって大きな心の支えになったのよ」

 

 二人のやり取りに耳を傾けながら、ネーナは唇を噛んだ。ロレッタに残された時間が、いよいよ尽きるのを感じ取ったのだ。

 

 日は傾き、東から暮色が迫っていた。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆

 

 

 

 エイミーが両手のひらを上に向け、前に差し出す。

 

 ――お庭の精霊さんたち、お願い――

 

 応えるように菜園の植物が茎や蔓をゆるゆると伸ばす。使用人達がどよめく。然程の時も経たぬうちに、植物のドームが出来上がった。

 

 壁の一部や天井は窓の如く開き、刻一刻と変わる天のグラデーションを映している。にもかかわらず、ドームの中は快適な室温に保たれていた。

 

 辺りが暗くなると、いくつもの光球が浮かび上がる。全てエイミーが、精霊の力を借りて為している事であった。

 

「精霊術とは、すごいものですね……また一つ、土産話が出来ました」

 

 ドームの中心に置かれたベッドの上で、ロレッタが目を細める。

 

 そうして、ポツリと呟いた。

 

「――私は、長く生きすぎたと思っていました」

 

 スージーと離れの使用人達は、ロレッタの言葉を聞き逃すまいとベッドを囲んでいる。

 

「私が倒れてしまった為に、奥様に長くお辛い思いをさせてしまいました。私が奥様を、この館に縛り付けてしまったと、ずっと悔やんでおりました」

 

 スージーがロレッタの右手を取り、そんな事は無いと、無言で頭を振る。

 

「ですが――生き長らえたおかげで、奥様をご友人の方々が迎えに来て下さりました。優しいお嬢様がたにお逢いできて、皆とパーティーを楽しむ事もできました」

 

 ロレッタは暗くなった空を見上げている。しかしその瞳にはもう、星の輝きも映っていないのだと、ネーナは察していた。

 

「そしてこうして、皆に看取られて穏やかに最期を迎える事ができる。こんな幸せな事が、あるのでしょうか。有難う。ありがとう……」

 

 ロレッタは、ゆっくりと目を閉じた。

 

「……ネーナさん、お願いします。皆さん……おやすみなさ、い――」

 

 その言葉を最後に、ドームが沈黙に包まれる。

 

 ネーナがスージーに視線を向ける。スージーは無言で頷く。

 

 

 

 たった四日間。けれどもそれは、とても濃い時間であった。ネーナはロレッタとの会話を思い起こす。

 

 ネーナはスージーの反対側に回り、左手を取る。一呼吸して、半日維持したバフを解除した。

 

 ロレッタを注視するが苦しむ様子は見られない。内心で大きく安堵する。

 

 呼吸も脈も、どんどん弱くなっていく。力や熱が失われていく。

 

 やがてネーナはロレッタの左手をベッドに置き、静かに告げた。

 

 

 

「ロレッタさんは、天に召されました――」

 

 

 

 夜のしじまに、嗚咽おえつとすすり泣く声が響いた。

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