第二百二十四話 侯爵夫人の事情
レナに吹き飛ばされた男は、倒れたままピクリとも動かない。館の使用人も、侵入者達も呆然とそれを見ている。
「いやだって、国宝って言ってもおかしくない鎧とか剣持ってて、あんな弱いとは思わないよ……」
「まあ、そうよね」
レナの言い訳に、フェスタが苦笑を漏らす。仲間達も同情的であった。
男の鎧にはロルフェス侯爵家の紋章が刻まれており、わかる者ならば強力な付与魔法を感知出来た。剣も同様で、一兵卒が所有出来る代物ではない。
事実、男と共に侯爵夫人邸へ来た衛士の三人は、揃いの
そんな男がメイドを殴り、あまつさえ剣を向けた。力量を見極める時間も無かった。
ネーナが不機嫌そうに言う。
「その方は放っておいても、死にませんよ」
倒れたメイドの傍に駆けつけたネーナは、軽傷であった事に安堵した。両手を消毒して綿を千切り、自作のポーションを浸して
「……あの男は、庭師の
バスティアンが苦々しい顔で言う。男は派手な女性の兄であり、父親は庭師から家令となったのだという。
通常では有り得ない人事だというのは、王族だったネーナにもわかる。長く続く貴族家には、やはり代々仕える使用人がいる。基本的には同じ仕事を世襲するものだ。
バスティアンは、この館の使用人は侯爵家から解雇され、スージーに雇用されたと言った。要職である家令の変更なども含めて、当代の侯爵が承認しなければそんな事にはならないのだ。
侯爵家で何かが起きているのは、容易に想像できる。それも、ろくでもない何かが、である。
「――に、兄さん!」
それまで固まっていた派手な女性が、バタバタと走り出す。
牛が暴れているかのような酷い走り方。ドレスにも、
女性は横たわる男の傍らに、ペタンと座り込んだ。メイドの治療を終えたネーナが歩み寄ると、衛士達がその前に立ち塞がる。
「治療の邪魔です」
『!?』
棒杖の一振りで、衛士達の足が膝の上まで凍りつく。
「侯爵家の主は侯爵閣下。それに次ぐのが侯爵夫人である事は誰にでもわかります。侯爵夫人の館で起きた
痛いところを突かれたのか、身動きの取れない衛士達が
「きゃっ! 何するのよ!」
「治療です」
ネーナの返事が合図だったように、男がパチリと目を開ける。女性が喜色を表す。
「兄さん!」
「……バーバラ、俺は何を……うッ!?」
上体を起こして辺りを見回した男は、レナと目が合い顔を青ざめさせた。後ずさりする男を見て、レナが不服そうに口を尖らせる。
「私はネーナ・ヘーネス。薬師で冒険者でもあります。センスの欠片も感じられない下品な装いで侯爵夫人の館に乗り込み、傍若無人に振る舞う貴女は一体何者ですか?」
ネーナが煽りを交えて問いかけると、バーバラと呼ばれた女性は、水滴を拭いながらキッと睨んだ。
「私はドネルの妻よ! 私にこんな事をして、許されると思ってるの!?」
「おかしいですね」
女性の憤慨を受け流すように、ネーナは芝居がかった仕草で首を傾げる。
「私達はロルフェス侯爵夫人のスージー様を訪ねて来たのですが、他に奥様がいらっしゃるとは存じませんでした」
「あんな年増の
チラリと顔を窺えば、ネーナの意図を悟ったバスティアンは諦めたように小さく肯いた。
ネーナはバーバラから情報を引き出そうとしていた。スージーが事情を話せないなら、話せる者に聞こうと考えたのである。
「貴女に侯爵夫人の務めが果たせるとは、とても思えないのですが」
「そんなもの、あの年増にやらせるからいいのよ! その為に連れて来たんだから!」
少し煽ればペラペラと喋る。良く言えば素直だが、頭が足りず全く駆け引きに向いていない。侯爵という上級貴族の妻としてやっていけるとは、ネーナには思えなかった。
庭師から家令になったという女性の父親も、似たようなものに違いない。この二人の仕事を肩代わりしていたのが、スージーとバスティアンという事になる。
「侯爵領では、私がドネルの妻だって皆知ってる!」
「スージー様は侯爵閣下との約束で、侯爵夫人だとご自分では言えませんからね」
「そうよ!」
ネーナも仲間達も呆れながら、おおよその事情は理解出来た。後はスージー本人に問い質すだけである。
「それで、どうして冒険者を探していたのですか?」
「退屈だから旅の話をさせようと思ったのよ!」
ネーナは溜息をついた。この館の使用人だけがスージーの味方だというなら、正門か通用門の門衛が報告したのかもしれない。
何にせよ、【菫の庭園】一行にはバーバラの呼び出しに応じる義理は無い。そのように断ろうとするネーナに先んじて、投げかけられる声があった。
「――それでは、侯爵閣下がお戻りになりましたら、私が彼女達を伴いご挨拶に伺います」
「っ!?」
バーバラの顔色が変わる。彼女と対峙していたネーナが振り返ると、使用人の人垣が割れて、急ぎ足で向かってくるスージーが見えた。
「ごきげんよう、バーバラ様。邸内の見回りご苦労様です」
声をかけられたバーバラは、動揺して目が泳いでいる。
「ふ、ふん! 余所者が何をしでかすか、気が気じゃないのよ!」
スージーの視線が、虚勢を張るバーバラから座り込んだままのバーバラの兄へと移る。
「バンデラ様はいかがなさいましたか?」
「ちょ、ちょっと滑っただけよ! もう帰るわ!」
バーバラが怯えている兄――バンデラに代わって答えると、ネーナはパチンと指を鳴らした。衛士達の足の凍結が解除される。
バンデラは衛士に両脇を支えられて何とか立ち上がり、バーバラがスージーを指差し言い放つ。
「お飾りの侯爵夫人が調子に乗らない事ね!」
「肝に銘じます」
「??」
「……覚えておきます」
「っ! いちいち難しい言い方しないで!」
スージーが言い直せば、捨て台詞が決まらなかったバーバラは、顔を真っ赤にして逃げるように立ち去った。
テルミナが感慨深げに言う。
「変われば変わるものね。あのスージーが、場を収める為とはいえあんな小娘にへりくだるなんて」
「し、使用人達がいる所で、余計な事を言わないで」
恥ずかしそうに笑った後、スージーは遠い目をした。
「でも……そうね。ここに来て、私がそれまでどれ程守られていたのか、思い知らされたわ」
「それ、マヌエルに言ってあげなさいよ」
テルミナの言葉に、スージーは頭を振る。
「勝手に期待して、勝手に失望して、後の迷惑も考えずに飛び出して。……合わせる顔が無いわ」
ネーナの目にスージーの顔は、酷く寂しげに映った。
◆◆◆◆◆
「また、皆様にお世話になってしまいました」
スージーに合わせて、食堂内の使用人達も一斉に頭を下げる。
バスティアンの報告で、【菫の庭園】一行がバーバラ達に痛い目を見せた事や『契約』に関する内容があらかた知られた事まで、スージーには伝わっていた。
最早『契約』について隠す必要は無くなった、そう判断したスージーは、歓迎会を兼ねた晩餐の後で使用人達も食堂に集め、これまでの事をテルミナ達に伝える事を決めたのだった。
スージーは間違いなく、侯爵夫人である。公都で婚姻も挙式もなされており、そこに誤りは無い。
一方、当代のロルフェス侯爵であるドネルにはバーバラという妻と幼い男児もおり、共に本邸で暮らしている。バーバラとは領都で式を挙げているが、公式な侯爵夫人はスージーの方だ。
ドネルとバーバラは三歳違いの幼馴染。他に同年代の子供はおらず、先代の侯爵夫妻も多忙であった為に二人は長い時間を共に過ごし、恋仲になった。
やがてドネルに他家との婚約話が持ち上がるも二人は拒否し、先代侯爵夫妻が事故により
若い貴族家当主ともなれば、様々な思惑で縁談が寄せられる。公務や社交においてもパートナーが必要な場面が多いが、バーバラは平民であり勉学嫌いで学も無く、連れ出せない。
解決策としてドネルと執事が考えついたのが、お飾りの侯爵夫人を立てる事であった。彼等にとっては折よく、北方のトリンシック騎士団領が陥落し、ベネット要塞から奇跡の生還を果たしたSランクパーティー【屠龍の炎刃】が領都に滞在していた。
ドネルはバーバラの存在を隠し、スージーにアプローチした。スージーは求婚を承諾し、パーティーを離脱して侯爵領に残った。全てを知らされたのは挙式後である。
スージーの役目は、ドネルの表向きのパートナーとして領地外の公務に同行する事、そしてロルフェス侯爵家の差配をする事。だが権限は無く、女主人とは認められていない。
侯爵領内で侯爵夫人と名乗る事は許されず、自らの現状を他者に伝える事も出来ない。侯爵邸では離れで暮らし、ドネルと公務以外で顔を合わせる機会は滅多に無い。
現在スージーの使用人となっているのは、元家令のバスティアンのようにスージーの処遇に異を唱えて苦言を呈した者。或いはバーバラとその兄、空席となった家令に据えられたバーバラの父に目をつけられて解雇された者。
他にもドネルや、バーバラの父や兄のお手つきで捨てられ、行き場の無くなった者もいる。スージーはそれらの者を自分の使用人として改めて雇い、保護していたのだった。
スージーとドネルは、お互いに不干渉を貫いている。だがドネルが公務で侯爵邸に不在の時や、ドネルとスージーが共に領地を離れている時、バーバラは離れまでやって来て嫌がらせをする。
ネーナ達との出会いとなったバスティアンが行き倒れていた件も、元はと言えばバーバラが無茶な注文をした為に遠方の職人を訪ねなければならなかったからだ。
「……私がドネルに選ばれたのは、貴族家のしがらみが無くて、年上で年齢的に子供の事を考えずに済んで、身寄りが無くて、領地経営や侯爵家の差配を押し付けられて、色々と都合が良かったのね」
スージーが自嘲気味に言う。
だがネーナから言わせれば、そうまでしてバーバラに配慮しながら、ドネルが隠れてメイドに手を出しているのが信じられなかった。
スージーの元パーティーメンバーであり友人でもあるテルミナは口を開かず、非難がましい視線を向けている。それに気づき、スージーは苦笑した。
「言いたい事はわかるわよ。他にやりようもあったと思う。ただあの時の私に、自分が捨てたパーティーに泣きつく選択は出来なかったし、放り出せない理由も出来てしまったの」
席を立ったスージーに、使用人がランタンを手渡した。
「皆様に会って欲しい人がいるの」
彼女はそう言ってネーナ達を、館の屋上にある庭園へと導く。やがて一軒の小屋の前で立ち止まった。
スージーがノックをして中に入り、灯りを点けてからネーナ達を招き入れる。
小屋の中では、老女が床に伏せっていた。
弱々しく微笑む老女を一目見て、ネーナはわかった。
彼女は、もう長くないだろうと。
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