閑話十八 償いの日々の中で
――ああ、目が覚めちゃった。
覚醒する意識の中で、今の状況を認識する。昨日眠りについた時のまま、ただ時間だけが過ぎていた。
残念。そう小さく呟き、冒険者ギルド職員のアイリーンは、くたびれたベッドの上に身体を起こす。
彼女にとって、目覚めは昨晩の、寝る前の続きだ。それ以上でも以下でもなく、期待も失望も無い。
出勤の時間に合わせて機械的に準備をし、ギルドの制服を着用して最低限の身だしなみを整える。
姿見に映る自身の姿を、アイリーンはじっと見つめた。
本当ならこの部屋から出たくはない。内外から板を打ち付けた窓が、まるで独房の格子のような、殺風景で狭い部屋。今の彼女にとっては、鍵のかかるこの部屋にいる時だけが、唯一心休まる時であった。
後ろ髪引かれる思いで部屋を出て、職員寮からすぐ近くのギルド支部へ向かう。何も起きませんようにと祈るような気持ちで、五分程の距離を足早に歩く。
アイリーンの安全が守られるのは、ギルド本部の監察官も寝泊まりしている職員寮と、支部長が常駐するギルド支部だけ。若い女性が寄り道をしたり、のんびりと歩いていれば、時間に関係なく性被害に遭うのが関の山だ。
そういう場所なのだ。彼女が今いる、この『カリタス』は。
「お早うございます」
無事に着いた事に安堵しながら、ギルド支部の扉を開けて挨拶する。酷く酒臭い空気が漏れ出すのにも、もう慣れた。
一人苦笑を漏らしながら、アイリーンは自分がこの地に来てからの事を思い起こした。
◆◆◆◆◆
当初、アイリーンに挨拶を返す者はいなかった。
冒険者達は下品な言葉を投げかけ、支部で幅を利かせているらしい一部の職員は、嫌味を言ったり理不尽な叱責をしてくる。
怪我をさせられる事こそ無かったが、支部長が見ていない所では小突いたり、足を蹴ってくる事もあった。
七ヶ月前、リベルタでの再教育を終えてやって来たアイリーンは、支部に配属になるなり情婦になるよう求められた。相手はカリタス支部のAランクパーティーのメンバーだった。
だがアイリーンは、そんなつもりは無いと、ハッキリ断った。するとその冒険者の取り巻きである職員達は、歓迎会と称して彼女を誘い出し、一服盛って眠らせたのである。
意識が戻った時、彼女が見たものは。自分にのしかかり、乱暴に腰を打ち付ける冒険者の男だった。アイリーンは苦痛に耐えながら男が果てるのをひたすら待ち、身体の自由が戻ると職員寮に逃げ帰った。
アイリーンは支部長と監察官に強姦被害を訴えたが、どちらも冒険者の処分には消極的だった。そのAランクパーティーは素行が悪い代わりに、地下の魔物排除で成果を上げていたからだった。
カリタスは、膨張政策により幾つかの国境紛争を抱えたアルテナ帝国を含む国々が睨み合う緩衝地帯だ。そこを国ではない、表向きは中立組織である冒険者ギルドが管理する意義は、地下迷宮の魔物を抑え込んで特定の周辺国に被害を出さないようにする事だ。複雑に絡む利害の、妥協の産物と言える。
言い換えれば、その主目的を達する為に、他の事には目を瞑らなければならない。一度入れば数ヶ月も出れなくなるカリタスに、腕の立つまともな冒険者や傭兵は来ないのだ。素行に問題がある冒険者や職員を送り込む以外に無い。
カリタスにはギルドが誘致した娼館があるものの、そのような場所を利用せずに、女性の職員や冒険者に手を出す者も多かった。女性が気軽に外を歩けるような場所ではなかったのだ。
アイリーンは、カリタスの現実を思い知らされた。
その後は他の職員から距離を置き、言い寄る冒険者を拒絶した。すると、その冒険者の取り巻きの職員による虐めが始まった。
アイリーンは、泣いた。
性被害は辛かったが、彼女にとっては耐えられない程ではなかった。父親はギャンブル狂いで母親は酒が手放せなかった。過酷な生い立ちの彼女は毒親に客を取らされ、春を散らしていた。その後も、男をたらしこむ為に何度も寝ている。
だが、虐めは無理だった。自分がシルファリオで、ギルド支部の同僚に対して行った事の罪深さを実感してしまったのだ。
その同僚は控えめで、心優しい女性であった。難病の弟と二人で暮らし、苦しい生活の中でも笑顔を絶やさなかった。
同じ支部の冒険者と婚約していたが、その婚約者はアイリーンに色目を使ってきた。町の有力者の息子で、ギルド支部のエース格の冒険者だと知り、同僚から寝取った。
同僚は悲しげではあったが恨み言を吐くでもなく、拍子抜けしたアイリーンは寝取った男と支部長を丸め込み、同僚を虐めるようになった。
同僚を貶め、見下して悦に入っていたのだと、今ならわかる。幸せを知らず、それでも幸せになりたかった自分は、他人の幸せを奪えばいいのだと思っていた。幸せを奪われ、苦しむ相手の姿がアイリーンの幸せの証明なのだと、その時は本気で思っていた。
自分のした事を大いに悔やみ、反省もしていた。だが、こうして被害者側に立った今、それも全く足りなかったのだと知った。自分が受ける虐めなど、大した問題ではなかった。
罪悪感に押し潰されそうだったが、そんな事は許されない。アイリーンの贖罪はまだ先が見えず、彼女はその為にのみ、カリタスでの日々を過ごしていた。
シルファリオでアイリーンの数々のギルド規程違反と都市法違反が露呈し、処分が決まる際、幾つかの候補の中から自分で次の任地を選ぶ事が出来た。
彼女は説明をしっかり聞いた上で、最も過酷なカリタスを選んだ。ギルドの管理地域でありながら治安が悪く、若い女性が行くような場所ではないと、シルファリオ支部のハスラムは再考を促した。だがアイリーンの決意は固かった。
カリタスの人や物資の出入りは、周囲の砂嵐が弱まる三ヶ月に一度。そのワンクールを勤め終えると、カリタスでは報奨金が支払われる。これは給与とは別で他の任地には無い、破格の待遇であった。
アイリーンはシルファリオに戻る気はなく、戻れるとも思っていなかった。ただ、迷惑をかけた人達に少しでも償いをしたかった。
謂わば執行猶予中の身であるアイリーンは、ギルドを離れればリベルタで収監されるしかない。そんな状況で働けて、それなりの報酬を得られる仕事など、そうあるものではないのだ。
元々、アイリーンは流されるタイプではない。是非は置いて、これまでの半生も殆どは自分の意志で選択をしてきた。
カリタスでのワンクールも、様々な妨害や虐めに遭いながら、大きなミス無く勤め上げる。
この時点で、性被害や虐め被害も確認されていた事から、アイリーンは別な任地に移る事も出来ると伝えられた。監察官は彼女を守る事はしなかったが、その被害や勤務態度、生活態度を記録し、評価していた。
アイリーンは、次のクールもカリタスで勤める事にした。何とかワンクール終えて僅かながら自信が芽生えた事と、引き続きシルファリオに送る金を貯めようと思った事、その他にも新たに理由が生まれていた。
必死でワンクールを過ごして、彼女にもカリタスの様々な面が見えてきた。この場所の有り様については思う所があるものの、カリタスを冒険者ギルドが管理する意義は認めざるを得なかった。
そうなれば、ギルドの職員が必要になる。自分のような人間にやれる事があるならやってみよう。アイリーンはそう思うようになっていた。彼女を取り巻く環境が、少しだけ変わりつつあった。
カリタス支部のエースパーティーやその取り巻きに迎合出来ない者に頼られる事があり、そういった者は、時にはアイリーンを守ってくれた。職員の中にも、こっそり助けてくれる者がいた。仕事の帰り、稀に立ち寄る雑貨店主夫婦に気に入られ、おまけして貰ったりもした。
エースパーティーも新たにカリタスに来たBランクパーティーに押され始めた。アイリーンに関わる余裕が無くなったのか、以前のようにキツく当たられる事も減った。
三クール目に入ると、支部長が交代した。新たな支部長は、本部の部門長から降格されてきたのだと聞いた。想像していたよりずっとまともで、冒険者が力で他者を虐げる事に対して厳しい態度で臨んだ。
◆◆◆◆◆
一日の業務が終わると、アイリーンは日誌に連絡事項を記載し、当直の職員に申し送りをした。
受付カウンターにトラブルは無く、順番待ちの冒険者もいない。
「お先に失礼します」
定刻を三十分過ぎた頃、アイリーンは挨拶をしてギルド支部を出た。
「あっ、ドライフルーツ。それとジャムも……」
歩きながら、帰宅後の数少ない楽しみである甘味を切らしている事に気づく。
支部の支給日は、まだ先だ。暫く、雑貨屋にも顔を出していない。時間もまだ早く、日が沈んでいない。迷った末、アイリーンは寄り道をする事にした。
気が緩んでいたのは否めない。
危険な目に遭わなくなっていた事で、ほんの僅かだが、普段より注意を欠いていた。僅かな隙が致命傷に結びつくのが、このカリタスだというのに。
アイリーンは、自分を追って来る者達の存在に、全く気づいていなかった。
「……貴方達、一体何の用?」
内心で
雑貨屋で買い物を済ませ、帰路についたアイリーンが気づいた時には、男達が背後に迫っていた。
手にした袋を投げつけて懸命に走ったものの、女の足で逃げ切れるものではない。相手は鍛えられた冒険者なのだ。
袋小路の奥、壁を背にしたアイリーンに、ニヤついた男達がにじり寄る。
「仲良くしようと思ったら逃げられて、傷つくじゃないか」
「何か飛んできて、怪我したかもしれねえなあ」
「こりゃあベッドで看病して貰わないとな」
相手は正体を隠す気も無いらしい。最近、支部のエース格にのし上がった、男性四人組のBランクパーティー【
「冒険者ギルドの職員は、そんなサービスは提供してないわよ。支部長の耳に入ったら――」
「知った事じゃないな」
アイリーンの言葉は途中で遮られ、男の一人に手首を掴まれる。
「来たばかりの支部長が粋がった所で、カリタスがどんな場所かはあんたの方がよく知ってるだろ」
「なあに、俺達を気持ち良くさせてくれりゃいいのさ。簡単だろ、初めてじゃあるまいし」
逃げようにも逃げられない。男達は、この袋小路で事に及ぼうとしていた。別の男の手が、制服に伸びる。
こいつらを楽しませてなるものか。それをせめてもの抵抗と決めて、アイリーンは表情を殺す。
「――何をやってる」
不意に聞こえた声に、その場にいた者達が一斉に袋小路の出口を見やった。
フード付きの外套のような影法師。裾の下には、剣の鞘のような筒が覗いている。声は男のものだが、アイリーンは何故だか、その声に聞き覚えのあるような気がした。
「お呼びじゃねえんだよ。とっとと消えな」
「だったら、嫌がってる女を離せ」
冒険者の一人が凄むも、影法師は臆さない。四人組が殺気立つ。
「ヒーロー気取りは、長生き出来ないぜ」
影法師はそれに応えず右手を左の腰に伸ばし、外套の中に入れた。
ピリリリリッ! ピリリリリッ!
突如、警笛が鳴り響き、辺りが騒がしくなる。
先程立ち寄った雑貨屋の店主夫婦か、それとも付近に住む誰かかが、男達に追われるアイリーンを見てくれていたのか。ともかく、ここまで煩くなれば監察官がやって来る。
「チッ。命拾いしたな」
冒険者の一人が舌打ちし、忌々しそうに影法師に告げる。蹴散らす事は出来ても、面倒は避けたいのだ。
【天地無用】の面々が立ち去ると、アイリーンは影法師に駆け寄った。
「あの、有難うございます。何とお礼を言っていいか」
「礼は不要だ。怪我が無いなら早く帰った方が――」
間近でアイリーンを見た影法師が、途中で言葉を詰まらせた。フードの中から現れた男の顔に微かな面影を見つけ、アイリーンは目を丸くする。
「まさか、レオンなの!?」
「こんな場所で逢うなんてな……」
アイリーンの窮地を救った影法師の正体は、彼女のかつての恋人、レオンであった。
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