第百七十五話 助けてあげたかった、です

 魔族の紅い双眸に捉えられ、ネーナはハッと精神抵抗に注力する。再び低い声が響いた。


『案ずるな、人族の娘よ。今の我には何の力も無い』


 侮るでも、嘲るでもなく、むしろ感心したような声音。ネーナは以前に異界の魔王と対峙するなり恐慌状態に陥った失敗を繰り返さなかった。魔族はその素早い対応を評価したのだ。


『この館が落ちたか。して、今一度問おう。何用だ、人族よ』


 不意の訪問者を見定めるような視線が【菫の庭園】一行に向けられる。


 その問いかけにネーナが答える事は無かった。オルトが前に進み出ると、名乗りもせず相手に問われるままに、用件を告げる。


「魔力の抽出と館内への魔力の供給を止めに来た。施設内の機器を全て停止させるつもりだ」


 出来る事ならば、この魔族とのやり取りをネーナに任せたい。きっと大きな経験になる。オルトはそう思っていた。だが【菫の庭園】一行が館内の脅威を排除しながら動力室へ急いだ理由を考えれば、都合してやれる時間は無かった。


 目の前の魔族だけでなく、動力室内の他の水槽にも人族や亜人が入れられている。全員酷く痩せていて、身じろぎ一つしない。衰弱しているのは明らかだ。


『用件は理解した。だがいいのか?』

「構わない」


 オルトが即答すると、魔族は目を見開いた。


 オルトも魔族も、施設内の機器について詳しく理解している訳ではない。それでも、動力室で抽出された魔力が館内各所に送られて機器を稼働させている事はわかる。


 オルトや仲間達が見て来た中には、機器によって辛うじて生命を維持している者もいた。そういった者達は、魔力の供給が止まれば命を落とす。魔族もそれを推察し、オルトに「いいのか」と確認したのだ。


「貴方にも猶予は無い筈だ」


 再びオルトが告げる。フェスタはネーナを伴い、動力室を出て行った。


 今この瞬間にも施設内の誰かが死に近づき、生命の炎が燃え尽きようとしている。誰がどれだけ危険なのかを確かめている暇は無い。オルトは冷徹に線を引いた。


 拘束した研究員達の証言から、動力室で魔力の抽出と供給が行われている事はわかっていた。


【菫の庭園】が動力室に到達した時、魔力を抽出されている者達が生命の危険に晒されていなければ、最低限の機器を維持する。そうでなければ魔力の抽出と供給を停止する。オルトが二者択一の断を下すのに、多くの時間は必要としなかった。


 魔族は人族や亜人より遥かに頑健で、高い身体能力と魔力を併せ持つ種族だ。目の前の魔族には首にも、手首にも足首にも、拘束する為の輪が填められている。本来はそれで抑えつけなければならなかったであろう力が、今は感じられない。


 このまま魔族を水槽の中に放置すれば、そう遠くない内に死ぬ。他の水槽に閉じ込められている者はさらに衰弱している。言わずもがなだった。


 即断したオルトに、魔族の男が抵抗する事は無かった。


『……人族の剣士よ。ぬしの決断を尊重しよう』

「一応聞くが。解放された後、暴れる気はあるか?」

『無い』


 返事を聞いたオルトは頷き、剣の柄に右手を添えた。




 ◆◆◆◆◆




「ネーナ、行きましょ」

「はい」


 ネーナとフェスタは頷き合い、足早に動力室を出る。


 魔力の抽出と、館内への魔力の供給を止める。オルトはそう決断した。それを聞いた二人は、『勇者計画』の研究室へ向かっている。


 中に閉じ込められた者を一刻も早く救出する為、水槽は破壊する事になる。機器を操作出来る研究員を連れて行けばもっとスマートであったろうが、それは結果論だ。館内に脅威が残っているかもしれない状況で、味方とは言えない非戦闘員を連れ歩くのはリスクが高過ぎた。


【菫の庭園】一行は自分達の安全を蔑ろないがしろにしてはいなかった。無事に最深部の動力室へ到達し、次に考えるのは可能な限りの者の救出。その次は館内の機器の動作を停止させる事。


 ネーナ達が館内に入ってから、外の状況はわからない。ドリアノンの解放がどこまで進んだかも不明であるが、『ラボ』制圧の火球を打ち上げれば、いずれ支部の冒険者や治安隊がやってくる筈だ。


 ネーナ達はそれに備えて全館の機器を停止させ、後続の安全をも確保しておく必要があった。その為に、拘束した研究員を動力室へ連れて行き、機器を操作させて安全に停止させようとしていたのである。


「ヘクト・パスカルの所には行きたくないし、部下の研究員が操作出来るといいけど」

「……ですね」


 裸で女性にのしかかっていたパスカルの姿を思い出し、ネーナは眉を顰める。女性は心を閉ざしたのかされるがままだったが、解放されて現実を認識すると自分の身体を傷つけ始めた。今はスミスの魔法で、強制的に眠らされている。


 パスカルと同じような事をしていた研究員や用心棒が他にいる事は想像に難くない。この『ラボ』に囚われている者達は、生還出来たとしても心身に大きな傷を負っているのだ。


 彼等や彼女等をどうやってケアしていくかは、『裏切り者』や犯罪者の処遇と共に、ドリアノンという都市がこれから直面する大きな問題となる筈だった。


「――オルトの事、気にしてる?」

「いいえ」


 フェスタが突然話題を変えた。言葉足らずではあったが意図は読めた為、ネーナは即答する。


「お兄様の方は、気にされているようですけれど」

「そうね」


 フェスタが苦笑を漏らす。


 オルトは魔族とネーナとのやり取りに割って入った。その行動についての認識を、フェスタは問うたのである。オルトの横顔は、何か申し訳無さそうな、ネーナにはそんな風に見えていた。


 魔族は会話を望んでいる節があり、発言からは機器を止める事に躊躇があるようでもあった。その理由はわからないが、オルトが機器の停止を決めた以上は会話に費やす時間も惜しかった。


 こちらの目的を明らかにして会話を断ち切り、速やかに水槽の破壊に移る。そのままネーナが相手をしていれば話を引き延ばされていた可能性もあり、オルトの判断は合理的で妥当、ネーナもそう考えていた。


 ――困ったお兄様です。


 ネーナの口元が緩む。厳しい体験の連続で削られ、ギリギリで踏みとどまっていた心が、今だけは温かい気持ちで満たされていく。


 本来なら背負い込む必要の無いものまで一人で背負う決断をし、考え得る限り妥当な判断をしているオルトが、どうして申し訳無さそうな表情をしたのか。ネーナには確信があった。


 話に割り込んで、自分ネーナに何か悪い事をしたと思っているに違いない。こんな大事な時に。自惚れでも勘違いでもない、兄妹として寄り添い、心を通わせてきた時間に裏付けられた確信である。


 重く沈んだ気分が、少しだけ楽になったような気がした。


「早くあの研究員を連れて戻りましょ」

「はい」


 フェスタに促されて、ネーナは足を早める。


「――本当に、困った兄妹ねえ」

「えっ!?」


 見ればフェスタがクスクスと笑っている。ネーナはバツの悪そうな顔で、フイと目を逸らした。




 ◆◆◆◆◆




 二人が研究員を伴って動力室へ戻ると、水槽は全て破壊されていた。


 氷で仕切られた一角以外、床は水浸し。救出された者達の殆どは自力で身体を支える事が出来ず、仕切りの内側で横たわっている。


 少し離れた場所で、一際大きな体躯の魔族とオルト、スミスが話しているのが見える。ネーナ達が戻ったのに気づき、スミスが研究員を連れて行った。


 研究員はスミスに監視されながら、機器の操作を始める。診察の準備をするネーナに、レナが声をかけた。


「全員治癒は施したけど、消耗が激しい人と意識が戻らない人がいる。二人は間に合わなかった」

「わかりました」


 引き継ぎを終えたレナが離れていく。その先には横たわっている者達がいた。遺体なのだと察して、ネーナは生存者達に目を向ける。


 救出された生存者は、魔族の男も含めて七人。生存者は通常より弱いものの、呼吸も脈もある。レナの治癒によるものか、外傷は見当たらない。


「少しずつ食べて下さいね」


 生存者にクラッカーとチーズ、水を渡し終えると、ネーナは遺体の傍で祈りを捧げるレナの隣で跪き、手を組み、目を閉じた。


 ――助けてあげられなくて、ごめんなさい。


 やせ衰えた遺体に向かい、心の中で詫びる。水槽から出された遺体は全裸で、身元の特定に繋がりそうなものはピアスと指輪のみ。


 王国教会の疑惑や聖堂騎士との対峙で、ネーナの信仰は大きく揺らいでいる。それでも願う。死者の魂が安らかであるようにと。


 祈りを終えたネーナは、遺体にかかっている外套を静かにずらす。遺体の身体的な特徴や死因に繋がる痕跡が無いか、確かめる為に。


 医者も検視官もいないこの現場では、薬師であり最も医学の知識を持つネーナがその代わりを務める事になる。さらにネーナは、人相書きを作成して行方不明者の情報を各所に提供しようとしていた。


 例え変わり果てた姿となっても、大切な人達の下へ帰す為に。目を逸らさずに観る。




「――我も、この者達の冥福を祈って構わないだろうか」




 背後からの声に、ネーナが振り返る。そこにはオルトと、外套を二着繋いで腰に巻いた魔族が立っていた。


 先程と声の感じが違うのは、水槽の壁や透明な液体を通して話していたからか。レナの治癒が効果を上げたのか、それとも魔族の回復力なのか、幾らか活力が戻っているように見える。


「む。邪魔をしたか、娘よ」

「いえ。私の用は済みました」


 遺体に外套を被せ、レナと共に場所を譲る。魔族は片膝をつき、腹の辺りで両手を合わせて黙祷した。


 ――仮初の器、現世の苦しみより解き離たれし魂が癒やされん事を――


 低い声で朗々と詠い上げるように、祈りの言葉が紡がれる。ストラ聖教の祈りとは違うが、死者を悼む思いに溢れているとネーナは感じた。


 祈りを終えると魔族は立ち上がり、オルトと共に動力室を出て行った。


「――あいつ、アルカンタラって名前で、ガル・ネリの神職なんだってさ」


 動力室の出口を見ながらレナが言う。ネーナは首を傾げた。


 ガル・ネリという名はネーナも知っている。唯一神ストラ・ディ・バリと神代に抗争を繰り広げた大悪魔なのだと教わっていた。その神職とはどういう事か。


「ストラ聖教はストラ以外の神格を認めていません。ですが古い創世神話では、ストラ、ガル・ネリ、アマティの三柱の大神について語られています」

「聖教は長い歴史の中で色んな宗派や宗教を潰して来たからね。帰順した連中の信仰対象は聖人、聖霊、そうでないのは悪魔、悪霊なのよ」


 疑問がネーナの顔に出ていたのか、スミスとレナが解説をする。いずれも、王女時代に王都教会では聞く事が出来なかった話であった。


「館内の機器はほぼ停止しています。後は残された魔力が照明と扉の開閉で消費されるだけです」


 スミスが再び拘束された研究員を指し示す。


「私達の仕事はほぼ終わりです。オルトが合図をしているでしょうから、後は館内を見回って、ドリアノンの冒険者や治安隊が駆けつけるのを待つだけです」


 それを聞いたレナは、大きく伸びをした。




 ◆◆◆◆◆




「……お兄様」


 建物を出たネーナが、一人で立ち尽くすオルトを見つけて歩み寄る。オルトは無言で振り返った。


 森の木々に阻まれて太陽は見えないものの、既に夜は明けている。戦闘を示す物音は聞こえない。


 ネーナはオルトの隣で立ち止まった。二人の前には放射状に地面が抉れた爆発の痕跡があり、飛び散った血肉が焼け焦げて異臭を放っている。


「テルミナが来た。ドリアノン全区画の解放に成功したそうだ」

「はい」

「アルカンタラ――あの魔族は、見つかると面倒だから姿を隠して貰った」

「はい」

「囚われていた者は、治安隊が到着次第保護してくれるそうだ」

「はい」

「……よく頑張ったな」


 オルトがネーナの頭をグシグシと乱暴に撫でる。ネーナがポロッと涙を零した。


「……助けてあげたかった、です」

「ああ」

「大事な人達の下へ、大好きな人達の下へ……グスッ、帰してあげたかったです」

「ああ」

「ヒグッ……こんな場所で、苦しんで死ぬなんてあんまりです……っ!!」

「ああ」


 もう我慢しなくていい。目の前で爆死した女性の表情を思い出す。ネーナはオルトにしがみつき、抑えきれない感情を爆発させた。




「うわあああああんっ!!」




 廃棄区画に泣き声が響く。仲間達は二人の後ろで、静かに黙祷を捧げていた。

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