第百六十五話 ディモーノの少年

 スラムを目前にして、先頭を進むレナが不意に足を止めた。


「……聞こえた?」


 夜の静寂を切り裂く、悲痛な叫び声。叫んだのは女性か、子供か。怒号は男の声のようであった。仲間達の耳も、確かにそれを捉えていた。


 すぐに静寂が戻る。【菫の庭園】一行が駆けつけたスラムは、一見すると前回通過した時と変わらないように思われた。


「何か、いる」


 物陰で息を潜めているスラムの住民とは別の、何者かがいる。そうレナが呟く。


 バタバタと忙しなく駆け回る足音に時折声が交じり、夜のスラムに響いている。まだ【菫の庭園】一行の到着に気づいた様子は無い。


 顔を合わせて良い事があるとは思えないが、相手は動き回っている。回避は難しいと一行は判断し、遭遇を覚悟してスラムに踏み込む。


 ランタンを持ったフェスタがレナに続く。テルミナはトーチを手にしている。光源として使いながら、必要な時には炎の精霊の力を借りるのだという。


「何かを、探しているのでしょうか?」

「何かを追いかけているようでもあるけど」


 ハンカチーフで鼻を抑えたネーナに、フェスタが応じた。一行は目立たないよう、路地へと入っていく。


「はわっ!?」


 突然オルトに目を塞がれ、ネーナは驚きの声を上げた。


「あまり絵面の良くないものがある。見ない方がいい」


 オルトに頭を抱えられた体勢で、ネーナはコクコクと頷く。悪臭が強まった事で、何となく察したのである。


 辺りに漂う、濃い死の臭い。このスラムには全く違和感なく馴染んでいる。そんなものが存在する日常を、ネーナは想像出来なかった。


 多くの死者が眠るサン・ジハール王国の王立墓地とも、シルファリオの共同墓地とも全く違う。戦場は似ているのだろうか。ボンヤリとそんな事を考えていたネーナの耳に、フェスタの声が聞こえた。


「見て」


 フェスタが地面を指し示す。ランタンの灯りは、新しい血痕を照らし出していた。地面には他にも幾つもの血の痕があったが、その殆どは古く乾き、黒ずんでいた。


「どっちに向かってるか、だけど……」

「あいつらから遠ざかる方ね」


 レナが親指を立てて空に向け、即答した。スラムに響く足音は、まだ【菫の庭園】に近づいていない。


 足音と反対方向を見れば、微かに血痕が続いている。ネーナはオルトの手を退け、暗闇に眼を凝らした。


「お兄様、この方は怪我をしているようです」

「そうだな」

「追いましょう」


 ポーチを開いて中の包帯や薬品を確かめ、ネーナが主張する。暗闇の先にいるのが何者かわからないまま、手当てをする為に追おうというのである。


 仲間達は肩を竦めるが異論は出ず、追跡を開始する。だが先行したレナとフェスタが、すぐに足を止めた。


 ランタンが照らす地面を見て、追いついたネーナは眉を顰める。


「これは……」


 灯りの中に、ネーナが手を広げた位の大きさの血の染みが浮かび上がっている。人が転がったように周辺が乱れ、何かを引きずったような血の混じった痕跡が先に続いていた。


「ここで誰かが倒れた。ここまで出血を手や衣服で押さえてたけど、倒れた弾みで外れた。立ち上がれず、這って移動した。体力的に厳しいのかもね」


 ネーナの問いに、レナが簡潔に答えた。


 這って移動したと思しき痕跡は、裏路地の一つに消えている。一行は血痕の主が移動した方向へ、正確に追えているようであった。


 オルトはテルミナに視線を向ける。


「この辺りの血痕を隠す事は出来るか?」

「深く染み込んではいないでしょうし、土を入れ替えましょうか」

「頼む」


 時間が無い事を理解し、テルミナは返事の代わりに軽く右手を振った。見る間に血痕が地面に呑み込まれ、消え去る。


 足音は未だスラムに響いている。『探しもの』は見つかっていない様子。オルト達が見つけたものを探しているのか、それとも別の何かを探しているのかは相手に聞かねばわからない事だ。


「そう先には行っていないだろう」

「地図通りでしたら、そこは袋小路の筈です」


 オルトの言葉にネーナが応じ、一行は裏路地を覗き込む。


 物置として使っていたのか、袋小路には木箱に樽、木材などが乱雑に置かれている。這って進んだ痕跡は、その奥に続いている。




「――お兄さん、来るよ」




 エイミーの警告で仲間達に緊張が走る。


 バタバタと遠くを走っていた足音が次第に一行に近づき、ローブ姿の一団が姿を現した。数は七名。


「何だ、お前等は」


 先頭の男が、不躾にランタンの光をオルト達に向けた。目のいいエイミーが顔を背ける。


 一団が着用しているローブは、グレー地に左胸の辺りで縦横に赤いラインが交差する、シンプルなものだ。五名はしっかりとフードを被っている。




 ――いない、か――




『剣聖』マルセロの姿は無い。付近に気配も感じられない。安堵した自分を心の中で叱咤し、オルトはローブ姿の一団と相対する。


「俺達は旅の冒険者だ。今日ドリアノンに着いて、夜を明かす場所を探していて通りかかった」

「冒険者だあ? 怪しい奴等だな……」


 ランタンを持った男が、自らの風体を棚に上げてオルト達を睨む。フードは被っておらず、緑がかった暗い色の髪を短く刈り上げている。剣呑な目つきはお世辞にも友好的とは言えない。


「こんな時間に騒がしくすれば、気にもなるだろう。一体何の騒ぎなんだ?」

「『浄化』に決まってるだろうが! お前等、顔を隠してる奴は亜人か『混ざり物』じゃねえだろうな!?」


 オルトとスミス、レナ以外のメンバーは帽子や上着のフードを被っている。オルトは対峙している一団を、話に聞いた人族至上主義の秘密結社の『純血の誓い』だと当たりをつけた。


「ハナから喧嘩腰の怪しい一団に遭遇したら、素顔を晒さないように考えてもおかしくないだろう。人族でなかったら何だというんだ?」

「チッ」


 毅然とした態度を崩さないオルトに、男はあからさまに舌打ちをする。


「『浄化』だと言ったろうが! 人族以外はこっちに引き渡せ!」

「話になんないわね。あたしらに喧嘩売ってるって事でいいの?」


 にじり寄るローブの一団を牽制し、レナがポキポキと指を鳴らす。ネーナやテルミナを袋小路に入れ、顔を見せているオルト達三人が庇うように前に出た。


 一瞬だけオルトが振り返り、ネーナと視線が合わさった。




 ◆◆◆◆◆




 オルトの意図を察し、顔を隠しているネーナ達四人は小走りに袋小路の奥へ向かう。


 この先にいる筈の『誰か』は、間違いなく重い怪我を負っている。一刻も早い手当てが必要と考えたオルトは、『純血の誓い』と対峙する決断をしたのであった。


 壁に立てかけられた木材の陰。そこにボロ布のような服を纏った子供が倒れていた。予想以上に状態が酷く、ネーナは絶句する。


「酷い……」


 フェスタが慎重に痩せた身体を抱え上げ、地面に広げた外套の上に横たえる。子供の容姿に違和感を覚えつつも、その横にネーナは膝をついた。


 呼吸はあるが弱く、意識が無い。出血が目立つのは左脇腹の刺し傷。暴行によるものであろう痣は全身に。酷く衰弱しており、生きているのが不思議な程。


 ポーションを飲ませ傷口の処置を済ませても、依然として危険な状況である。


「レナさんを――」

「私に任せて」


 法術を頼む為にレナを呼ぼうしたネーナを、テルミナが制する。テルミナはエイミーを傍らに呼び、横たわる子供に視線を向けた。


「この世界の多くのものに精霊は宿っているの。私達の生命にもね」


 非常にコンタクトが難しく、名前も知られていない生命の精霊。テルミナの技量をもってしても力を借りるのは容易ではない。


「でも、ここは精霊王の加護により、精霊の力が強まるドリアノンだから――」


 ――生命の精霊よ、この子に生きる力を――


 子供の胸に柔らかな光が浮かぶ。苦しげな表情が、幾分穏やかになった。仲間達も安堵の溜息をつく。


「この子自身の生命力を活性化させたから、失った血も補われるわ」

「お疲れ様です、テルミナさん」


 額の汗を拭うテルミナを労い、ネーナは改めて子供の容姿を眺める。


 少年のような鼻筋の通った容貌。手入れもされず汚れた金色の髪。全身の痣とは無関係に紫がかった肌の色。人族ともエルフとも、ネーナが知るどの亜人ともかけ離れた外見上の特徴。


「この子は、一体……」


 ネーナが独り言ちる。それに応えたのは、テルミナであった。


「『魔混ディモーノ』ね――っ!?」


 ――ピリリリリッ!!


 再びネーナが口を開こうとした時、夜のスラムに警笛が鳴り響いた。ネーナ達は一斉に、オルト達の方向に意識を向けた。




 ◆◆◆◆◆




 ネーナ達の気配が遠ざかるのを感じ、オルトは改めて『純血の誓い』の一団に向き直った。


 ここから和解しました、とはならないだろう。全員が顔を見せろと要求されれば、ハーフエルフのエイミーとエルフのテルミナの存在が知られる。やり過ごせない以上は押し通るしかない。オルトは覚悟を決めた。


 ローブのフードで顔を隠している相手の中には、軍隊か傭兵の経験者がいる。オルトは彼等の身のこなしから、それを確信した。


 数年前まで最前線であったドリアノンだけに、元兵士が過激な秘密結社や犯罪組織に流れている事は容易く予想出来たのである。


 抵抗の構えを崩さないオルト達を見ても、相手は余裕を失わない。


「お前等が冒険者か傭兵か知らねえが、逃げおおせるとは思うなよ?」


 ランタンを持った男がニタリと笑い、レナの身体を舐め回すように見る。


「何を隠してるのか、じっくり身体に聞くさ。このドリアノンじゃ、『行方不明者』は珍しくないからな」


 それを聞いたレナは不快そうに顔を顰めた後で、オルトにしなだれかかった。


「はあ? この人オルトのでお腹いっぱいだから、あんた達の粗チンはお呼びじゃないんだけど」


 無表情のオルトの耳元で、レナが悪戯っぽく「演技、演技」と囁く。スミスが堪えきれずに噴き出した。


「……生意気な口を叩けるのも、今の内だ」


 男が懐から取り出した警笛を吹き鳴らす。やや間を置いて、応答するように別の警笛が鳴った。バタバタと足音が近づき、揃いのローブに身を包んだ増援が現れる。


「何だよ一体。やっと大人しくなって、これからお楽しみだったのによう」


 増援のリーダーらしき男が、開口一番に文句を言う。オルト達は絶句した。


 リーダーらしき男は、後ろ手に縛られた女性を引き連れていた。服は剥ぎ取られたのか全裸で、顔は腫れ上がり、鼻や口から流れる血が暴行を容易に想像させた。


 両の素足は真っ赤に染まり、歩く度に酷く痛む筈。だが抵抗する気力も無いのか、涙を流しながら引かれている。


 レナが呆然と呟く。


「治安隊は何してんのよ……」

「来る訳ねえだろ! お前等も助けが来るなんて思うなよ?」

『…………』


 ランタンを持った男が勝ち誇ったように応じ、レナとオルトは顔を見合わせた。


「だってさ、オルト。止めないでよ」

「好きにやれ。スミスはサポートを頼む」

「任せて下さい」


 スミスの返事に、レナが獰猛にしてこの上なく美しい笑顔を見せる。


 オルトは自ら地獄への扉を開いた男達に対して、同情も憐れみも感じる事は無く。不幸な女性の救出に全力を尽くそうとしていた。

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