第百六十二話 ここが私の居場所です
ネーナが薄っすらと眼を開けると、そこは柔らかい闇の中であった。
「ふわぁ……」
次第に意識が覚醒し、自分が毛布の中に潜り込んで眠っていた事を認識する。
逞しくて、大きくて、温かいものを抱え込んでいて、それがオルトの左腕である事に気づく。ネーナは毛布の中で一人ニンマリ笑うと、頬を擦りつけて幸せな気分に浸った。
「お早う、ネーナ」
「お早うございます、お兄様」
モゾモゾと毛布から顔を出し、オルトと挨拶を交わす。ネーナは申し訳無さそうな顔をした。
ネーナやエイミーが寝床に潜り込んだ時、大抵は朝になればオルトは先に起き、ベッドを抜け出して早朝の稽古をしたり朝食を作ったりしているのだ。
二人ともそれがちょっとだけ不満で早起きを試みたりもするが、朝になれば、やはりオルトが先に起きている。
なのに今朝に限っては、自分の起床までいてくれた。その理由をネーナはわかっていた。自分が昨晩の話でショックを受けたのを感じ取り、気を遣ってくれているのである。
そんなネーナの胸の内を察したのか、オルトがストロベリーブロンドの髪を優しく撫でる。ネーナは気持ち良さそうに目を細めた。
「もう起きるか?」
「後少しだけ、このままがいいです」
オルトを挟んだ反対側では、エイミーが大の字になって寝ている。ネーナは我儘を言うとクスリと笑って、再び毛布に潜り込んだ。
◆◆◆◆◆
散々惰眠を貪った後で、ネーナも漸くベッドに別れを告げた。
遅めの朝食を取ってから庭に出て、稽古をしているオルトを眺めながら、自らも魔力を体内で循環させる訓練を始める。
魔力操作は、駆け出しから中級に上がるまでの魔術師が行う鍛錬法だ。実力的には上級のネーナもキャリアは浅く、時間を見つけては基礎的なトレーニングを欠かしていない。
そのネーナが、オルトに声をかける。
「……お兄様」
呼びかけに返事は無い。だがネーナは、無言で剣を構えるオルトが、こちらに意識を向けているのを感じている。
オルトは微動だにせず、急かす事もせずにネーナの次の言葉を待っている。その様子に、ネーナは長く仕えてくれた侍女を重ねた。
ネーナは不思議な気分に包まれながら、自分の思いを口にする。
「……私は、優しいお兄様のお傍に居られて、パーティーの皆と一緒に居られて、とても幸せで。でも……」
このまま自分は『ネーナ・ヘーネス』で居て、本当にいいのか。そんな不安が何度も首をもたげて来てしまう。ネーナの告白を、オルトは黙って聞いていた。
ネーナは気に病んでいたのである。元は自国の兵士を強化する目的であった『帝国勇者計画』が、他国にも支持された事を。
代々の皇帝が膨張政策を引き継ぎ、今も領土を拡大し続けているアルテナ帝国は、幾つもの領土紛争を抱えている。その帝国が強兵を手にすれば、いずれは他国に向けるのが目に見えていた。
どう見ても自国の戦力を増すものであるのに、近隣の紛争当事国までが帝国の声明を支持した。各地で魔族の攻勢が強まっていた点を考慮しても異常である。
その答えは、昨晩にスミスが告げていた。
『サン・ジハール王国は、召喚したトウヤを魔王軍との戦いに投入するに当たって、各国に見返りを要求していました』
問題だったのはネーナの祖国の振る舞い。元王女のネーナは勿論、元近衛騎士のオルトとフェスタも初耳であったが、レナとテルミナは事実だと認めた。
当時のレナはまだ勇者パーティーに加わっておらず、ストラ聖教の有力な聖女候補として『神聖都市』ストラトスにいた。テルミナは既にSランクパーティーの冒険者であった。二人は王国の要求を正確に知り得る立場だった。
勇者トウヤは王国を出る前に、国王派の同行者達の指図を受けなくなった。地図に無い、名前も無い村の一件からである。トウヤのコントロールを諦めたヴァンサーン達国王派の同行者は、同行を取り止め王都に帰還した。
スミスもレナもハッキリとは言わなかったが、ネーナは察してしまった。その同行者達は、元より魔族と戦うつもりは無かったのだと。大陸西部を襲った戦乱の中、防戦に腐心する国々から火事場泥棒よろしく『対価』を
スミスやエイミーが勇者トウヤの死亡と魔王の撃退を報告しに訪れた際、国王や重臣達と勇者パーティーの面々が余所余所しかった理由もわかった。それで説明がついてしまった。ネーナは情けない思いで一杯だった。
傍若無人なサン・ジハール王国への対抗馬として、力は持っているアルテナ帝国が期待されたのである。だから王国がトウヤの手綱を握れていない事が露呈すると、対抗馬も不要となって脅威だけが増し、周囲はこぞって帝国の計画を潰しにかかったのだ。
「外交でもあるから、王国の動きだけが理由ではないと思うけどな。強国に
「…………」
オルトの言葉は、ネーナには単なる慰めのように聞こえた。
王女の地位を放棄し、王国を出奔してから、ネーナは多くの事を見聞きし学んだ。そして愕然とした。
国際社会でのサン・ジハール王国の信用は、皆無に等しかった。それは現国王のラットム一代で成した、ある意味偉業と言えた。
隣国で歴史的にも深い繋がりのあるワイマール大公国の苦境につけ込んで攻め込み、返り討ちに遭い、その上勇者召喚に関わる一連の問題である。むしろ国内も含めた様々な問題を帳消しにしようと召喚に手を出し、深みに嵌ったようにしかネーナには思えなかった。
国王ラットムを含む現王国上層部での国政運営が続けば、積もり積もった不満は早晩爆発する。流血の事態を上層部が回避出来るのか。
思い悩んでいたネーナに、オルトが優しく声をかける。
「ネーナは中途半端に特権や王国の庇護を受ける事なく筋を通した。もしもネーナが『アン・ジハール』に戻りたいのなら、俺達は止めない。だけど――仕方なくとか、戻らなければいけないとか、そんな事は考えなくていい」
ネーナは驚きで目を見開いた。オルトはネーナの胸の内の葛藤を、的確に言い当てたのだ。
オルトが苦笑する。
「あのな。俺が何年、
「はうぅ……」
オルトが自分を見ていてくれた喜び半分、恥ずかしい所まで見られていた羞恥半分で、ネーナは頭を抱えた。
「王国はこれから、きっと荒れるだろう。『アン王女殿下』が戻れば、もしかしたら情勢は落ち着くかもしれない。だがそんなものは、一時しのぎに過ぎないんだよ」
オルトはネーナの思いを代弁した上で、それは間違っていると断じた。ネーナは気を取り直してオルトを見つめる。
そして国民も、国王派と反国王派の王侯貴族も、求めているのは軽い御輿である王女のアン・ジハールだ。それぞれが自分達の目的の為に、何もしない『看板』を欲している。
見識を持った賢者であり、多彩かつ強力な魔術を操る魔道士であるネーナ・ヘーネスの出る幕は無いのだ。
「そこに王女殿下の責任は無いんだ。周囲の人間が思惑を持って、そう育てたんだから」
オルトの言葉は、スッとネーナの腑に落ちた。
王女アンは王城を出る前に、漸く成人年齢に達していた。母は早くに亡くなり、姉は他国に嫁いで王位継承権を放棄した。
直系で王位継承権を持つのは王女アンただ一人。そんな状況でも、プライドが高く猜疑心の強い国王ラットムはアンを後継に指名しなかった。
アンの祖父である先王に重用されていたユルゲン将軍や、王女付きの侍女であるフラウス達、『
それでも無風とは行かず『王女の騎士』に殉職者は出たが、アン自身は無事に成人を迎える事が出来た。その代わり
「国王陛下自身も、面倒事が起きれば表向きは王女殿下に譲位して矢面に立たせ、権力は自らが握り続ける気でいたんだろう。王女殿下が何も知らない方が都合が良いと考える者が多かったのは事実だ」
オルトの指摘に、ネーナの碧い瞳が揺れる。
「アン王女殿下は国民に人気があり、初代国王の『聖者』ジハールと、彼に召喚されて魔王を打ち倒した『勇者』にして初代王妃のリンカの直系の子孫だ。だけどそれだけなんだよ、今の王国で王女の帰還を求めている者にとっては」
「…………」
ネーナは無言で頷いた。
王女アンの容姿と血統の裏付け、必要なのはそれだけ。わかっていた事である。御輿を担ぐ者に権威と正当性を与えられるならば、別人ですら構わないのだ。
少し虚しさを感じたネーナに、オルトとは違う声がかけられた。
「――あたしから言わせればさ。たった一人の王女がいなきゃ立ち行かないなら、どの道駄目になるって。王女だって聖女だって、勇者だって同じよ」
「レナさん」
まだ寝足りないのか、大欠伸をしながらレナがやって来る。
「皆がさ、こう何て言うか――コストか、それを払って守ったり維持すべき事を、一人の女の子が義務感とか責任感でやるのはおかしいと思う」
レナは言いながら、ネーナの隣の椅子に座ってテーブルに突っ伏す。
「今までかけた金がどうこうって話ならさ、さっさとSランクに上がってガンガン稼いで、
「Sランクの依頼なんて、そうそう出て来ないけどな。レナもたまには良い事言うじゃないか」
「失礼ね〜」
突っ伏したまま不満そうな声色で、レナが足をバタバタさせる。その子供っぽい仕草に、ネーナはクスリと笑う。
オルトが安堵したのか、僅かに表情を緩めたのをネーナは見逃さなかった。改めて心配をかけていた事を自覚する。
「生まれは自分で選べないし、育ちだって子供にはどうにもならないわよ。それでもネーナは今、自分の意思でここにいるじゃないの」
「はい」
「あたしは【菫の庭園】が好きよ。居心地良いし。ちょいちょいオルトは意地悪だけど」
「はい」
ネーナが頷くとオルトは苦笑したが、口を挟まなかった。
「ネーナは王国を離れたんだから、後の事は王国に生きる人が自分で考えて決めるべきよ。その結果も当然、自分達で引き受けなきゃ。それで、ネーナはどうするの?」
レナが顔を上げ、ネーナを見つめる。ブロンドの長い髪がサラサラと流れ落ちた。
「決まってます」
ネーナが立ち上がり、オルトに向かって走り出す。
「おっと」
オルトは剣を鞘に収め、勢い良く飛び込んで来たネーナを受け止めた。
「ここが私の居場所です。私はここに居ます」
「そう来なくちゃ」
レナが微笑む。
厳しい現実を、真実を知り、また心が揺れるかもしれない。それでもここには、いつでも自分を抱き止めてくれる人がいるのだ。
オルトの腕の中で、ネーナは思いを新たにしていた。
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