第百四話 公爵の謝罪

「ん〜っ!」


 絵筆を置き、ネーナは大きく伸びをした。満足そうに目の前のキャンバスを眺め、絵の出来に頷く。


「これは力作です!」


 この一月程、ネーナは寝食を忘れる程の集中力で絵画の制作に取り掛かっていた。絵はブルーノ達の結婚式前のスケッチで、三人の花嫁が肩を寄せ合って窓の外を眺める姿。後ろからの構図を、大きなキャンバスに油彩で仕上げたものである。


 王城を出て以来、ネーナが絵を描く機会は無かったが、やってみれば楽しいものだった。それはきっと、望まれた絵だからだ。ネーナはそう思った。


「でも、どこで乾燥させましょうか……」


 絵の具が完全に乾くのを待つのに、自室に置いてはおけない。臭いが残ってしまうからだ。乾燥棚をファラに頼んで『ヴィオラ商会』で取り寄せて貰うか、オルトにせがんで一緒に買いに行って貰うか。


「甲乙つけがたいです……」


 ネーナが本気で悩んでいると、廊下をパタパタと走る足音が近づいてくるのに気づいた。足音はネーナの部屋の前で止まり、扉がノックされる。


「どうぞ」


 声をかけると、メイド服姿のセシリアが入って来る。セシリアはキャンバスの絵を見て、目を輝かせた。


「すごい! これがあの、結婚式の時の絵!?」

「はい、頑張りました!」


 胸を張って答えたネーナは、キャンバスをしげしげと眺めるセシリアの様子に首を傾げる。


「セシリアさん? 私に何か用事があったのでは?」

「あっ!? オルトさんから、『来客があったから応接室に来て』って!」

「来客? わかりました」


 慌てて部屋を出て行くセシリア。ネーナは姿見の前に立ち、絵の具が頬や指に着き大惨事となっている自身を見て、ガックリと肩を落とした。






「遅くなりました」


 どうにか着替えを済ませたネーナが応接室に入り、オルトに手招きされて来客の正面に座る。室内にいる仲間は【菫の庭園】のメンバーだけ。【四葉の幸福クアドリフォリオ】に移籍したブルーノは依頼に出ている。


「あっ」


 来客の顔を見たネーナは、驚きで口に手を当てた。


「本当に、アン王女殿下なのですね……私の事を覚えておられますか?」


 来客もネーナの姿を見て、驚きを隠せずにいた。


「マリスアリア・ド・シュムレイ公爵殿下……ご無沙汰しております。勿論、覚えています」


 当代のシュムレイ公爵、つまりシュムレイ公国の元首。コスタクルタ伯爵同様、公爵家を支える『三伯』の一角であるホワイトサイド家より夫のヤンセンを迎えているが、公爵位はマリスアリアが継承している。


 ネーナが会ったのは一度きり、それも十年も前の事だ。マリスアリアは父親である当時のシュムレイ公に連れられ、サン・ジハール王国で行われた式典に参加していた。その時に面会したのだ。


 覚えているというより、ネーナの記憶能力によって『忘れていない』というのが正確な程度の希薄な縁だ。


「アン殿下は当時もとてもお可愛らしかったのですが、すっかりお美しくなられて……」

「有難うございます、マリスアリア殿下。私は既に王族の地位を返上し、平民の冒険者『ネーナ』と名乗っております。私に敬称等は不要です」


 応えながら、ネーナはマリスアリアを顔を見る。十年前と変わらぬ美しさではあるが、少し窶れていて顔色も悪いと感じられた。


「失礼ですがマリスアリア殿下。お顔の色が優れないように見えるのですが……」


 ネーナの言葉に、マリスアリアは目を伏せた。その時に漸くネーナは、マリスアリアの背後に彼女を気遣う護衛の騎士と【明けの一番鶏】の面々がいるのに気づいた。


「お気遣い有難うございます……ネーナ様。突然の訪問で申し訳ございません。私、本日はオルト様、並びに【菫の庭園】の皆様にお詫びに参りました」

「お詫び、ですか?」


 ネーナが聞くと、マリスアリアは神妙な顔で頷いた。


 謝罪をされる心当たりはある。北セレスタでオルトが拘束されそうになり、実害こそ無かったがシルファリオにも公国騎士がやって来た一件だ。本来ならば外交問題になる所を、オルト達の強い意向で町の揉め事に止めて貰っている。


 だが、ネーナの目の前にいるマリスアリアは少数の護衛に冒険者を伴っている。どう見ても非公式、お忍びでの来訪だ。都市国家とて一国。しかもシュムレイ公国は、大きな嵐の渦中にある。その元首の行動としては違和感が有り過ぎる。


 その違和感は、次のマリスアリアの行動で吹き飛んだ。マリスアリアがおもむろに頭を下げたからだ。


「……この度は、オルト様並びに【菫の庭園】の皆様には大変な御迷惑をお掛けしました」

「マリスアリア殿下!?」


 面食らうオルト達。慌ててネーナがマリスアリアに頭を上げさせる。


「『シュムレイ三伯』の一翼を担うコスタクルタ伯爵領で起きた事態、そして公国騎士がオルト様を拘束しようと動いた一件。明らかに異常事態でありながら、当初は調べが一向に進みませんでした」


 夫であるヤンセンが宰相に就任して以降、『三伯』とりわけホワイトサイド家と公爵家の力関係は大きく変わっていた。ヤンセンが実権を握り、マリスアリアが政治に関わる機会は減っていたのである。


 マリスアリア自身、領民の命を賭した訴えがあるまでは、コスタクルタ伯爵領の状況を知らずにいたのだ。ヤンセンに尋ねると『貴族の所領に介入すれば大きな問題となる』として調査に難色を示した。


 それでも食い下がるマリスアリアに、ヤンセンは『公国』ではなく『公爵家』として動く案を提示した。公爵家の騎士で、マリスアリアの身辺警護を務めるウーベ・ラーンに調査をさせるよう勧めたのだ。


 オルトが呟く様に言う。


「……そして、騎士ラーンは捕らえられた。情報を流したのは宰相か?」

「オルト様はご存知だったのですか!?」


 驚き、身を乗り出す勢いのマリスアリア。オルトは頭を振った。


「廃坑の牢獄にあって騎士ラーンは武装解除されていなかったし、俺に見えた範囲では拷問や暴行の跡も無かった。戦えば単身逃走は可能な状況で、自らの足で牢に入った可能性が高い」


 ラーンはそれを選択せざるを得なかった。そのように仕向けられるのは、ラーンが仕える公爵の夫である宰相ヤンセン。恐らくはラーンの主であるマリスアリアの身柄について脅迫した。オルトはそう推測した。


 マリスアリアが嘆息する。


「概ね、オルト様の推察の通りです。愚かな私はヤンセンに言われるがまま、『大切な騎士』を手放し、失ってしまいました」


 実行犯のコスタクルタ伯はラーンの武勇を惜しみ配下になるよう求めたが、ラーンは拒否。コスタクルタ伯は勧誘を諦め牢獄を放置、ラーンは死亡した。


「ウーベは……代々公爵家に仕える家の生まれで。歳の近い私達は、幼い頃から長い時間を共に過ごしました……」


 ネーナがオルトに尋ねる。


「どうして宰相閣下はそのような事を?」

「伯爵家同士ライバルでありながら、対公爵家の同士でもある。貴族だからその辺は使い分けて、公爵の護衛を一枚剥がした。それと……」


 オルトが途中で言い淀む。その視線はマリスアリアに向いていた。


「構いませんオルト様。謝罪に来た私が隠しだてするのは誠実とは申せません。私とヤンセンは――『白い結婚』でした」


 マリスアリアの告白に、言葉を返す者はいない。ネーナは護衛の騎士までも驚いている様子を見て、公爵家の者も知らなかった事実なのだろうと考えた。


「前公爵である父が急死し、私は後ろ盾なくして当主と爵位を継承しました。ですが小娘一人がやって行ける程、貴族の世界も政治も甘くありません」


 その時マリスアリアにいち早く近づいたのが、『三伯』の筆頭であるホワイトサイド家である。


 長子であるヤンセンとの婚姻を支援の条件に出したホワイトサイド家に対し、マリスアリアは『白い結婚』の後に婚姻の解消と公爵位の移譲を行う事を認めさせて婚姻を受け入れた。


 こうして表向きは盤石な地位に就いたマリスアリアだが、公爵家とホワイトサイド伯爵家、更には夫であるヤンセンとの水面下の綱引きはずっと続いていた。マリスアリアは自嘲気味にそう言った。


「私はウーベの死を報らされた時、衝撃と悲しみで何も出来ずにいました。その間に自らの関わりが露見するのを恐れたヤンセンが動き、オルト様達や冒険者ギルドにも御迷惑をお掛けする事になってしまいました……」


 オルトを拘束して『公爵家の騎士を斬った』とし、オルトと死んだラーンの二人に責任を被せる。宰相ヤンセンの目論見はその辺りかとネーナは考えた。


『三伯』が公爵家を封じ込めれば全てが闇に葬られていたかもしれなかったが、大きく流れの変わる出来事が起きたのである。


「アラベラさん達が生還し、ラーン様に託された袋をお父上に渡された……」


 ネーナの言葉にマリスアリアの護衛の一人が前に出て、発言の許可を求めた。壮年の男が名乗る。


「ガエタノ・シレアと申します。【菫の庭園】の皆様には、娘の命を救って頂きお礼の申し上げようもありません」


 ガエタノはアラベラから袋を受け取り事の次第を知るや、知己に声をかけて中立派の貴族を率いてマリスアリアの下へと参じた。そこで公爵家とホワイトサイド伯爵家の力関係が再逆転したのだ。


「俺達の力など知れたものです。アラベラ達【明けの一番鶏】が、救援が来るまで生き延びた事。それが全てです」


【菫の庭園】としては、冒険者として『救援依頼レスキュー』を遂行したに過ぎない。オルトがそう告げると、ガエタノは感嘆のため息を漏らした。


 ガエタノが下がると、今度はもう一人の護衛が発言の許可を求めた。


「オルト殿、私はイルクナーと申します。貴殿はラーンと一騎打ちをしたと聞きました。あいつは……ラーンは、強かったですか」


 オルトは真剣な表情の若い騎士を正面から見据え、居住まいを正して答えた。


「彼は強く、勇敢だった。よく鍛え上げられていた。今まで俺が戦った剣士の中でも、屈指の剣技の持ち主だった」

「……有難うございます、オルト殿」


 若い騎士は涙を堪えて引き下がる。マリスアリアもハンカチで目頭を抑えていた。そのマリスアリアが遠慮がちに口を開く。


「オルト様。私も一つだけ、お聞きしたい事があります」

「何でしょうか」


 マリスアリアは少し逡巡した後、消え入りそうな小さな声で、オルトに問いかけた。


「彼は、ウーベは……私に何か、言いましたか?」


 オルトは間髪入れずに、ハッキリと答えた。


「『愛している』と。『幸せになって欲しい』と、そう言いました」

「っ!? そう、ですか……有難うございます」


 最後の礼は、涙声だった。マリスアリアは深々と頭を下げた。護衛の二人と【明けの一番鶏】の面々は、オルトの返事に驚きを隠せずにいた。






 公爵家の馬車が遠ざかっていく。見送る【菫の庭園】一行の中で、フェスタが呟いた。


「シュムレイ公国はこれから大変ね」

「更に大変にしかねない発言を、オルトがしてしまいましたし。護衛の方々もギョッとしていましたよ」


 スミスが苦笑すると、オルトは憮然とした表情で応える。


「言われたくなければ、ラーンが死ななければ良かったのさ。途中まで言ってから言い直して、黙ってて貰えると思うのは甘いぞ」

「私は、お兄様が伝えて良かったと思います」

「うんうん。わたしもそう思うよ」


 オルトは左右で同意を伝えるネーナとエイミーの頭を撫でる。


 夫である宰相ヤンセンが公爵家の騎士、それもマリスアリアに近しいウーベ・ラーンを害する動きをしていた事で、仮初の夫婦関係も、公爵家と伯爵家の関係も変わるであろう。


 オルトの発言はそこに火を点けたのではないか? とスミスは指摘したのだが、オルトは知った事ではなかった。そしてネーナもそれは同様であった。


 ――ラーン様の願い通り、お幸せになって欲しいけれど。


 ネーナは、マリスアリアが帰り際に見せた儚げな笑顔を思い起こしていた。

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