閑話六 帰りを待つ者達は

「もうとっくに三ヶ月過ぎてるのに……」

「帰って来ないね、司祭様……」


 テーブルを挟み、向かい合って座る少女達の表情は暗い。しっかり者のマリアと気の強いルチアは、同居人の『司祭様』ことブルーノが旅から戻る予定の三ヶ月を楽しみに待っていた。


 ところが、ブルーノは三ヶ月が過ぎても帰って来ない。当初はのんびり構えていた二人も、一週間が過ぎ、二週間が過ぎると平静ではいられなくなった。


 四人がけのテーブルの、キッチンから一番遠い席は、この三ヶ月半は誰も座っていない。大柄なブルーノは配膳の邪魔になるからと、キッチンから遠ざけたやり取りも遠い昔のように思える。

 二人は、既に帰宅予定の印から三週間経過したカレンダーを眺めて溜息をついた。


「司祭様の身に何かあったのかしら……」

「それとも、帰って来たくなくなったのかな……」


 これまで必死に頑張って抑えてきた心の声が、口をついて出てしまう。


 そこに、彼女達と共に暮らすもう一人の少女がひょこっと顔を出した。


「ねえ二人とも、そろそろお夕飯作らないと――って暗いよ!? 部屋も暗いけど二人ともお葬式みたいな顔してるよ!?」


 パタパタとランプへ向かい火を灯す。


「セシリア……」

「もう、どうしちゃったのマリア! 司祭様が帰って来るまで頑張って待つって言ったじゃない! ルチアも!」

「あんたは元気ね……」


 腰に手を当て見下ろすセシリアに、ルチアは力なく言った。

 ブルーノが旅に出て最初の一ヶ月は泣いてばかりだったセシリア。今では、逆に元気の無くなった二人を引っ張るようになっていたのだ。


「二人がずっと私を励ましてくれたから、元気でいられるんだよ。三人で司祭様に『おかえりなさい』って言うんだから」

「…………」

「司祭様は帰って来るよ、私達のお家に。お土産一杯抱えて。約束したんだもん。さ、ご飯作ろう! 司祭様が好きなお肉たくさん煮込んだら、匂いで走って来るよ!」


 セシリアはエプロンをかけ、腕まくりをした。マリアとルチアもノロノロとではあるが立ち上がる。


「おーい。帰ったぞー」


 マリアがクスリと笑う。


「そうそう。こんな感じね」

「セシリアの声真似、上手いじゃない」


 ルチアも笑顔になる。だが、セシリアは逆に呆然としていた。


「どうしたのセシリア?」

「今の声、私じゃない……」


 マリアとルチアは怪訝そうな顔をしたが、その次に聞こえてきた声で固まってしまう。


「おーい。マリア。ルチア。セシリア。俺だ、ブルーノだ。手が塞がってて扉が開けられないんだ」

『!!?』


 三人は顔を見合わせ、キッチンを飛び出した。玄関の扉を勢いよく開け、そこにいた人物にとびきりの笑顔で、とっておきの一言を告げた。


『おかえりなさい、司祭様!!』




 ◆◆◆◆◆




 同じ頃。暗くなった『学術都市』アーカイブの路地を、一人の女性が歩いていた。


 疲れた足取りで石の階段を上がり、一軒の古い家の前で立ち止まる。

 深呼吸をして自分の頬を両手でパンと叩いた後、手鏡を取り出して笑顔を作る。これが彼女の帰宅時のルーティンだった。


「ただいま、兄さん」


 練習した笑顔で扉を開け、声をかける。その声に反応し、奥の部屋から物音がした。女性は奥の部屋を覗き込み、呆れたように言った。


「また論文読んでたの? ルイス兄さん」

「あははは……今日は体調が良くてさ。おかえり、フィービー」


 ルイスと呼ばれた男性は、ベッドに上体を起こした姿勢で気まずそうに笑った。




 ルイスはフィービーの三つ年上の兄だ。学業で早くから才能を見出され、将来を嘱望されていた。フィービーにとって優しい、自慢の兄だった。


 ルイスは周囲の期待に答えて実績を上げ、若くして医師となってアトラという名医に抜擢された。医学生であった妹のフィービーと共に、アーカイブに転居した。正に順風満帆だと、彼の周囲の誰もが思っていた。


 そんなルイスに、病魔は何の前触れもなく襲いかかった。ある日不調を訴えたルイスに、難病の『ワルター症候群』との診断が下されたのだ。


 職を辞し闘病生活に入ったルイスだったが、学ぶ事への情熱は衰える事は無かった。寝室に資料を持ち込み目を通し、病床で論文を書き上げる兄の姿を見て、フィービーは研究者になる事を決めた。難病の治療法を発見し、いつか兄の病気を直してみせる。そう心に誓った。


 そこからフィービーの茨の道が始まった。ワルター症候群は非常に稀な上、そうと看破するのも困難な病気である。ワルター症候群と診断されずに、原因不明のまま死亡する者もいると考えられていた。


 臨床例も少なく、文献は入手出来ない。フィービーは市井の研究者で、スポンサーから潤沢に研究費が出る訳ではないのだ。グランドアーカイブの利用料も馬鹿にならなかった。


 スポンサーの申し出はいくつかあった。だがそれらは全て、フィービーの研究に着目したものではなく、女性のフィービー自身を見返りに求めるものであった。


 フィービーも研究の為に申し出を受けようと考えた事はあったが、それを察した兄の猛反対を受け、喧嘩になって立ち消えた。




「大切な妹に身体を売らせてまで生き延びるつもりはない」




 兄妹は抱き合って泣いた。


 初めての兄妹喧嘩は、兄のその一言で終わった。とはいえ、状況が改善した訳ではない。兄の病状も少しずつ悪化していく。フィービーの焦りは積もるばかりだった。


 そんな時にフィービーは『彼女』に出逢った。


 ストロベリーブロンドの髪にブルーの瞳。どことなく気品を漂わせる少女は、ネーナと名乗った。師匠という老人を交えて三人で情報交換をした。少女達はフィービーも知らない情報を持っていた。


 聞けばネーナ達は、知人の為にワルター症候群の治療薬を求め、月光草を採取に行くのだという。これは千載一遇の機会だと、フィービーは思った。


 何とかして月光草のエキスを譲って欲しいと、フィービーは懇願した。ネーナが危険な場所に行くのはわかっている。月光草エキスを入手出来るなら、フィービーはどんな条件でも了承するつもりだった。


 ネーナ達は『仲間達と相談する』と返事を保留したが、翌日に『余分に採取出来たなら』と了承を伝えてきた。条件はフィービーがネーナに、月光草エキスの抽出法を教える事。それだけだった。


 フィービーは後になって、それはネーナ達がフィービーを気遣って決めた条件なのだと気づいた。


 それから三ヶ月半。突然フィービーの研究室に匿名で莫大な額の寄付が送られたり、大公国の商人から何度か研究の依頼があって瞬く間に過ぎ去った。ネーナが戻る予定の三ヶ月を過ぎた後は、フィービーは半ば月光草エキスの事は諦めていた。




 そのフィービーの家の扉が、突然激しくノックされた。


「な、何なの!?」

「さ、さあ……」


 兄妹は顔を見合わせるが、ノック音は止まらない。フィービーが恐る恐る声をかける。


「あの……何ですか?」

「フィービー! 私だ、ポンセだ!」

「ポンセさん?」


 ポンセは『グランドアーカイブ』のナビゲーターだ。ネーナの紹介で何度かナビゲートを頼んで顔見知りになった。何故か、フィービーの研究室への匿名の寄付を取り次いだのもポンセだった。


 フィービーは用心しながら、少し扉を開けた。


「どうしたんですか? そんなに慌てて」

「帰ってきたんだ! ネーナさんが!!」

「!?」


 フィービーが扉を勢いよく開ける。驚いたポンセが一歩後退って言った。


「い、今、アトラ先生のオフィスにいる。先生が残れるスタッフを掻き集めて治療薬の調合の準備をしてる。これから来れるか?」

「勿論です!」


 フィービーはハンガーに掛けたばかりの外套をひったくると、兄に言い置きをして走り出した。


「兄さん、出かけてきます! 鍋のスープを温めてパンと食べて!」

「すまんルイス! 妹を借りていくよ!」


 慌ただしく出て行く二人を、ルイスはポカンとした顔で見送った。


「い、いってらっしゃい……」




 ◆◆◆◆◆




 シルファリオでは、【菫の庭園】の屋敷の廊下で、ニコットとジェシカが話していた。


「ベルントは寝たの?」

「ううん。熱が下がらなくてボンヤリしてるみたい」

「そう……貴女も付きっきりなんだから、私がいる間に仮眠しておきなさい、ジェシカ」

「でも……」


 譲らないジェシカに、ニコットは諭すように言った。


「でも、じゃなくて。ベルントは貴女やネーナさん達との約束を果たす為に頑張ってるんでしょう? 貴女が倒れたら、ベルントだって頑張れないわよ?」

「…………」


 我ながら狡い言い方だ、とニコットは思った。限界まで頑張ってる二人を、さらに頑張らせようとしている。だけどニコットには、他に上手い言い方が思いつかなかった。せめて自分も精一杯、二人を支えようと思った。


 ベルントは急激な病状の悪化は無いものの、確実に下り坂にあった。主治医のトーマスも、予測より早いペースでベルントの体力が落ちている事を認めた。


 仮眠する為に隣の自室に入るジェシカを見送って、ニコットは洗面所に向かった。洗面器の水を取り替えながら、未だ戻って来ない屋敷の主達を思う。


【菫の庭園】がシルファリオを離れた本当の理由を知っているのは、ごく一部の者だけだ。ジェシカもベルントも知らされていない。


 ――ネーナさん、皆さん。早く帰ってきてよ……こっちも皆頑張ってるよ。


 ニコットは少しだけ弱音と涙をこぼし、バシャバシャと顔を洗うと鼻を啜った。タオルで拭き終わった時には、いつものニコットに戻っていた。


 ニコットは鏡の中の自分を見つめて、独り呟いた。


「……よし、行くか。負けないんだから、絶対に」

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