第二十八話 人の貌をした悪魔達

 勇者トウヤの一行に加わった少女が、自ら命を散らしていた。




 その衝撃的な内容に、誰も言葉を発する事が出来ず。馬車が進む音だけが辺りに聞こえている。


 不意にオルトが馬車を止めた。


「日が落ちて来たし、今日はこの辺りで野営をしよう」


 誰も返事をする事なく、緩慢な動きで馬車を降りていく。オルトが指示を出し、仲間達は無言で頷いて野営の準備を進める。


 食事が済み、就寝の準備を終えると全員が焚き火の側へ集まって来た。スミスが一同を見回して口を開く。


「彼女の件について、トウヤの仲間でも全貌を知るのはごく一部の者だけです。エイミーも知りません。それが彼女マチルダの遺志でしたから」


 オルトが疑問を口にする。


「それを俺達が聞いても構わないのか?」

「私個人の判断ですが」


 スミスは首肯した。


「ただ尋ねられても言わなかったと思います。ですがネーナは、トウヤがこの世界に召喚されてから死ぬまで、彼が成した事や彼の身に起きた事を知ろうとし、こうして自ら彼の足跡を辿ろうとしています。であれば、触れるのを避けられない話だと考えました」

「……スミス様。お願いします、聞かせてください」


 ネーナに乞われてスミスは再び頷き、目を閉じた。






 マチルダ――侍祭の少女――は、王国東部の寒村に生まれた。村自体が貧しく楽な暮らしでは無かったが、村の大人達はマチルダを慈しみ、マチルダも優しい心を持つ少女に育った。


 マチルダが十三歳になった年、村に王都の教会からの使者がやって来た。使者は少女の両親や村の大人達に、マチルダが神託により聖女候補に選ばれた事、マチルダにはこれから王都の教会で聖女となる為の修行をしてもらう事、マチルダは良い暮らしが出来るし村にも多額の補助金が交付され、マチルダが聖女となれば補助金がさらに増額される事を告げた。


 村の大人達は、マチルダが嫌なら行かなくていいと言ってくれた。マチルダ自身も行きたくなかった。でも、マチルダは知っていた。ただでさえ貧しい村は、今年の不作と不猟で食べる物に困っている事を。子供達に十分食べさせる為、大人達が食事を減らしている事を。


 マチルダは村のみんなの為に、王都に行く事を決心した。村の大人達には、王都の生活に興味があるのだと嘘をついた。別れの日、親友とお気に入りのリボンを交換した。村のみんなもマチルダも、お互いの姿が見えなくなるまで手を振っていた。

 マチルダは、馬車の中で涙を堪えて決意を新たにした。


 王都に着いてから、聖女候補としての生活が始まった。教養を身につける勉学に日々の務め、聖女になる為の修練、そして『奉仕』。


 マチルダは『奉仕』だけは大嫌いだった。最初は痛くて泣き喚いたし、その後も苦しさや気持ち悪さで、人知れず泣いたり、吐いたりもした。相手は大司教から司祭まで様々だった。男性に触れられるのが気持ち悪くなった。


 時々、共に過ごす聖女候補の少女達が姿を消して戻って来なかったり、戻って来ても人が変わってしまっている事もあった。


 マチルダと仲良くなった聖女候補の少女は、『奉仕』の呼び出しに来た司祭に断った翌日、教会からいなくなった。司祭からは「彼女は故郷に帰った」と告げられた。マチルダはそれ以上司祭に聞く事が出来なかった。


 何度も村に帰りたいと思った。村の風景、村のみんなの顔を思い浮かべた。でも、村の皆を思えば、余計に帰る訳に行かなかった。一人の時は、思い出のリボンを握りしめて涙を流した。


 表立って脅迫された事は無い。だが、『奉仕』で教会幹部の裏の顔を知るマチルダには、彼らが優しげにマチルダの故郷に言及するのがこの上なく恐ろしかった。

 マチルダには彼らが、人のかたちをした何か別の存在のように見えた。そう、例えば『悪魔』のような。


 いつしかマチルダは、心を切り離して表情を作れるようになった。それはお務めでも『奉仕』でも役に立った。


 視界に映るものから、色が消えた。聞こえるものが全て、ただの音になった。温かさも冷たさも、味も感じなくなった。


 自分が自分でないようだった。




 マチルダが十六歳になった年、司教から「王国に勇者が召喚された」と聞かされた。魔族や魔王、勇者の知識も持っていたが、マチルダにとっては自分の日々の事で精一杯だった。


 聖女はすでに決まっていて、マチルダには無関係な話であった。しかし状況が一変する。


 聖女に選ばれた少女が、教会から姿を消した。司祭達の様子を見て、マチルダは『いつものと同じだ』と感じた。


 教会としては勇者のパーティーに何としても聖女を送り込みたい。そこでマチルダに白羽の矢が立った。


 マチルダはそれを聞かされたが、正直どうでもよかった。勇者が教会幹部のような男であっても、マチルダの暮らしが今と変わる訳ではない。自分が殺されても、戦いで死んでも構わなかった。


 でも。もしかしたら今よりマシかもしれない。少なくともこの地獄からは離れられる。マチルダはそう思った。


 『奉仕』で呼び出された時、大司教はマチルダに言った。

「教会の聖女として、役目を果たせ」と。


 勇者の傍にいろ。勇者に取り入れ。籠絡しろ。女の武器を使え、と。そう大司教は言った。


 一糸纏わぬ姿のマチルダは、ベッドに横たわったまま頷いた。




 トウヤとの初顔合わせは、マチルダにとって忘れられないものになった。


 トウヤの手に触れた時、マチルダは驚いて自分の手を引っ込めた。何故なら、トウヤの手が温かかったからだ。ずっと忘れていた感覚だった。

 マチルダの視界が急速に色を取り戻していった。音が意味を伴ったものになった。


 戸惑うマチルダに、トウヤは照れたような笑顔で手を差し出し、こう言った。


『一緒に行こう』


 マチルダは頷き、その手を取った。男性に対する嫌悪感は、全く感じなかった。




 トウヤとの旅は楽なものではなかった。


 流民の村で無力感に苛まれ立ち尽くすトウヤを見た時、マチルダはいても立ってもいられずにトウヤに駆け寄り、後ろから抱きしめた。


 その後王国からの支援は打ち切られ、打算からトウヤに同行した者達の大半は去って行った。

 残ったのは軍部が後ろ盾のバラカス、盗賊ギルドの幹部であるフェイス。それと王国教会から送り込まれたマチルダ。それだけだった。


 王国以外にもトウヤやマチルダを利用しようとする者は多かった。魔族との戦い以上に、人間との駆け引きはトウヤ達を消耗させた。


 戦いも厳しかったが、マチルダはトウヤと居られる時間が大事だった。この頃には、彼女もトウヤに対する自分の好意を強く自覚していた。それは彼女に、新たな苦しみをもたらした。


 マチルダには旅の途中も何度も王国教会関係者が接触してきた。大半はバラカスとフェイスが追い払ってくれたが、マチルダの元へ来て勇者との関係を強要する者もいた。


 ある関係者がマチルダの故郷に言及した時、マチルダはもう無理だと観念した。


 その日の夜。トウヤを呼び出したマチルダは、全てを告白した。自身の身の上も、トウヤに対する思いも全て。どんな結果が待っていても、嘘はつきたくなかった。嫌悪され、軽蔑されてトウヤの元を去り、全ての始末をつけようと思っていた。


 それなのに。


 トウヤはマチルダを抱きしめた。マチルダの苦しみを知らなかった事を泣いて詫びた。マチルダの想いを受け入れた。二人は抱き合って泣いた。


 その夜、二人は初めて、愛する人と肌を重ねる歓びを知った。

 マチルダの傷ついた心は、トウヤの温かさで辛うじて持ちこたえられた。




 だが、二人の幸せは僅かな時で終わりを告げた。


 ある魔族の拠点を壊滅させたトウヤ達は、囚われていた多数の人を解放した。その捕虜の中に、マチルダは忘れられない顔を見つけた。


 王都の教会でマチルダと仲の良かった少女。司祭からは故郷に帰ったと伝えられた少女。それが魔族に囚われていた。


 少女は魔族の実験材料にされた事で、命の炎が燃え尽きようとしていた。少女は教会幹部によって奴隷に落とされ、闇ルートで魔族に引き渡されたとマチルダに伝えた。


 少女は涙を流し、『故郷に帰りたい』と言って息を引き取った。




 聖女を魔族との戦いに送り出した教会が、裏で魔族と繋がりがあった事実。仲の良かった少女が、教会から受けた仕打ち。


 穢された身体。壊れた心。先の見えない戦いの日々。トウヤと自分に襲いかかる無数の悪意。


 トウヤとの出会いで辛うじて崩壊を免れていたマチルダの心は、もう限界だった。


 そしてマチルダは、『終わり』を選んだ。




 残された遺書の内トウヤに宛てられたものには、先立つ事の詫びと生前の感謝と共に、こう記されていた。


『優しいトウヤ様が幸せになれますように。元の世界に戻れますように。心から笑える日が来ますように。罪深い私が、もしも生まれ変われるなら。もう一度貴方に巡り会えますように――』






「……今話した事は、全て彼女が残した遺書に書かれていた事です」

「そんな……」


 スミスの言葉に反論をしようとするネーナだが、何も言う事が出来なかった。


 王女アンとして王都で育ったネーナにとって、教会も大司教以下の聖職者達も馴染みの深い存在だった。慈愛溢れる微笑みを湛えた彼らがそのような所業に手を染めていたなど、ネーナには信じられなかった。


 しかしマチルダ侍祭が嘘を言っているとも思えなかった。ネーナは急に強い息苦しさを覚え、傍らのオルトにもたれかかった。


 思考が不明瞭になり、意識が遠のいていく。誰かがネーナの身体を揺さぶり、何度も呼びかけてくる。だがその声も遠ざかっていき、ネーナは意識を手放した。

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