「ねえ」


「なんだ」


「わたしのこと。話しても、いい?」


「だめだな」


「えっだめなの」


「俺から喋るよ。何を仕事にして、どうやって生きてきたのか。それが終わるまでは、だめだ。先に品定めするのはおまえのほうだ」


「うん」


「俺は、裏方の仕事をしている。内偵って、分かるか?」


「わからない」


「スパイは、分かるか?」


「映画の。かっこいいひと」


「違うなあ」


「えっスパイなの?」


「どこかに潜り込んで、不正の証拠を掴んだりする。人格があると難しい仕事なんだけど、俺は、そういうのが薄いから、まあ天職だな。そうやって、誰でもない誰かに、成り代わり続けている」


「スパイ。かっこいい」


「誤解してるぞ」


「誤解してない。誤解してないよ。かっこいいよ」


「どこがだ」


「わたしのはなし。します」


「待てよ」


「わたし。原因のよく分からない状態です。起きてないし寝てもいない。ごはんもあんまり食べない。なにもしない。ただ、そこにいる。そこにいるだけ。なにもしない。なにもしないの。そういう日々だったの」


 無言。


「毎日、腕に巻いたベルトでバイタルをどこかに送るだけ。それ以外に存在の価値がなかったの。わたしは、生きてなかったの」


 生きてなかった。


「でもね。ある日。夜。そう。こんな夜に。窓の外。歩いているあなたを見て。わたしは、なんかよく分からないけど、生きる力をもらったの。わたしと同じひとがいる。どこかで。自分の希薄さと向き合って、歩いているひとがいる。それだけで。わたしは。ここまで来れたの。ここに」


 ここに。


「わたしね。あなたに会うために動きはじめたの。学校とかのセッティングは研究機関がやって、学校の先生は研究員のひと。友達だよ。友達。だから大丈夫なの。わたし。あなたに会うために。あの場所で。人生で初めてのお酒を」


「だから、ああだったのか」


「え?」


「あ。記憶がないんだな。あの日の」


「うん。あなたに話しかけられたところまでで。記憶がないの」


「じゃあ、酒は呑むなよ。禁止だ」


「へへへ」


「なにがおかしい」


「ついさっき。呑みました。酒。冷蔵庫にあった」


「おい。俺のビール」


「その気で来たの。その気でここにいるの」


「いいのか。それで」


「わたしが聞きたいよ。腕にベルト巻いてるから、バイタル送られちゃうんだよ。それでもいいかな。もしかしたら、どこかで監視されてるかも」


「いや、監視はされてないな」


「そなの?」


「スパイだから、なんとなく分かる」


「そっか。かっこいいね」


「すごいよ。おまえは。そうやって明るく振る舞って」


「そうかな。ありがと。うれしい」


「それに比べて俺は」


「スパイだから。すごいよ」


「だから、映画のような」


「わたし知ってるから。知ってるよ。あなたがすごいってこと。知ってる」


「そうか」


「うん。そうです。あなたはすごい。だから」


 ちょっとキスをして。融ける。


「あなたのとなりに、いさせてください」


「俺の隣にいてほしいなあ」


「ねええ。被った。わたしが言い終わる前に被せないでよ」


「いいだろ。同時で」


 もういちどキス。今度は、長めに。

 何を抱えていても。どういう過去でも。あなたのとなりで、今を感じたい。それだけで、満たされる。

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