冬の現実

志々見 九愛(ここあ)

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 部屋の窓の向こうに飛行機雲をなぞって、私はカーテンを閉めた。硝子用の洗剤と新聞紙で掃除するつもりだったのだが、急にそんなことをする気にもならなくなり、息をはあと吹きかけたあとに引いた一本線にすっかり満足してしまった。

 あの時も飛行機雲が出ていた。幸福の中、空を見上げればいつも、そこには快晴を切り裂く一本の白い線があった。

 私は、おんぼろのロッキングチェアに腰掛け、カーテン越しに降り注がれる日の光を浴びた。掃除をしていて温まった体に、窓から漏れてくる冷気が心地よかった。

 うつらうつらとしながら、一番幸せな、昔の記憶を思い出していた。



 そのとき、私はまだ小学3年生とかそれくらいだった。あれはとても日差しの強い夏の日のこと、私はと、その親御さんに連れられてビーチへ遊びに行った。

 車での道中、私は肩に掛けたポーチを膝に乗せて、後部座席で彼とふざけあっていた。ふと、飴が舐めたくなり、それを水着と一緒にトランクにしまっていたことを思い出した。

「トイレ休憩にしましょう」と、助手席のおばさんが言った。すでに車は高速道路のサービスエリアで、大きなバスとお尻を向けあって駐車していた。

 外に出ると、まだ朝も始まったばかりといった空模様、半袖では少し肌寒く、だが、その自覚はなかった。

 おばさんと二人で便所に行き、外で待っていた彼が手を洗っていないと告白するのを聞いた。私は驚きの中、手の平をこちらに向けて迫ってくる彼を受け入れる選択をした。

 施設内に入るとおみやげ売り場やフードコートがあった。私はポーチに入ったお小遣いを少し使って肉まんとジュースを買った。

「あれ欲しい」と彼が言って指を差したのは、シンプルなフライドポテトだった。

「あなたに買ってあげるわ」

 その時の私はお姉さんぶっていた。世話を焼くことの優越感が確かにあった。

 おばさんがそこに割って入り、彼はポテトを手に入れた。金を払うことはかなわなかったが、気分はよかった。

 車の中に戻って、運転席のおじさんがエンジンをかけると、TWO-MIXがJUST COMMUNICATIONを途中から歌い始めた。当時の私には、ガンダムが分からなかった。宇宙への共感が無かったから、だろうか? その曲がその曲であることを知ったのは、大学に入ってからだった。

 各々が軽食の封を開け始めると、様々な美味しそうな匂いが車内に充満した。

「志保ちゃん何買ったの?」

 私は身体ごとこちらを覗き込んでくるおばさんに「肉まん」と応じ、それを半分に割って具と湯気を見せた。

「半分こね」

 私は彼に肉まんの片割れを渡し、ポテトをいくらか齧らせてもらった。

「高速道路は退屈じゃない?」

「単調ではあるけども」

 そんなふうに親御さんたちは言ったが、私は車が走り出す中、たくさん曲がったり減速したりするよりも、ずっと乗り心地がよく、彼に集中できる、と思ったのだった。それもあまり長い時間は続かず、下道を通ることになったのだが。

 私の遅い初恋の彼は、自己主張が薄く、大人しい子だった。体も私より小さかった。私に対していいところを見せようとか、見栄を張ろうとか、そういうことをする気配もない。幼なじみ・友人の枠だったのだろう。大人の視点では脈ナシといった状態でも、私は彼に、「もう付き合っているし」と既成事実を突きつけていた。

 私は、彼が助手席の背もたれに抱きついて、おばさんと何やら話をしている姿に嫉妬した。そして、彼を引っ張り寄せて耳にキスをした。

 ビーチの駐車場で着替えを済ませ、浮き輪に空気を入れるおじさんのお手伝いをした。

 彼もさすがにはしゃぎ気味で、それにつられて私のテンションも上がった。

 浜辺には人が大勢いた。空いているところにパラソルを差し、ビニールシートを引いて荷物で風に飛ばされないようにする。私は彼と日焼け止めの塗り合いっこをし、早速ビールの缶を開ける親御さんたちを背に、二人で海へと駆け込んでいった。

 海水に触れている間、私はほとんど彼のことだけを考えていたはずだ。燦々とした日差しに目を細める彼の顔が、今でも鮮明に思い出せる。

 砂浜において、私たちは放任されていた。いや、私たちが目の届くところにいただけかもしれない。

 遅めの昼食をとるため、海の家でパックのやきそばを買った。二人で分け合って食べれば丁度いい量だった。

 私は幸福に酔い、親御さんたちの目を盗んで、彼と二人で離脱した。日陰で食べようという提案で、彼はすぐに付いてきた。

 その時間、真っ青な空を破った傷口みたいに、飛行機雲が一本だけかかっていた。

 本当は岩場があれば良かったのだが、都心からアクセスできるような場所に滅多にあるはずもなかった。それで、私はビーチと道路の境目である切り立ったコンクリートの壁の上を選んだ。駐車場に繋がる階段を上がってぐるりと歩き、ガードレールを乗り越えて腰掛けたのだった。

 街路樹のおかげでちょうど日陰になっていたし、あまり人目にもつかない場所だった。

 足をぶらぶらさせた。サンダルを落とさないように気を付けた。

 割り箸は一本しか貰わなかった。食べさせては、そのお返しに食べさせてもらった。

 半分くらいを消費した頃合いに、私は、やきそばを落とした。

 彼は残念がり、勢いよく下を覗き込んだ。

 私は彼の後頭部を見た。それは遠ざかっていき、翻りざまに一瞬目が合った。瞳に移っているのは、私の顔と、空を切り裂く一本の白線だった。

 彼は落ち、打ちどころ悪く死んだのだった。



 私はスマホの通知で思い出の中から立ち戻った。

「来客の時間ね」

 ソファから立ち上がり、掃除道具をしまいながら玄関に向かった。ここは小さな賃貸の平屋ではあるが、一人で掃除をして綺麗に整えておくのは、働きながらだと少し大変だった。下駄箱から来客用のスリッパを一つ出しておく。

 しばらくしてチャイムが鳴り、私は姉を迎え入れた。

「いらっしゃい。よくスムーズに来れたわね」

「久しぶり。何回来てると思ってるの」

 彼女を居間に迎え入れて、コーヒーを出した。別に急いでいるわけではないからだった。

「志保の車見てきたけど、あのトランク、そんなに荷物乗らないんじゃない?」

「意外と入るわよ。それか、後ろの席に乗せれば大丈夫だと思うけど。広いし」私は言った。「お姉ちゃん、そんなに沢山買う気?」

「いいえ。まあ、向こうで考えましょう」

「ええ」

 コーヒーを半分ほど飲んでひとしきりの世間話が終わったところで、私たちは家を出た。玄関先から裏に回って、私の軽自動車に乗り込んだ。

 向かった先は、大型の会員制ウェアハウス・クラブだった。大量の食料やら雑貨を買いこみに行ったのだ。車で1時間とちょっとかかる(電車とバスでうちまでやってきた姉はもっと時間をかけていることになる)けれども、きっと、それに見合う収穫があるはずだった。

 半ば反射的に用水路沿いの細い道を抜け、バイパスに出た。

「お姉ちゃんは車買わないの?」

「無理。駐車場問題がね。あとペーパーですし?」

「駐車場は切実ね。運転の練習は私の車でやればいいけれど」

「志保こそ、自分で車なんて運転してないで、誰か捕まえなさい」

「いいえ。今は実務に専念して、資格を取るから」

「並行できるでしょう。あなた、要領いいんだから」

「そんなことないわ。でも、それだけじゃないから……」

 なんとなく察させてしまったのか、姉は黙り込んだ。そして、それがさも日常茶飯事であるかのように、彼女は何の断りもなく笑顔で話題を変え、その流れで私を笑わせた。

 郊外にあるウェアハウス・クラブに到着し、広大な駐車場のできる限り施設側に駐車した。

 私は姉が几帳面にも買うものをチラシの裏にリスト化しているのを見た。どれも、別にここに来なくても手に入りそうなものばかりで、それはお互い分かっていることだった。彼女は、私と外出するための口実が欲しかった。同様に、私もそうしたかったのだ。

 姉はあらゆる商品をコストパフォーマンスの観点から見、品評していった。リストに入っているものは、文句を垂れようともカゴに入れていた。

 喋りながら店内を回っているうちに、アウトドア用品のエリアに差し掛かった。真冬なのに、置き場が余っているからか、海で使うようなものも平然と置いてあった。日本には無いようなビーチと、できすぎた青天の絵の描かれた箱には、パラソルが入っているらしかった。浮き輪に空気を入れるポンプは、随分と進化しているものもあれば、旧来のシンプルで安いやつもあり、私は、おじさんに空気を入れるコツを教えてもらったことを思い出した。高校の修学旅行で海に行ったときに初めて発揮できた、唯一の特技だった。

 彼女と買い物をしていると、私にも欲しいものがたくさん出てきたのだが、食料品は購入単位があまりにもバルクで、女の一人暮らしにはもてあましそうなものばかりだった。結果、一人で期限内に消費できそうなものを買い、余りそうなものは姉と分けることにした。

 レジを出、荷物を車まで運んで、二人のものをそれぞれ仕分けながら車に積んでいった。駐車場を発つ前、カゴとカートを返すついでに遅めのランチを摂った。

「この虚無、わかる?」と姉が言った。

「いきなり何よ」

「買い物って、見て回ってカゴに入れてる間が一番楽しいじゃない? それが終わった後の脱力感というか」

「ええ。食べ物は特にそうね」

「でしょう」

 食事としょうもない会話によって、時間はすでに、親子連れが休憩していたり(子どもは寝てしまっている)、コーヒーだけを注文して一テーブルを占拠している人のいる頃だった。冬の短気な空が、だんだんと赤らみ始めていた。

 ウェアハウス・クラブを出て、私たちは姉の家へと向かった。ナビの道順をいくつか無視したものの無事に彼女のマンションに到着し、大きな買い物袋たちを二人で運び込んだ。

「ご飯食べてく?」

「いいえ。食べたら運転する気力も出なくなりそうだし、今日はさっさと帰って寝るわ。ありがとね、お姉ちゃん」

「こちらこそ、今日はありがとう、志保」



 私の分だけがトランクに積まれている軽自動車を運転するのは、少し気力の要ることだった。楽しかったが、疲れた。すっかり日も落ちており、対向車線のハイビームが眠気を吹き飛ばすための丁度よい刺激になった。

 バイパスを抜け、見知った小道へと戻ってくると、とても大きなあくびが出た。その時は、荷物はとりあえず車の中にそのままで、帰ったら寝てしまおうと考えていた。

 しかし、あと二つほど信号の無い路地を直進すれば家にたどり着くというところで、私は車を止めたのだった。一車線しかないけれど、この袋小路につながる場所を通る車なんて私以外には考えにくかった。

 私は車から出て、つい引き留められてしまった原因である、その少年に声をかけた。

 彼は薄汚れたブロック塀に背中をくっつけてうずくまっていた。何か深刻な訳があって、そこにそうしていることは明らかだった。

「あなた、そこでなにしてるの?」私は言った。「この辺迷路みたいだし、迷った、とか?」

 中腰になって覗き込む私に対して、彼はゆっくりと顔を上げて、首を振った。「家出したの」

「そう」

 私は彼の顔をまじまじと見、それによって姉のことをすっかり忘れてしまった。今日の一日も、ここに至るまでの全ての日々も、あらゆるものが彼方へと消えていくようだった。超越した何者かの作為を感じるほど都合のいいことに、幾度となく思い出した、一連のあの出来事ばかりが記憶に残っており、本の挿し絵で見ただけであとは想像の将来像まで、はっきりといた。あれほど私が熱望したものは他になかった。

「家出とは大変ね。私の車とは反対方向に向かって、交差点を右、右と進んでいけば、この辺に住んでいれば見覚えのある場所に出るわ」

「やだ。わかんない」

「きみ、おなまえは?」

「おぐす」

「いくつ?」

 彼は答える代わりに、両手をだして、八本の指を立てた。

 臍を曲げているというよりは、純粋に悲しんでいるように見えた。また、彼自身が何を悲しんでいるのか分かっていないようでもあり、何があったのか聞いても、要領を得る答えは返ってこなかった。

「寒いでしょう。このままでは、風邪を引くわね。車で温まる?」

「大丈夫」

「見栄を張るのね、あなた」

 彼が首を振ったことで、遠慮しているという事実に気がつくと、私はすっかり感服してしまった。彼をすぐに車に乗せ、家の場所を聞き出し、送り返してやらねばならないと悟った。これによって彼が傷ついてしまわないよう細心の注意を払いながら、私はお姉さんぶって彼に有無を言わせず、その手を取って車の後部座席へと連れ込んだ。

 私はその頬に触れたい欲望に負けて、そっと手を差し出した。すると、彼は小さな手で私の指に触れ、それがどんな硝子細工よりもずっと華奢に感じ、ずっと繊細で、堪えきれないほどの保護欲に満ち溢れさせた。

「手もほっぺも、冷たいわね」

「うん」

 折に触れて、えずくみたいな幸福が沁み渡り蘇ってくることがあった。私はそういう時、初恋のあの季節にだけ立ち現れる、酩酊してしなだれかかるような、うっとりした感じを抱くのだ。

 私は、寝ぐせで絡みついたわが子の髪を優しく梳きほぐすように、しかし確実に、彼の心に櫛を入れていった。ここに至る経緯や、家に帰ってもいい条件を引き出すと、それは家族への愛情の裏返しであり、少し不幸な彼の家庭環境に同情を抱くことになった。

 彼はこちらの問いにたどたどしく答え、少し褒めるとすぐに照れてばつが悪そうにはにかむのだった。

 かれこれ時間が経ってしまったが、私は初恋のやり直しと未来に思いを馳せたのだった。彼と家族になれると思った。もし彼が彼でなければその気にもならなかっただろうけれども、夫婦として暮らすことに困難は一つもなく、私が説得すれば、彼は私の言うことを受け入れ、信じてくれるだろうという確信があった。

 私は彼に、欲しいものを全て用意できると語り、その上でいくつか選択肢を提示した。今日は一旦家に帰り、返答は後日まで待つということも付け加えたが、彼は断固として家路に着こうとはしなかった。

 私たちはすっかり親密になった。そして、彼を家に返そうという気持ちは、忘れてはいないものの、頭の片隅に追いやられてしまっていた。

「お腹空いたわね」と私は言った。「後ろにお菓子入ってるけど、あなたも食べる?」

「うん」

 私は彼の頬を軽くつまみ、それから笑顔を見せて外に出た。車内は思ったより暖まっていたらしく、急に触れる温度が下がったせいで、凍えるほどの寒さではないのに体が震えた。この入り組んだ路地は、古い街灯の薄明りに包まれていた。運転席でトランクを開けると、肩を抱いてさすりながら、アスファルトを見つめて車の後ろへ回った。

 荷室のいくつかの袋をかき分けて、潰れないお菓子だけを詰めた袋を引っ張り出して地面に置いた。

 両手を上げてバックドアを閉めようと手をかけ、腰のあたりまで降ろしてきたときだった。

 ちょっとだけ視線が上を向き、視界の端に明瞭な輪郭の月が入ってきた。私はそこで目を閉じるべきだった。

 視線を滑らせた先、私は、夜空に一本の飛行機雲を見た。

 トランクが閉まり、車体が軽く揺れた。私は手ぶらで、後部座席に戻らざるを得なかった。目の前に彼を据え、寒いと言いながら、両手でその頬に触れる。

 日が沈んでおらず澄み渡る晴天であったなら、すぐに私は自分の目を信じただろう。夜でさえ、空は破れ得るのか。それとも私の目がおかしいのか。

 だが、耳元では、闇の高山みなみが、私の罪を囁き始めていた。

 それは謂れのあることだ。あの時、私は突き落とした!

「小楠くん……」

 喉の奥がきゅっと苦しくなり、それは鼻の奥を上がっていった。目元がむずがゆくて、すこし指でこすった後、後部座席に彼を押し倒し、その首に手をかけ、体重を乗せて力を込めた。

 鬱血して顔が赤くなっていく小楠くんの瞳に、飛行機雲が映るはずもなかったが、そこにはくっきりと、冬の破れた夜空が見てとれた。

 私の落とした涙が、彼の頬に触れて流れていった。

 動かなくなった彼から手を離した。

 そして今、私は、身も心も真っ黒に沈み込んでいく。

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