シール
柿尊慈
シール
浮気相手を抱こうとした瞬間「ゴムがない」といわれ、急いで服を着てコンビニへ買いにいったものの、戻ってきたら「彼が来るから」といわれ、避妊具だけ奪われ追い出された。俺の買ったゴムはこれから、彼女と本命との愛の行為に使われるのだろう。
ああ、とかくこの世は無情である。無情というよりは、世界はあまりにも個人のタイミングというものに対して無関心すぎやしないだろうか。悪意があって不平等を配分しているのなら、「この世を恨み尽くしてやる!」と立ち上がる気にはなるものの、実際は「あっ、ごめん」というような感じ――まるで俺のことなど見えていなかったかのように振る舞いやがるので、「どこ見てんだよ!」と叫ぶ気にはなっても、相手は決してわざとやったわけではないのだと考えてしまうと、その怒りは行き場をなくす。
彼女の言葉を無視して居座ってやってもよかったが、ただ修羅場になるだけで、誰にとってもメリットがない。本命彼氏の顔を思い切り殴ってやるというのもありであろうが、これはむしろ、本命彼氏がやるべきことだろう。彼には俺を殴る義理はあっても、俺に殴られる道理はない。
しかし、俺は俺で殴られたら困るのだ。背中など、正面から見えない部分に傷をつけられるのであればまだ問題はないのだが、いかんせん俺はある程度の見た目のよさによって彼女と身体で結ばれているような側面はあるのだから、下手に顔が歪んだら縁が切れてしまうだろう。俺は本命の彼とは違って、性格や居心地のよさで選ばれたわけではないのだ。
するためだけに来たから、やたらとリュックは軽くて、カッコをつけて片手で背負ってみるものの、深夜2時に誰か見てくれるわけでもないし、代わりになるような女の子も歩いているわけではない。たまに、道路をトラックが何台か通過していくだけで、俺以外に、人は見当たらなかった。ところどころ電気のついた薬局やコンビニがあるけれど、外からでは中に人がいるのかどうかわからない。トラックでさえも、暗さのために運転手の姿は見えず、もしかしたら、自動運転か何かで走っていて、本当に俺の周囲には俺しかいないのではないかと思わせる。家もいくつか並んでいるのだが、みんな健康な睡眠生活を送っているらしく、どこも消灯していた。
さっきまでメラメラと発情していたために、それが空焚き状態のようになっている。この情動が味わい尽くすべきだった彼女の身体。それがなくなった。家に帰ればいいものの、帰る気にもなれず、この時期の生温い夜風では、俺の不健全な炎を消すこともできない。
脇を通ったトラックが、先に見えるコンビニへ入っていった。俺がさっき、急ぎ足で買い物をしたコンビニである。やや距離はあれど、彼女の家からはそこが最寄りなのだから、どうしようもない。
トラックの後をついていく。とはいえ、運転手の手際がよすぎたのか、それとも俺の足が遅すぎたのか、コンビニに着くころにはもうトラックはいなくなっていて、俺を迎えるのは、またまた無機質な、人がいるのかいないのかわからない、電気がついた、24時間営業の、コンビニ。
いい気分でもなければ元気でもなく、誰かとコンビになることすらできない俺は、自動ドアの前で足を止める。開く気配がなかったので、少し足踏みをしてみると、ようやく開いた。コンビニの、あの、来客時の音楽が店内に響く。危うく、ドアにすら歓迎されないところだった。しばらくドアに検知されなかったので、自分が生きた存在ではないと言われた気分になっている。
まあ、いいけどね。生きてても、死んでても、たぶんどうせ、変わらないんじゃないかな、そんなに。
さっきまでの外の暗さとは対象的な、(文字通りの意味で)白々しい照明。深夜帯くらい、もう少し暖色系の光にならないものかね。ただでさえ適度な興奮で目が冴えていたのに、これでは全く眠る気になれない。
いや、十数分前と同じ景色なんだけどさ。こう、メンタリティ的な問題で、不思議な景色に見えているんだろう。さっき来たときは照明なぞどうでもよくて、ただただ商品を探すだけの男だったから。
「しかしまあ、誰もいないな、本当に」
実は彼女の家は竜宮城か何かで、ドアを開けて外に出たらそこは何十年後の世界で、この地域一帯は過疎を通り越して人類が消滅したのではないかという錯覚に陥る。国破れて山河あり、という感じか。人滅びてコンビニあり。
突然顔に、重たく濡れた何かが押しつけられる。口に入った不味い水を、唾と一緒に吐き飛ばす。
「いますよ、人」
コンビニの制服を着た女性の――おそらく、未成年の店員が、モップをついて立っていた。簡単な推理をすれば、俺は深夜のコンビニで女性店員から顔にモップを押しつけられたのだ。
いや、なんでよ。
怒鳴る気にもなれなかったので、仕返しに女性の身体を上から下までセンサーにかけてやる。
「さっきも来てましたよね?」
冷たく、鋭く――好意的に解釈すれば、ツンデレ的な口調で、女の子は俺に尋ねる。
さっきっていうと、ああ。
「そうだね。少し、急に必要になったものがあって」
「使ってきたんじゃないんですか?」
めちゃくちゃ質問してくるやん。暇なのか?
店内を見る。俺とこの娘以外、誰もいない。
「暇なんだな……」
ぽつりとこぼれたのを聞き逃さず、今度はモップの持ち手が飛んできた。足を払われる。コケはしないが、その代わりジンジンと脚が痛む。
「お客様に対する態度じゃないよね、これ」
「商品を買う気のない冷やかしなら、お客様じゃなくてただの人です」
それもまあ、たしかにね。俺は特に、何かを買いに来たわけではないのだから。きっと適当にマンガ雑誌でも取って読んで、でも普段読まないやつだから中身も全然ついていけなくて、なんとなく「マンガ家ってすごいなぁ」と感じて本を閉じて帰っていただろう。
ふと、床に目を落とす。トイレの手前あたりから、あまり感じのよくない色の水溜りのようなものが、断続的にできていた。
「あー、誰か吐いてったんだ?」
女の子はため息をつく。
「そうなんです。だからこうして、裏からモップを取って来て……」
「裏からって、そういうのってトイレのそばにあるもんじゃないの?」
「お客様が勝手に使えるようにしておくと、不十分な消毒なのにそれっぽく掃除して帰っちゃう人が出てくるんですよ。しっかりとして手順を踏んで消毒するのは私たちだから、いっそのことお客様は吐いたらそのまま謝りに来てくれればいいんです」
「ああ、ホテルのベッドは乱れたままにしておけ、みたいな」
女の子は、俺の例えにあまりしっくり来ていないようだった。まあ、いいでしょう。そのままの、無垢なあなたでいてほしいわ。
しかし、タイミングがよかったのかもしれないな。俺の顔面を襲ったのが、お客様の吐いたヤツをふき取ったモップだったなら、俺はいたたまれない状態になっていたことだろう。それこそ、この娘を訴えてもいいかもしれない。いや、さっきのでも十分、店員としてはもちろん、人間としても不適切な対応だったとは思うけど。
イートインスペース。イスにもたれかかる。外は変わらず真っ暗で、ここがまるで、外の闇に飲み込まれないように築いた人類最後の砦のような気分になった。
水が流れる音が遠くで小さくして、女の子がモップとバケツを持って出てくる。
「あれ、まだいたんですか?」
仕方ないでしょ、行くところもないんだからさ。まあ、おうちはあるんですけどね。
「話の途中だったなと思ってね」
「話?」
「さっき俺が来たとき、レジ打ってくれたの君でしょう?」
女の子は、ああ、と呟いて、首を縦に小さく振った。
「俺はあのあと、コンビニを出て、急いで戻ったんだけどね」
俺たちの関係は浮気ではあれども、W浮気ではない。というのも、彼女には本命の彼がいるけれど、俺には特定のパートナーがいないからだ。つまり、俺の方には失うものは何もなくて、強いて挙げるなら、その関係くらいしかない。彼女の方は、俺か彼かの、トレードオフになる。まあ、バレてしまったときには、どちらも消えるということもありうるだろうけど。
「彼のことは好きだけど、あんまり顔がいいわけじゃないからさ」
関係を結ぶ前に、彼女が言ったことがある。
「この顔とキスをするってなったら、笑っちゃうって感じなの。逆を言えば、笑っちゃっても成り立つような関係とも言えるわね。むしろ、笑ってる。だけど、これはダメなわけじゃなくて――笑ってシラけちゃうんじゃなくて、お互いに笑ってキスをするの。もちろん、そのあとも、笑ってことが進むわ」
たまたま何かの飲み会で一緒になって、個人的に仲良くなったからそのまま家についていったら、缶チューハイ片手にそんな話を聞かされたのである。お持ち帰りされたと思ったら、実は彼氏がいて……というのみならず、その関係の生々しい部分までついてきたのだ。
「もちろん、そのこと自体が不満ってわけじゃないわ。ただ、足りてないのよね、誠実さが。誠実、という言葉は変かも知れないけど、要するに、真面目で、恥ずかしくて、じれったくて、汚らわしい感じが」
俺にはわからない感覚だな、と思った。
「彼との時間は、楽しくて、気分もよくて、だけど、気分のよさが勝ってしまって、気持ちのよさがどうでもよくなってるっていうのかな。ああ、別に不感症だとかそういう話ではなくってさ」
チラリと視線を逸らす。枕元には開封済みの避妊具の箱が無遠慮に置いてあるのが見えた。
「つまり――」
目線を彼女の方へ戻すと、彼女の顔が近かった。更に近づいてくる。
目を瞑ってみた。
俺の唇が、彼女の飲んでいた紅茶ハイで濡れる。
「ね? 笑わないでしょう? とても今、恥ずかしくて、真剣で、誠実なのよ、私?」
そんなこんなで、関係が始まって1年近く経過していた。
時計を見る。俺が来てから、1時間ほど経ったらしい。
モップとヒジをテーブルにもたれかけて、店員の女の子は俺の話を聞いてくれた。彼女はコーヒーを飲んでいるが、それは俺の奢りである。
小さな顔の、小さな白い歯がストローを噛む。
「深夜3時前に、どうして人の下半身事情を聞いてるんでしょう、私?」
「……それが仕事だから?」
「たしかにコンビニ店員は接客業ですけど、話を聞くことは仕事に入りませんよ」
「そうでした。……まあ、することといえば、お客様の吐いたものを片づけたり、誰もいない店内を掃いたりするだけみたいだけどね」
吐いたと掃いたをかけてみたが、そんなことはどうでもいい。
俺がここで買い物をしたあと、ひとりの酔っ払い男性が口元を抑えながらコンビニに駆け込んできて、しかしその加速がまずかったのか、男性の口からはボタボタと汚物が垂れてきて、そのままトイレに駆け込んだものだから、中途半端に店内とトイレが汚れてしまったらしい。男はしばらくしてスッキリした顔でトイレから出てきたが、悪びれもなければ何か買うこともせず、汚すだけ汚して帰っていったようだ。そこに、俺が戻って来た。
「まあ、ストックの確認もせずに、よく始めようと思いましたよね」
痛いところを突かれるが、そこで俺はハッと何かに気づく。
「……いや、ストックがないこともなかったんだ」
最初に彼女の家を訪れたときにあった箱。それは彼女の手によって買い足されていて、ストックがなくなるということもない。先述のように、彼の方とは「気持ちのよさ」ではなく「気分のよさ」を重視しているため、あまり使われることがないというのもあるが、俺との行為の際には、バレ予防もかねて、俺が毎回持ち込んでいるのだ。
そして、俺は毎回買ってくるものを指定されている。
それは、彼女の家に絶えずストックされているものではない。
「シール、ですね」
女の子は立ち上がり、店内の割引商品の入ったカゴからひとつ、消費期限の近い商品を取り出して俺に見せる。「レジにて20パーセント引き」と書かれた、赤と黄色のギザギザしたシールが貼られている。
「すごい、例えとしては品がないかもしれないですけど、彼女の身体の方で、判定されてるんですよ、きっと。今、自分の身体に入ってきたコレ。コレは、あのメーカーの商品をつけているから、彼。コレは、あのメーカーの商品をつけているから、あなた。……そんな風に、たぶん、ですけど」
かなり、情けないというか――バカげた話だ。
俺と彼の区別は、顔でも愛し方でもなく、避妊具の種類だというわけだ。本命の彼は本命の彼だとわかる服を着て、浮気相手の俺は浮気相手の俺だとわかる服を着ている。見た目の上では、同じ愛の行為で、そこに笑いがある方と、ない方。だけど、それだけじゃなくて、それぞれ別々の壁を隔てて、俺と彼女は、彼と彼女は、繋がっているのだ。
本当に、この娘の予測通りだとしたら、俺が買っていったアレは、彼との行為に使われることはないのだろう。だってアレは、俺用のモノだから。彼の使うモノでは、ないのだ。
「あれ?」
というか、置いてきたのは非常にまずいのではないだろうか。いつも使っているものとは違うものも合わせて置いてあったなら、彼がそれに気づいてしまうかもしれない。たまには別のを試してみようと思って、はぁと、みたいな感じで誤魔化すこともできるかもしれないが、それこそ、この娘の想像通りであるなら、あれは、彼女にとって、俺との行為の専用で――。
あるいは、わざとだろうか。彼女は、彼と何か話をつけるのかもしれない。その証拠として、俺との浮気のアイテムを、あえて残した、とか。
その話の結果によっては、俺は彼女に、棄てられるかもしれない。
だから、どうした?
俺はそのとき、どんな想いを、胸に残すべきなのだろう。
考えるのをやめようと思って、でも、やめられなくて。彼女からメッセージが飛んでくるかもしれないなどと考えたら、妙にそわそわしてしまった。
「――私、3時までなんですよ、シフト」
女の子が、ストローを口元から離して、話し始める。
「普段私は0時までで、次の人と入れ替わるんですけど、今日はなんか事情があって3時からになるから、普段よりも3時間延ばして、ここにいるんです」
立ち上がって、モップを掴む。
「もし、話し足りなかったら、このあと、おうち連れてってください。もし、考えたくないこと考えちゃうなら、おうち連れてってください。眠れるまで、相手になりますから」
何の相手だろう。話し相手か、あるいは……。
モップを片づけに、彼女が裏に引っ込む。
ひとり、ぼうっとしている。
しばらくして、ひとりの男性が制服姿でレジに立ち始めて、入り口のドアが開くと、私服に着替えたさっきの娘が入ってきた。
「……買って行きます?」
彼女の目線の先には、2種類しか扱っていない避妊具。
片方は、俺が彼女と使っているもの。もうひとつは、彼女の家に常備されている、彼と彼女の、専用の商品。
俺は首を振る。
「いいや、必要ない」
俺とこの娘がもし使うとして――それは、ここにあるどちらでもない。
ひとつは、俺と彼女が使うもので、もうひとつは、彼と彼女が使うものだから。そんなものを、この娘とつながるために使おうとは思えない。
目が覚める。朝日がぼんやりと、カーテンから覗いていた。
結局俺は、缶チューハイを数本購入して、店員の、小さな女の子を家に連れ帰った。
19歳くらいだと思っていたのだが、意外にも同い年で、つまり成人済み。それらを飲みながら、しょうもない話や、この娘のそれまでの恋愛事情とか、逆に俺の話とか、そんなことをダラダラと続けていて、たぶん、ふたりとも寝落ちした。なんと、何も不健全なことは起きていない。
スマホを見る。昨晩俺を追い出した彼女から、数件のメッセージ。「複数のメッセージがあります」とまとめられてしまったので、詳細は開かないとわからない。だけど、開く気にはなれない。今は、いい。今じゃなくて、いい。それがいつになるかわからないけど、いつか開くから、今じゃなくても、問題ないはずだ。
背の低いテーブルにうつ伏せになって眠っていたのだが、もうひとりがいない。帰ったのだろうか。
寝ぼけた目で玄関を見る。カギが閉まっていた。人の家のカギを持っていくという非常識をかまされていなければ、一応家のどこかにいるのだろう。あくびをする。
トイレ、および風呂の電気がついていることに気づき、立ち上がろうとしたところ、そこのドアがガラリと音を立てて開いて、中から女の子が出てきた。
「あの……」
申し訳なさそうな顔が見える。昨晩の、モップを顔面に押しつけてきた女の子と同じとは思えない。
「モップとか、ないですかね?」
「一般的なひとり暮らし男子大学生の家に、モップはないと思う」
雑巾ですら、怪しい。ホウキなんか、もってのほかだ。
女の子は、トイレから出てこない。顔だけ、出している。中を、見られたくないのだろうか。ということは、さては――。
「……吐いちゃった?」
デリカシーなくストレートに聞いてみたところ、言い終わるより先にドアを閉められた。
「お酒強くないんです!」
声だけが聞こえる。数秒ほど、どう反応すればいいのかわからなかったが、自然と、笑ってしまった。
迷惑なお客様だなぁ。
(おわり)
シール 柿尊慈 @kaki_sonji
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます