おもちゃ箱

柿尊慈

おもちゃ箱

 私の、眠れない夜の日課は、かつて交際していた男たちを頭の中に召還して、眠れるまで会話に付き合ってもらうことだ。

「――ああ、今日はあなたね」

 横になって、真っ暗な部屋の真っ白な壁を見つめているうちに、そこには、昔の男が、私と同じように、ベッドに横になっているのが見え始める。

 もちろん、実際にはそこにいない。いるはずがない。今彼が、いったいどこで、誰と何をしているのかさえ、わからないのだから。

 未練があるわけでもない。ただ、なんとなく、眠れない夜に付き合ってほしいだけのこと。

 友人たちの中に、私のこの習慣を理解してくれる人はいなかった。当然、これから理解者が現れることも想像できるが、似たような癖のある人でも現れない限り、きっとこの感覚をわかってくれる人はいないであろう。

「ずいぶんと、久しぶりだね。いったい、どうしたのかな?」

 今日来てくれたのは、かなり格好つけて、余裕たっぷりに話をする癖のあった、少し髪の長い、同い年の彼。私自身子どもっぽくないので、あまり年上の男と交際することは多くなかったし、かといってお姉さん肌かというとそうではなく、結局年下とも長続きせず、同い年がターゲットになることがかなり多かった。

「どうしたってことはないんだけどね。普通に、眠れなくて」

「不眠症?」

「どうだろう。別に、病院に行ったわけでもないから、まだ病気じゃない」

「そうだね。不眠症だと診断されない限りは、君のその状態は、ただの「寝つけない」という事実でしかないからね。病なんかじゃない」

「そういえば、最初の頃も、そんなこと言ってたわね、あなた」

「そんなこと?」


 彼と知り合ったのは――いったい、いつだったっけ。具体的な年月日までは思い出せないけど、たぶん、5年くらい前だったような気がする。大学を出て、新卒で働き始めて、最初の異動があった、その先の、同僚。

 嫌味な上司からの忠告を丁寧に、ありがたそうに受け取っておきながら、その上司がいなくなった途端に、フッと、彼の表情から何かが消えていく音がした気がして、「私も嫌いなの、あの人」なんて声をかけたのが、そもそもの始まりだった。

 始まりだった、といっても私は、この彼だけに限らず、特に誰とも、恋人らしいことをしないまま、呆れられたり、乗り換えられたりして、ある意味では円満に、円滑に、関係性を終えていった。手を握られるのも決して苦手ではなかったし、しょうもない会話をするために、早く帰った夜に電話をするとか、そんなことをかなり好んでいたように思う。けれど、さりげなく腰に手を回されるまではいいが、さらにさりげなくホテルのある通りにリードされたり、調べもしないのに「終電、なくなっちゃったね」なんて妙に透き通った声で言われる度に、鼻で笑いたいのをこらえながら「ごめん、終電まだ間に合うから!」と男から離れて、特に急ぐこともせずに、ゆっくりと駅に向かうのであった。

 そしてまあ、駅に着いて電光掲示板を見てみると、終電なんて1時間後だったりして、いったい何が終わるってんだよという気持ちで、改札を通ってトイレに行くことが多かった。

 結果的には、終わったのは電車の運行ではなく、その男との短いお付き合い、というわけ。

「そうだね。君が、俺のところの部署に異動してくる少し前に、誰かが君と別れたことを同僚たちに報告しているのを聞いたことがあったよ。まあ、君はいろんな人と交際をしてみては離れ、交際しては離れ、を繰り返していたから、俺はまるで、同じ夢を繰り返し見ているような気分になったけど」

 そうなると、私が社会人になってから胸を張って「交際をした」と言えるのはあなたが最初かもしれない。高校時代や大学時代には、一定期間続いた人はもう少しいたような気がするから、そこを除けば。

「そう。で、自分たちは今つき合ってるの? なんてあなたが聞くから――」

「ん、心外だな。それを聞いてきたのは、君の方だったのに」

「そうだっけ?」

「そうだよ。……うんとね。金曜日で、会社周辺の居酒屋だと会社の人に会うかもしれないからって、珍しく君が俺を駅の方に連れて、君の地元の駅を降りてすぐのレストランに入ったんだ。」

 どこにでもある、ファミレス。だけど、なぜか会社の周りにはなくって、なんとなくそこに行きたい気分だったから、降りる駅も告げずに電車に乗せた。

「俺はこう、気分がいいときには目をつむって喋る癖があるから、君の隣に座って、アナウンスなんかお構いなしで、だらだらと目を閉じて喋ってたら、いつの間にか君は降りてて、隣には知らないおっさんが座ってて」

「そうそう。そのあと急いで電話して、引き返してもらったんだった」

「おっさんのフォローは大変だったよ。大変というか、奇妙な感じだった。学生時代に東北地方で見た絶景を事細かに語っていたらいつの間にか隣がおっさんで、おっさんもおっさんで、途中で止めてくれりゃいいのに、辛抱強く聞いてくれててね。まあ、聞いたところでコメントに困ってたし、俺は俺で、「そんなわけで、たまには奥さん連れて、東北にでも行ってみてください」という謎の言葉を残して電車を降りたわけ。君が下りた駅から、3つくらい隣の駅でね」

「東北の観光大使か何かみたいね」

 合流して、安っぽいワインを口に含んで、私の口からぽろりとこぼれた言葉が「私たち、今つき合ってるの?」だったのだ。どうして、そんな言葉が出たのかはわからない。緊張していたのか、あるいは、安心し切っていたのか。

 そしてあなたは、何のためらいもなく、「そうだよ」なんていって、ソースを一滴も撥ねさせない綺麗な動きでパスタをフォークに巻いていたのだ。

 その動きをじっと見つめていたので、彼はパスタを巻いたフォークを私の目の前に差し出して、私はそれをぱくりと口にした。

「告白は、別に、どっちからもしてないけどね」

 もぐもぐと咀嚼している私が飲み込むのを待たず、彼は例によっておしゃべりを続ける。

「生まれてから、物心ついて、いつの間にか、恋のようなものを知って。でも、それが恋だと診断できる医師はこの世のどこを探してもいないから、俺たちは何となく、それが恋らしいということをわかったつもりになる。つらい思いをしても薬がないから、勝手に治まるのを待つだけで、かといって、普通の病気と違って、やる気が出たり、ポジティブになったりするもんだから、本当にこれが病なのかどうかも怪しくて。だから俺は、それは恋ですよと、病名を告げてくれる人を探してる。気分が上がったり、下がったり、得体の知れない現象が、病のようなもので、適切な処理があるのだと、教えてくれる誰かがいたのなら、きっと俺は、安心して「そうです、俺はあなたに恋をしているんです」と、胸を張って言えるんだけど。俺は、あるいは俺たちは、間違えるのが怖くって、胸を張ってそれを伝えることはできないから、ただなんとなく「つき合う」という言葉――病名ではなく、ただの一般的な「動詞」をこの情動につけて、逃げている」

 目を瞑る彼。

 硬めに茹でてと彼がオーダーしたせいか、その日のパスタはなかなか消化できなかった。




「さて、眠れそう?」

 ハッとする。少し、寝かけていたらしい。

「どうだろう。というか、少し寝てた」

「知ってる」

「声をかけてくれなければ、起きなかったかもしれないのに」

「君は、よく体をビクつかせて起きるからね。俺が起こさなくても、自分のせいで勝手に起きてたと思うよ」

「知ったような口を利いてくれるじゃない。私とあなたは、結局、深い意味でも浅い意味でも、一緒に寝たことなんかないのに」

「うん。だって俺は結局、俺そのものじゃなくて、眠れない君が話し相手として召喚した俺の分身――いや、実際は、俺の姿をした君の分身でしかないんだから、そんなこと知らないし、そんなことも知っている」

 彼があくびをする。

「現実の俺の方とは、別に連絡を取ったりしないのにね。どうして急に、こうして、呼び出されたんだか」

「特に意味なんてないわ。なんとなく、目を瞑ってみて、それでも見えるもやもやが、ぼやーっと形になったと思ったら、あなたの形になっただけ。あなたのことはそこそこ好きだったけど、これまでで一番だった、とは言い切れない。というかそもそも、一番の男なんてこれまでにいたのかすら、怪しい」

「君にとって男は、番号なんか、ラベルなんかついてなくて、ただ、男って書かれた箱に詰め込んであるだけだからね」

「そう。で、目を瞑ってそこに手を突っ込んで、引き上げたら、あなただったというだけのこと」

「変わりがなくて何より」

「あなたはどうなの? 私が仕事変えてから、やたらアプローチしてくる女の子がいたでしょ? 私たちよりも、ふたつくらい年下のさ」

 沈黙。

 彼は、目を瞑っている。動かない。反応しない。

 先に眠ったか、このやろ。

 手を伸ばす。髪を引っ張るか、頬をつねるか。けれど、触れる直前で、心地よさそうに、目を瞑ったまま口が動いた。

「今俺が何をしているのか、誰といるのか、生きているのか、死んでいるのか、君のことがまだ好きなのか、もう、そんなでもないのか。気になれば――気になるなら、メッセージでも送ってみるしかないんじゃない?」

 目が開いて、また細くなって、にこりとする、彼の顔。

 瞼を閉じて心地よさそうに喋るあなたも好きだったけど、個人的にはその、誤魔化すような笑顔の方が、結構好きだったりする。

 だけど私がそれを真似して笑ってみせると、あなたはそれを見ないままに、ただの壁になってしまうのだ。


 スマホをさわる。青い光が飛んでくる。目を細める。眠るように、連絡先を探す。

 彼の名前と、彼の顔のアイコン。最後に連絡を取ったのは、いつだっけ。そんなに経っていない気がする。今ではいいお友達。

 いつの間にか始まったらしい「おつき合い」、いつの間にか終わっていたらしい「おつき合い」、いつの間にか始まっていた「いいお友達」という間柄。実際は何も、始まってないし、終わってないのかもしれない。

「――でもまあ、いいや。今はとにかく、寝たいんだもの」

 メッセージは送らない。会いたいわけじゃない。話がしたいわけじゃない。

 私はただ、眠りたいだけ。

 ここで何かアクションを起こそうとも、結局明日の夜にはまた、別の男が箱から取り上げられるだけ。

 私の、眠れない夜の日課は、かつて交際していた男たちを頭の中に召還して、眠れるまで会話に付き合ってもらうことだから。




(おわり)

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