睡蓮の下の泥

太呂いもこ

睡蓮の下の泥




 庭の池からボツボツと水面を叩く音が耳に飛び込んで来たので咄嗟に顔を向けると葉と水面が不規則に踊っていたので、あぁ雨が降ってきたのかと気付く。

葉を雫が弾く様を見ながら思うのはいっときも忘れやしない彼女の事だ。


 紫陽花が揚々と咲く季節に彼女に会った。

栗色の癖っ毛の髪を腰まで伸ばし、どこか母国とはかけ離れた彫りの深い人形のような女だった。だが、彼女と過ごしている内に彼女自身は空気が割れるように笑ったかと思えば烈火の如く憤怒するまるで秋空の様な溌剌としていて人柄ある事がわかった。

 溌剌とした彼女は誰にでもそうなのかと思えば女の中では姦しい会話をただひたすらに微笑んでは流すような酷くつまらない女でいた。僕の前では赤い傘を振り回し傘から垂れる雨水をこちらに飛ばしながら腕白に笑う奴だというのに。

 彼女の住む長屋と僕の無駄に大きい屋敷は近所にあり、学舎は違えど共に帰路につくだけの関係になった。彼女の父は外国の貿易関係者で、母はそんな父に見染められた酌婦だったという。

父が国から帰らず母が毎晩頬を濡らしているとのだと、まるで他人事のように冷めた目で話す彼女に僕はどこか人ではない様な危うさを秘めた姿をただひたすら目に焼き付けていた。


 僕はそこそこ良家の家の者だが何にも取り柄のない、病弱な次男坊であるが故に父と母は僕を離れの納屋に押し込んで不干渉を決め込んでいた。納屋の小さな格子からは裏庭の少し仄暗い睡蓮の池だけが見えており、表のしつこい位の艶やかな庭の華々達とは違って少々見窄らしく思っていた。まるで期待されている兄と何もない僕のようだとも貶んでいた。



空気が茹だるような夏が来た。

 服が肌に張り付くのを煩わしく思いながら部屋に篭って積ん読の山を漁っているとボツボツと池から聞こえたので表に出てみる。雨は降っていなかったのですぐ側の裏口を開けると

「お邪魔しても?」

彼女は水色のワンピースに白い日傘をさして昼の柳のように立っていた。

「静かにしてろよ」

そう返すとお世辞のように微笑みんだかと思うといつもの我が物顔で颯爽と敷居内に入ってきた。彼女は休日、母親の機嫌が悪いと裏口からこの屋敷に上がり込むようになった。

「小石なんか投げて、人に見られたらはしたないぞ」

「あら、あんな裏路地誰もこないわよ。」

彼女が小石を池に二回投げる。

これが彼女が来る合図になった。



 「あの池はなんの池なの?」

激しい暑さも過ぎ、雲も細やかになってきた頃。彼女はほとんど頭に入っていないだろう本に視線を向けながら問いかけてきた。

「睡蓮の池だ。仏の花で縁起がいいからと父が貰い受けたらしいが、今では一切見にもこないさ」

「ふーん、罰当たりなお父様ね」

そう言う彼女は心から僕の父上をそうは思っていないのだ。きっと彼女は僕の父上や母、自分の母のことや、きっと、僕のことですらきっとどうでもいい。これに尽きるに違いない。

「でも、私この池好きよ」

旬の季節を過ぎ、花がすべてそこに沈み汚く澱んだ池をまるで春の桜を、夏の梔子を愛でるように眺めている。

「この池の睡蓮が咲いたら、いつか見てみたいわね」

あぁ、体の内側から燃えるような、溢れるようなこれは一体、何だというのだろうか。



 紅葉も散り、一面が白に覆われた頃には僕は池を廃人のように眺めていた。彼女はここには来なくなったのだ。

庭師の者には金を握らせてはいたが、人の口に戸は建てられぬ故か母に逢瀬を知られてしまったのだ。

兄は下卑た顔をしていたし、下賤の者となんと、と口を震わせて嘆く母は酷く滑稽に見えて仕方がなかった。


父上は、何も言わなかった。


 しばらくの軟禁とお目付役に家庭教師を宛てがわれた。この家の書生か、はたまた他所から寄越したのかはもはや興味もない。

僕にはもう、喪失感で何もかもがどうでも良くなっていた。


 年を越し、羽織るものを着なくなった頃。

僕は相も変わらずただ、あの池のを眺めていた。家庭教師は幾度と変わったがとうとうこの離れの納屋には誰も寄り付かなくなっていた。

ある者はこんなのはおかしいと、

ある者は意地悪を、

ある者は小言を、

あらゆる事を言われた気がしたが、何も返さぬ木偶の坊に心情を悪くしたのか気味が悪かったのか様々な理由で去っていった。

時が止まったようだった。思い返すのはこの池が好きと言った彼女の横顔のみだった。


ボツと、音がした。

雨は降っていない。

ボツ、ともう一つ、石が池に落ちて来たのだ。


急いで裏口へと向かう。足が変にもつれ指を擦ったが構わず閂を掴む。長らく閉じていたため少し硬くなっており、把手の金輪は冷たく少し滑ったが裏口を開けることができた。


目の前には、あの日と何一つ変わらない彼女がいた。


彼女の肩を震える手で掻き抱いた。

二度と会えないと思っていた彼女が目の前にいる。それだけで今までの長い時間会えなかった喪失感が嘘だったかのように満たされた。

「ごめんなさい」

彼女は僕の震える手を握り言った。

「奉公に出ることになったの。今日はお別れを言いに…」


奈落に突き落とされた気がした。


 僕は、気がついたら彼女の白魚の様な簡単に折れてしまいそうなその首をぎゆっと力一杯握りしめていた。

やってはいけない事をしている罪悪感とまるで彼女の命を手中に収めているような全能感にこれまでにない満たされた心地でいた。

彼女は大した抵抗もせず暫くすると口から泡を出し、瞼を何度か震わせた後彼女の手が僕の手を撫でて地に滑り落ちた。



 彼女の骸を睡蓮の池に沈めた。

沈みゆくその姿すら美しく、なだらかに揺れながら沈んでいく様はさながら昔にみたオフィーリアの絵画のようだった。

いずれ腐肉は上がってくるかもしれない。

庭師に勘づかれてしまうかもしれない。

父や母、兄やその他にもこの凶行が明らかになってしまうかもしれない。だが、僕の心の中は驚くほど穏やかであった

満ち足りているといっていいほどに。


 そしてあれから幾度と季節を重ね時も経ち、いつの間にか大きな戦争が起きた。

父と兄は徴兵され戦場で散華し、母は心を病んで床に伏してまもなく死んだ。父は遺体も残らなかったが兄だけは歯だけ帰ってきたので生塵と共に表へ出した。母の庭はその日に焼いてしまった。

 当時を知る者はもうおらず、屋敷と僕と睡蓮の池だけが当時のままの置き去りにされていた。

彼女が見てみたいといった睡蓮の花がもうすぐ咲き頃を迎えそうである。


 僕はもう、ずっと、ずっと、待っているのだ。


彼女が今年こそこの池の底から泥をかき分け僕の元へ上がってきてくれることを。


雨はもう、上がっていた。



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睡蓮の下の泥 太呂いもこ @yakino_imk

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