最寄り

柿尊慈

最寄り

 年下の彼の家に遊びにいくとき使っていた電車には、別れてからもう乗らなくなった。その代わり、就職活動だなんだのために、やたらと東京に向かう電車を利用するようになったのである。

 少し前までは乗り換えに混乱していたのに、今となってはもう、わざわざアプリを開かずともすいすいと乗り換えることができるようになった。狭い乗り換え専用の階段を使わなければ、乗り換えのときは人込みに突っ込まないで済む。

 非常に厄介なことに、中途半端な都市部に住んでいるものだから、東京に出るにも複数のルートから選ぶことができたりするものの、路線によって電車賃や所要時間が全然違うから、いったい何を重視するか――および、金を払って時間を短縮するか否か――の判断によって、乗る電車が変わってくる。

 ふと、彼と共に電車に乗っていたときのことを思い出して、あのとき自分は、彼は、どっちを選んでいたのだっけと、考えてしまう。記憶が正しければ、「一緒にいる時間が長い方がいいでしょ?」という理由で、運賃を節約して、複数の乗り換えをこなす選択肢を選んでいたような気がする。

 などといいながら、私は私で、決して彼に同調するように、彼と一緒にいられる時間が増えるからという理由ではなく、むしろそれを否定するような形で、「少しお金を払って乗り換えの回数を減らせば、その分早く目的地に着いて、そこで過ごす時間が増えるんだから、一緒にいる時間はあんまり変わらないと思う」などという返答をしていた。我ながらかわいくない彼女だったろうなと思ったところで、果たして、彼とのあの時間において、私は彼にとって「彼女」で、彼は私にとって「彼氏」だったのかどうか、疑問にすら感じてしまった。

 付き合ってくださいなどの、ありきたりで甘ったるい清涼飲料水みたいなやりとりがあったようには記憶しておらず、もしかしたら本当に、恋人なんて素敵な間柄ではなかったのかもしれないなんて思ったりもして、今この瞬間に彼が目の前にいたなら、結局私たちはなんだったんだろうねと問いかけてしまうかもしれない。

「……いや、さすがにそれはないか」

 時間のせいか人のあまりいないホームで、ぽつりと呟く。快速電車に乗って帰ろうとすると、私の家の最寄り駅――および、大学の最寄り駅は華麗にすっ飛ばされてしまうので、私はこの駅から各駅停車に乗り換えて、ゆらりと揺られる必要があった。もう少しすれば、接続の電車の関係で、このホームは乗り換えの人たちでいっぱいになるだろう。そして車内もそこそこぎゅうぎゅうになり、私は電車の揺れでうっかり隣の人に突撃したりすることのないように、手すりを掴んで家まで踏ん張ってなければいけなくなるのだ。

 女子大生らしいきらびやかな服よりも似合っている自負のある自分のリクルートスーツ姿を見下ろして、そういえば彼は、やたらとスーツを着ていることがあったなということを思い出す。塾講師のアルバイトをしていたり、そもそも学部が教育学部だったりで、要するに先生として子どもの前に立つ彼は、きっといい先生をしていたのだと思う。私の前では、ネクタイすら満足に結べない子どものような先生だったけれども、結局私は、私のそばにいない彼のことを、全く知らないままだったのだということにも気づく。


 私は地方からこっちに引っ越してきたひとり暮らし、彼は元々こっちが地元の実家暮らしで、周囲の大学生とは対照的に、私たちは「私の家で」時間を過ごすということはなかった。わざわざ、彼の家に遊びにいって――本当に、放課後の小学生のような感覚で、向こうのお母様が家にいるような状況で、何かで遊んでいたのだ。彼の、中学生くらいの妹の宿題を手伝ったとか、そんなようなことだった気がする。世間一般――というほど一般的なのかわからないけど、少なくとも私の中では「ありがち」として描かれている「大学生らしい男女交際」とはかけ離れた、もはやプラトニックと呼ぶことすら違和感のある、純粋な時間の過ごし方をしていたように思う。

 そんな風に感じるのは、こうして今私が、卒業だの就職だのと、色々なことに急かされているような状況だからかもしれない。彼氏だったのかもわからないような彼との時間がこうも思い出されるのは、私の生活から色気が蒸発してしまって、瑞々しい記憶に浸ろうとしているのもあるだろうけれど、結局私は私で、彼との――そして彼の家族との時間を、私がかなり楽しんでいたということなのだろうか。

 楽しんでいたに、違いない。自分の家に招けばいいものの、わざわざ電車に乗って彼の家に行くなんて選択を選んでいたのだから。そもそも会う必要すらないのに、わざわざこの駅で一緒に乗り換えて、彼の家族に会いに行っていたのだから。

 だからこそ、なおのこと、いったいどうして、私たちは今会わなくなっているんだっけ、という疑問がふわふわと浮いてきた。別れた、という表現すら怪しい私たちだったから、自然消滅という言葉すら微妙なところである。そもそも、別れるも何も「くっついていたのかどうか」が、消滅も何も「存在していたのかどうか」が怪しい。

 別れた記憶がないのは、付き合った記憶がないからで、付き合っていたということもできるような気持ちもあるという、よくわからない感覚になっているのは、プロセスの部分だけ存在していたことが確かなのに、ゲームのスイッチを入れた記憶も切った感覚も覚えていないからであろう。まるで、途中から見たテレビ番組が途中で切れたかのような気分。最初と最後のない、宙ぶらりんな、状態。

 鼻から長く息を吐き、よくもまあこんなノスタルジックな気分に浸っているなぁと呆れていたら、なるほど、電車が遅延しているらしく、電車が来ないからぼんやりする時間も長くなり、こんな状況になっているのだ。




「来ないの?」

 彼の家に行くだけでなく、駅の周辺で食事をすることもしばしばあったのだが、一度、私を家まで送ってくれた彼に対して、そう問いかけたことがある。

 彼はぽかんと口を開けて、そのまま硬直していたが、しばらくしてハッとしたように笑った。

「いやいや。僕たち、そんな感じじゃないでしょ?」

 そんな感じ、か。たしかに、そんな感じではない。

「期待というか、そういうのはないの?」

 別に私自身が期待しているわけでもないのに、なぜかそのとき、私は彼に対して――煽るように、誘惑するように、いや、実際は純粋な疑問だったのだけど、身体を重ねることはもちろんキスもしてこない彼に対して、望みがなんであるのかを確かめようと、そんな言葉を投げたのである。

「僕は、女の人と一緒にいたいわけじゃなくて、あなたと一緒にいたいだけなんで」

 そう言って、ひらひらと手を振って駅へ向かった彼を見送ってから、私は息をついて家の鍵を開けた。背を向けた彼がどんな顔をしていたかはわからないし、彼の言葉が本当であったかはわからないけれど、大学生にしては清すぎて正しすぎる関係が、その一件からより強固になったような気がする。いうなればあのとき、私は「フラれた」のだ。いや、しつこいようだけど、何の期待もしてなかったので、「フラれた」というのも妙な話だが。




 乗り換え専用の階段は、乗り換えのときに使うと非常に混雑するのだが、その階段のそばには自販機があったり、階段のそばから電車に乗ると、家の最寄り駅で降りるときに改札への階段が近かったりして優秀である。あまりにも電車が来ないものだから、私はその階段のそばの自販機で、甘ったるい清涼飲料水を購入した。普段飲まないようなものなのに、どういうわけか今日は、これを飲んでみたい気分になった。

 キャップを捻る。口をつけた。だめだ、やっぱり私には向いてない。延々と、甘くないコーヒーを飲んでいる方が性に合っているのだ。女子大生らしい服よりもリクルートスーツの方が似合うように、私に花は似合わない。

 飲み切る自信のないペットボトルをバッグにしまって、ぼうっと反対側のホームを眺めていた。就活生は帰宅する時間でも、一般的なサラリーマンはまだ帰宅の時間ではない。この時間駅にいるのは、せいぜい高校生か、平日を満喫して帰ろうとしている元気なおばさまくらいだろう。

 だからこそ、目に映ってしまった。向こう側のホームの端から、スーツ姿の男の子が、列車の待機列まで歩いているのが。あくびをしながら、うざったそうに、襟元のネクタイをほどこうとしている。けれど、そもそもネクタイがうまく結べていないので、ゆるめたり、ほどいたりするのも大変そうだ。

 男の子は、踏んでいた点字ブロックから一歩足をどけて、ふと顔を上げる。

 ――よくもまあ、こんな、絶妙なタイミングで、どれだけ時間が経ったかもわからない、線路を挟んでの再会を果たすもんだ。

 彼が私に気づいたかどうかという瞬間に、私の視界に列車が侵入して来た。電車の音と、満員寸前の車内しか認識できない。電車が止まる。ドアが開く。私が、乗らない方。これから彼が、乗ろうとしている、おそらく、帰るための電車。

 近くにある有名テーマパークから帰ってきた乗客たちでいっぱいであろうその電車は、ドアの閉まる音と共に、私の視界から走り去っていった。反対側のホームには、誰もいない。

 相変わらず、彼はネクタイをひとりで締めることもできないらしい。――いや、ネクタイを締めることだけが唯一苦手で、それ以外は比較的何でもこなしていたのだけど。

 大学生らしい服が似合わないといいながら、彼と会っているときもスーツだったわけじゃない。一応それらしい服を着ていたつもりだけど、大好きな彼のために、みたいな感じでもなかったから、せいぜいオフィスカジュアルといった感じだったのだろう。それにしても、思い出せない。服は捨てたわけじゃない。もしかしたら、私は私なりに、彼と会うときのための服を決めていて、彼に会わなくなってからそれを着ることもなくなり、そのまま自分の服の記憶が消えてしまったのかもしれない。

 花のない私の、花のないリクルートスーツ姿は、電車に乗って帰っていった彼の目に、どういう風に映ったことだろう。そもそも彼は、ちゃんと私を見ていたのだろうか。でも、電車に遮られる直前、彼は驚いたような顔をした、ように見えた。

 全然似合ってないですね、驚きました。そんな感じだったらいいのに、なんてことを考える。息をつく。電光掲示板が、遅延していた列車がようやく隣の駅を出たことを知らせる。疲れているのだと思う。だから、甘いものを飲みたくなったのだ。飲めやしないのに、身体が甘さを求めている。

「らしくないか」

 私はひとり小さく呟いて、再びペットボトルのキャップをゆるめた。




「珍しいですね、そういうの飲んでるの」

 突然声が聞こえて、むせ返る。開いていたキャップから、少し中身がこぼれた。もったいないと思わなかったのは、おいしさをあまり感じていなかったからだろう。

「――どうしたの?」

 振り返り、どうにか搾り出した言葉が、それだった。そこにいるのは、先ほどまで向こう側のホームにいたはずの彼。

「いや……帰ろうと思って、電車に乗ろうとしたら、反対側に見えたから、急いでみたんですけど」

 彼の指の先は、乗り換え用の階段。

「……帰るんじゃなかったの? こっちのホームじゃ、方向が反対だけど」

「……そうでした」

 奇妙な沈黙。気まずいのかなんなのかわからない。早く来い、電車。

「――それ、飲み切れるんですか?」

 彼は私の持っているペットボトルを指した。

「……いや、無理だと思う」

「じゃあ、もったいないんで、もらいます」

「それはありがたい」

 私はキャップを閉めて、彼にボトルを渡す。それを受け取って彼は、じっくりと成分表か何かを見つめていた。

「いいんですか?」

「何が?」

「間接キスですけど」

 はい?

 振り向く。真っ直ぐ見てくる。彼の方が堪えられなくなって、目を背ける。勝った! いや、勝った! じゃないんだ。

「キスって――私たち、そんな感じじゃないでしょう?」

 彼はキャップを開ける。きつめに閉めたつもりだったが、容易に開けられてしまった。しばらく彼は飲み口を見つめて、口をつける。ごくりと、喉が動く。電車が通るように、飲み込む音がする。

「いや、ほんと、何してるんでしょうね、僕は」

 私が知っているわけなかった。私は今も昔も、あなたのことを知らなかったんだから。

 知っていることといえば、その、やたらとだらしのない……。

「――ネクタイ」

 私の言葉を聞いて、彼は驚いて私を見た。この角度、妙に懐かしい。

「全然、だめじゃん、相変わらず。自分で締められないなら、お母さんとか、妹とかに――」

「……なんか、全然ダメなんです」

「だから、全然ダメだから誰かに――」

「そうじゃなくて、ダメなんですよ。何言ってんだって、自分でも思ってるんですけど、ネクタイは、あなたじゃないと」

 言葉が、切れる。

 ……私じゃないと、何がどうなの?

 遠くで踏み切りの音がする。列車が来るらしい。彼の顔は、緊急停止ボタンのように赤くなっていた。

 ため息をついて、彼のネクタイを引っ張る。ぎちぎちに結ばれているのをほどいて、交差させて、間に通して。

「……あれ、失敗した」

 久しぶりすぎて、大変なことになった。最初より、とんでもないことになってる。

「ごめん、今ほどくから――」

 わたわたとする私の手に、彼の手が重なった。見上げる。そこには少し赤い顔。

「これでいいです。失敗でもやっぱり、これがいい」

 電車が来る。手を離す。見つめ合う。少し背が伸びた……ことはなかった。むしろ、私のヒールのせいで、やや身長差が縮まったような気さえする。

 頭を振って、彼は笑顔をつくった。

「――スーツ、似合ってますね」

「ありがとう」

「でも僕は、私服の方が好きです」

 今度は声には出さず、ありがとうと胸の内で呟く。私は、どんな服を着ていたのか、思い出せないのに。

 どうして別れたんだっけ。そもそも付き合ってたのかな。

 聞きたいことは、ドアの音に遮られる。彼は動かない。私は帰る。疲れているのだ。飲めやしない甘いものを、まるで、彼に押しつけたかったかのように買ってしまうくらいには、疲れているのだ。帰らなければ。

 電車に乗る。少しの、停車時間。遅延したため、乗り換えの乗客を少し待つようだ。ドアは閉まらない。彼は動かない。最後に何か、ひとつくらい、聞いておきたいのに、何を言うべきか、思い浮かばない。

 どれくらい経っただろう。少し電車は窮屈になった。まもなく発車するらしい。彼はうつむいている。

 だめだ。思いつくのは、これしかなかった。思い出せたのは、これしかなかった。息を吸う。さりげなく、色気もなく、言葉を投げる。

「――来ないの?」




 発車ベルが鳴り響く。彼は顔を上げた。彼が飛び乗る。ドアが閉まる。電車が動く。

 この体が、少しだけ彼に寄りかかっているのは、きっと電車が混んでいるせい。




(おわり)

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