クウ



 僕は、もう直ぐだめだろう。

 どんな空を見ても、段々と赤黒い影で覆われるようになってきた。

 ラズベリージャムとは違う、明確に別の赤が咳に混じる。


 この事を「彼」に伝えようか否か迷った。

 「彼」はきっと心配してしまうだろうから。


 この事は「母」には漏れているだろう。

 「母」はいつだって僕を見ているだろうから。


 「彼」は悲しみにくれるだろうか?

 僕が失われる事で。


 「母」は怒りに狂うだろうか?

 僕を失う事で。


 ああ、真夜中に逝くのは厭だな。

 あまりに寂しいから。

 僕が見てきた空が闇に覆われたものばかりであったとしても。


 ああ、できれば旭に照らされて逝きたいな。

 次の始まりを感じられるだろうから。

 僕の見てきた空が冷たいものばかりだったとしても。

 最期は暖かくして欲しいな。

 「彼」の腕の中で……


 これは、我が侭だろうか。

 オリオンよ、せめて僕が昇る日は隠れていて欲しいな。

 ゼウスよ、死にゆく僕だけれど、その日ばかりは鎮まっていて欲しいな。

 ヘパイストスも、その日ばかりは鍛冶のその手を控えていて欲しいな。


 ああ、僕は今、久しぶりに「欲」を覚えているな。


 その為には、外に出ないとだめかな。

 仮令「母」が怒り狂おうと。


 その為には、手紙を書かないとだめかな。

 仮令「彼」が悲しもうと。


 やはり、我が侭なのかな。

 彼等の感情を巻込もうと言うのだから……





 僕は、もうだめかも知れないな。

 どんな空に出ても、あの黒々とした嵐の恐怖が覆う様になってきた。

 ソルベを流し込まれる以上に足元が崩れる寒気を覚える。


 この事を「彼」に伝えようか否か迷った。

 「彼」はきっと心配してしまうだろうから。


 「彼」は悲しみにくれるだろうか?

 僕が失われる事で。


 真夜中に飲込まれそうになりながら「彼」からの新しい手紙を開ける。

 そこにはいつもの夢想や新発見の喜びはなかった。

 ただ「彼」の懊悩と、我が侭であろうかとの煩悶が綴られていた。


 「彼」の胸中にもこんなにも激しい「嵐」が吹き荒れていたのか。

 それに気付かず、僕は自分の恐怖心にかまけていた。


 「彼」の手紙の最後、サインの横。

 そこには明らかにインクや封蝋とは異なる、赤黒い物が付いていた。


 次の旭の前に、僕は「彼」のもとへ飛び立とう。

 仮令そこが冷たい雲に覆われていようとも。

 せめて「彼」を抱きしめよう。


 ヘリオスよ、どうか僕の翼を奪わないでおくれ。

 ヘルメスよ、どうか気まぐれを起こさず、ただ旅に集中させておくれ。

 プロメテウスよ、どうか僕の飛空艇の火を絶やさないでおくれ。


 ああ、僕は今久しぶりに勇気を覚えているな。


 その為には外に出ないといけないな。

 「彼」を悲しませない為にも。





 私は、今度もだめかも知れない。

 どんなに手を尽くしても、段々と私の手から離れて行こうとしてしまう。

 アブサンに耽るように、喉から胃の腑が灼け、感情が溢れ出す。


 今一度「あの子」に確認しようか否か迷った。

 もし、その通りなら、私はきっと自身を失ってしまうだろうから。

 幾度の失敗と喪失になるか。

 想像するだに空恐ろしい。


 「あの子」は恐怖に囚われるだろうか。

 私が不覚になることで。


 ああ、私はまた真夜中を彷徨わなければならないのだろうか。

 あまりに空しい。

 私が歩んだ道が闇の中だとしても。


 ああ、暁はついぞ私には訪れないのだろうか。

 次を、次をと求め続けているのに。

 私の歩んだ道は余りにも冷たいものばかりだった。

 ただ、暖を欲しているだけなのに。

 ただ、「我が子」を抱えて……


 ニュクスよ、いつまで我が前に居座るつもりなのか。

 モロスよ、どれほどの責め苦によって清算されるのか。

 タナトゥスよ、どれだけ私から奪えば気が済むのか。


 ああ、私は今久方ぶりに動揺を覚えている。


 その為には、外に出してはいけない。

 「あの子」を失わない為にも。





 もう直ぐ夜が明ける。

 木々の頭を、平原を、丘を、薄明かりが照らし出す。

 その光は靄と雨に弱められ、吹きすさぶ風に掻き消されそうな程弱弱しかった。


 ああ、僕の最期の暁はこれなのか……

 オリオンよ、ゼウスよ、ヘパイストスよ、そして何より運命モイライよ、僕はあなた方を呪う。


 矢張り死に行く者の我が侭など、取るに足りないのか。

 仮令それが命の最後の輝きを照らし出して欲しいだけであっても……


 ああ、そうだ。

 外に、出なければ。


 言う事を聞かない脚による歩みはシーシュポスよりも緩慢で、喉や唇はタンタロスより乾いている。


 筆記机から「鍵」を取り、ドアに向かう。

 「錠前」を外さないと……





 もう直ぐ夜が明ける。

 屋根の瓦を、壁の煉瓦を、窓を、水滴が強かに打ち鳴らす。

 その雨は霧と風に強められ、黒々と空を覆う雲で陽光を遮る程強力であった。


 ああ、「あの子」を外に出させてはいけない。

 ニュクスよ、モロスよ、タナトゥスよ、そして何よりモイライよ、私はあなた方を呪う。


 「我が子」を求める「母」の願いが、取るに足らぬというのか。

 仮令それが命の輝きで運命の車輪を回す行為を導く程強いものであったとしても……


 ああ、そうだ。

 外に、出してはならない。


 動揺に駆られた脚による歩みはエキドナよりも鈍重で、目はキュクロプスよりも開かれている。


 「あの子」の部屋のドアの前に立つ。

 「錠前」を加えないと……





 もう直ぐ夜が明ける。

 布の気囊を、木のプロペラを、銅と鋼の内燃機関を、乱気流が軽々と翻弄する。

 その風は雨と雲の助けを受けて、小型飛空艇の軌道を変える程荒れ狂った。


 ああ、「彼」のもとにいかなければ。

 ヘリオスよ、ヘルメスよ、プロメテウスよ、そしてなによりモイライよ、僕はあなた方を呪う。


 「友」のもとへ飛んで行こうという定命の勇気など、取るに足らぬというのか。

 仮令それが臆病者が何とかだした、「友人」を温めたいと言う思いであったとしても……


 ああ、そうだ。

 「彼」のもとへ行かなければ。


 既に幾つかボルトの飛んだ翼による飛行はデュオニソスよりも覚束ず、内燃機関はアレスよりも荒ぶっている。


 「彼」の部屋の窓の前に辿り着く。

 窓を開けないと……





 「鍵」は「錠前」にすっと入った。

 キラキラと輝く銀色の「鍵」が、艶やかにぬらめく黒い「錠前」に入ったとき、僕の下から沸き起こる感覚を得た。

 ぬるりと入った「鍵」を奥まで射し込み、捻る。

 長らく使われていなかったであろう「錠前」からぐにゃりとした手応えと呻きのような音が漏れる。

 「錠前」からは鉄錆の臭いがする赤い液体が漏れ出す。

 赤い鉄錆が床板に広がる。

 薄暗い嵐の朝の光に照らされて。

 キラキラと。


 黒い「錠前」から白い腕が伸びる。

 それは「母」の腕であった。





 「鍵」が「錠前」にすっと入って来る。

 ギラギラと刺さる銀色の「鍵」が、さらさらと流れる黒い「錠前」に入ってきたとき、私の肚から沸き起こるマグマを覚える。

 ぬるりと入ってくる「鍵」が奥まで射し込まれ、捻られる。

 久しくこの感覚を忘れていた「錠前」の中はぐにゃりとかき回され思わず呻き声を上げる。

 「錠前」からは鉄錆の臭いがする赤い液体が漏れ出す。

 赤い液体が床板に広がる。

 打ち付ける嵐の雨粒に呼応して。

 ザンザンと。


 銀の「鍵」の元へと腕を伸ばす。

 それは「あの子」の首筋であった。





 「彼」の部屋の窓へと辿り着く。

 薄明かりと雨粒を反射する窓を打破り、ゆらゆらと揺れるランプの光に照らされた「彼」の部屋に入ったとき、僕の足元は崩れ胸から下へと引き下がる感覚を得る。

 がしゃりと入ったその部屋の中では、「彼」が「母」の胸元に手を伸ばし、「母」が「彼」の首筋を抑え、互いに見詰め合い、涙を流して、赤い泉で戯れていた。

 嵐が部屋の鉄錆の臭いを荒々しく払う。

 吹きすさぶ風の呼吸と共に。

 ビュウビュウと。


 「鍵」と「錠前」の元へと跳び掛かる。

 「彼」と「母」を引き離す為に。




 「母」の腕が僕の首筋を抑え、意識が遠のく。

 白い光が僕を包む。


 ああ、これでだめになるのか。


 白い光の向こうから、翼を生やした何かがやって来る。

 それは大鎌を持った緑青色の髑髏であった。


 ああ、タナトゥスよ。

 ああ、ニュクスよ。

 さあ、カオスへ。


 そのとき、強い腕が僕を掴む。

 それは「彼」の腕であった。





 「あの子」の腕が私の中をかき回し、意識が遠のく。

 赤黒い闇が私を包む。


 ああ、また私から離れてしまうのか。


 赤黒い闇の向こうから、暗雲を伴った何かがやって来る。

 それは雷を携えた青白い光の塊であった。


 ああ、ゼウスよ。

 ああ、ヘパイストスよ。

 いま、タルタロスも。


 そのとき、強い脚が私の肩を蹴る。

 それは、あの忌々しい飛行機械の少年であった。





 「彼」を抱き上げ、窓の外へと引きずり出す。

 嵐が僕を再び包む。


 今度こそ、僕はこれを越えよう。


 「彼」を乗せ、急いで飛空艇のもやいを解く。

 「彼」の赤い汚れは雨が流してくれた。


 ああ、ヘリオスよ。

 ああ、ヘルメスよ。

 いま、アポロンも。


 ふと、部屋の中を見返す。

 そこには、赤黒い泉に沈む「母」が、目を見開いて僕を見ていた。





 ふと、目を醒す。

 そこは、陽光が横から照りつける、白い絨毯と蒼い無窮の天井に囲まれた世界であった。


 冥府にしては暖かい。

 目を上げると、そこには「彼」の顔があった。


 微笑んでいる。


 飛行帽とゴーグルに覆われ、風音と機械の作動音に遮られ、何を言っているのかは良く読取れなかったが、「彼」の腕の温もりは心地よかった。


 そうだ、せめて最期に、名前を伝えないと……





 ふと、目を計器から移す。

 嵐を抜け、更に雲を抜けると、そこには無限の安穏が広がっていた。


 恐れに捕われず、昇り続けると、そこは暖かい。

 目を下げると、そこには「彼」の顔があった。


 微笑んでいる。


 青白い顔と、風切り音に遮られ、何を言っているのかは良く読取れなかったが、「彼」の体の温もりは心地よかった。


 そうだ、せめて最後に、名前を伝えないと……



+○



 「「僕の名前は、アーサー」」





 その声は、重なっていた。

 今まで何も聞こえなかったのに、それで全てが伝わった。


 ああ、これで僕はようやく、安心して苦痛に身を委ねる事ができる。

 微笑んだままで。


 ありがとう。

 ありがとう。

 もう一人の「アーサー」。





 その声は、重なっていた。

 今まで何も聞こえなかったのに、それで全てが伝わった。


 ああ、君のお陰で僕はようやく、安心して苦難に身を委ねる事ができる。

 微笑んで立ち向かえる。


 ありがとう。

 ありがとう。

 もう一人の「アーサー」。



 そうして、安らかな「アーサー」に僕の飛行帽を被せる。

 寝顔の「アーサー」は、宙に舞い、遊ぶ。


 空の蒼と、海の碧とに溶け込み、一体となって。


 どこまでも。

 どこまでも。

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