カラ



 「あの子」は今日も空ばかり見ている。

 時々やって来る、あの忌々しい飛行機械の事を思っているのだろうか?


 「あの子」は病弱なのだから、冷たい外の風が当らないようにこんなにも用心しているというのに、あの機械が来るといつだって自分から窓を開けてしまう。

 それでも、「あの子」がまだ楽しそうだから良いものの、外がどれだけ冷たく、悪意に満ちているか、それを「あの子」にはこれ以上感じさせたくない。

 「あの子」だけには。


 人はいつか離れるもの。

 子供はいつか巣立つもの。


 それは分っている。

 けれど、そんな空しい人の世にあって「親子」の繋がりは不二の物。

 まして「母子」の関係は「父子」以上に強い絶対のもの。

 デメーテルは娘の為にこの世界を冬の死に包み、ティティスは息子の為にトロイアを壊滅させた。

 クロノスは我が子を喰らうたがレーアは我が子を救う。


 そう、「母」は「我が子」を救わないといけない。

 私は「母」でありながら「夫」も「我が子」も失った。

 その後も「我が子」は失われ続けた。


 だから、今度こそ「あの子」を救わなければ。

 今度こそ、「あの子」に「幸せ」を与えねば。


 ずっとずっとここにいる。

 ここにいて、温かいベッドと美味しいケーキを食べる。


 ただそれだけで良いのに。

 その笑顔を見せてくれるだけで良いのに。


 ずぅっと、ずぅっと、「ここ」にいるだけで良いのに。





 「母」は今日も僕ばかり見ている。

 時々やっている、あの不可思議な儀式以外は僕の事を思っているのだろう。


 「母」は僕の病を気にかけ、冷たい外の風が入らないように注意している。だから僕が窓を開けるのを快くは思っていないのだろう。


 それでも、「母」がまだ笑顔で僕に接してくれるものの、あの外への憎悪と悪意に満ちた冷たい感情を感じずにはいられないし、感じていることも知られてはいけない。

 「母」だけには。


 人はいつか離れるもの。

 親からはいずれ巣立つもの。


 それは分っている。

 でも、「親子」の繋がりを本当には知り得ない僕にとってこの関係は空虚な物。

 まして、僕には「父子」以上に解り得ない、「母子」の関係にあっては。

 ゼウスの落としたクロノスのファロスから愛欲アフロディーテーが生じ、ガイアから生じたエロースは地母神の愛故に人を土に還す。

 ヘーラーは我が子の軍神が傷つく事には気も狂わんばかりだが、夫の不貞の子らは次々と打ち据えた。


 「母」は「我が子」を救おうと荒ぶるもの。

 それでありながら、「母」は「夫」と「我が子」を失った。

 その後も「我が子」を失い続けた。


 多くの「他の子ら」を犠牲にしながら。

 今度こそはと、「幸せ」を得ようともがいている。


 ずっとずっとここにいる。

 ここにいて、温かいベッドと美味しいケーキを食べる。


 それだけが「幸せ」だと思い込んでいる。

 病弱で脚が利かなくても、それだけで笑顔になると信じている。


 ただ、ただ、自分の脚で歩むこと、それだけで良いのに。





 今日も「あの子」は窓の外を見ている。

 麻のシーツに水鳥の布団、絹の寝間着に身を包み、クッションを腰当てに、革張りの幻想譚の上に手を置く。

 磁器と銀器に置かれたケーキは既に無く、ティーコゼーが掛けられたティーポットからは未だに僅かの湯気が漏れていた。


 窓の外の薄明かりを反射する顔は、磁器以上に透き通り、薄く浮いた蒼い血管は、覗き穴から見ても空以上に美しい。


 人里を離れて久しい私にも、ようやく「我が子」を今一度「幸せ」にする機会に恵まれた。

 「夫」と「我が子」を失って以来、蘇らせようと失敗して以来、空虚に過ごした日々もこれで空しさを免れる。

 幾度も試した錬成は、その都度失敗した。

 人造人間ホムンクルスは自律性に欠け、それ以外はただの人形に過ぎなかった。

 あれだけの数の「子」を捧げたと言うのに。


 でも「あの子」は違う。

 「我が子」に生き写しなのだ。

 顔も、表情も、病状も……


 これでようやく、私は「母」になれるのだ。

 大事に、大事にしていくのだ。





 今日も「母」は除き窓から僕を見ている。

 綿のフリルに絹のドレス、たっぷりのレースに身を包み、麻のエプロンをして、トネリコのワンドを手に持って。

 様々な薬草を込められた香り袋はいまだに薫り、銀細工に彩られた様々な宝玉は、それぞれの意味に従って身の上に配されていた。


 ランプの光に照らされた顔は、磁器以上に白く、深く輝く紅い瞳は、覗き窓から見られただけでも吸い込まれそうだ。


 人里から離れて遠いこの館にあっても、永く「母」をしようと試みてきたらしい。

 「夫」と「子」を失ったときの悲しみと空しさは、夜ごとに聞かされた。最早本人は、自分がそれを口にしている事さえ無自覚なのかも知れない。


 幾度も試され、失敗した「実験」。


 自律性に欠けた「我が子もどき」と人形の数々。

 連れられてきた「子」も、僕以外は「実験」に使われたのかも知れない。


 ただ、僕は違ったようだ。

 「母」の「子」にそっくりだと幾度も言われる。

 顔も、表情も、病状も……


 これでようやく、「母」は「母」になれるのだという。

 僕を、大事に、大事にすることで。

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