第8話 現実世界とキムワイプ

 ぷはっ!


 俺は洗面器から顔を上げた。

 スライムみたいにどろどろとした液体が顔にまとわりついていて気持ち悪い。


「お疲れ様です。木崎さん」


 そういって、部下の山下君がキムワイプを差し出す。

 キムワイプというのは高校の実験室なんかにもある立方体に近い箱に入ったティッシュみたいなもので、理系にとっては必需品なあれだ。ちなみに、メガネを拭くのにも役に立つ。


 一応、お礼をいいながら差し出された箱から何枚か引き出すが、顔を拭くにはキムワイプは少々固かった。


 山下君。もっと頑張ってくれ。鼻セレブとかタオルとかウエットティッシュとかもっと他に良い物があるだろう。

 それが無理ならせめて普通のティッシュペーパーにするとか。


 それでも、あのアルバイト時代の山下君よりもずっと成長しているけど。最初の頃は、人と話すのが苦手で全く喋れなかった。

 それが、彼から自らやってきて、俺が顔を拭けるように気を利かせて差し出してくれた。キムワイプだけど。随分成長した。キムワイプだけど……。


 山下君はなにか言いたげだ。まだ、どこかに培養液の欠片でもついているのだろうか。いいか、キムワイプは便利だけれど。やっぱりこう言うときはティッシュとかタオルの方が無難なんだ。


 だけれど、男の上司の顔にゼリーっぽい緑の培養液がひっついているからって、それを言えないなんてことがあるだろうか。

 しかも、さっきまでの仕事が原因なんだから。


「〇〇に緑のゼリーがついてますよ」って一言言えばいい話じゃないか。異性なら言いづらいとかもあるかもしれないけれど。

 俺と山下君の間にはそんな気遣いとかはないと思うのだが……。


 それとも何か話しでもあるのだろうか。

「どうしたんだ?」って山下君に声をかけようとした瞬間、俺の方に冷静とも冷たいとも言える声が飛んできた。


「木崎さん、みんな集まりましたよ。司会進行お願いします」


 こっちは帰ってきたばかりだというのに、みたらし団子をかたてに女性の同僚がはよしろと顎でモニターを示す。


 はあ。

 お茶をいれろとはいわないけれど、もう少し同僚をいたわってほしい。少なくとも自分はみたらし団子を食べながらのんきにお茶をのまないとか。鑽孔テープにみたらし団子のたれを付けない程度の気遣いが欲しい。


 洗面器に培養液をはってそのなかに頭を突っ込むという変な姿勢をとり続けたせいで首がいたい。


 俺は首をさすりながら、自分のデスクにつく。

 腰痛防止にと、娘と妻が誕生日にプレゼントしてくれたクッションをおいた俺の席。

 やわらかいけれど、沈み込みすぎないクッションが心地良い。

 机の上にはクッションと一緒にもらった、俺の似顔絵に娘からの『パパがんばってね』と書かれたメッセージカード。


 我ながら娘が大好き過ぎる。

 いまどき、定期入れを使っているのも娘の写真を肌身離さずもっているためだし。

 俺は、娘が大好きだー!

 妻と娘のためにもうひとがんばりだ。


 俺はそう自分のなかで気合いをいれて、昔ながらのヘッドセットを被る。

 さっきと違って、感覚のリアリティは低くなってどちらかというとゲーム感がでてくる。

 こちらにはデスゲーム運営としての共通アバターとボイスチェンジャーが付いている。

 俺じゃないスタッフでも対応が可能なように。

 実際に対応するかは別として。


「起動……」


 ああ、疲れた。

 もうしんどい。

 だけれど、俺はこれから第一回の中間発表をしなければいけない。

 別に俺じゃなくても良いのに。

 どうして、俺ばかり。

 せめて、何か飲んで一息つきたかった。


 ただ、どうやらさっきまで頭として活動するために、頭部だけナノマシン入りの培養液につかっていたせいか、心の疲れとは裏腹に、視界は少しクリアになって気もするし、お肌もつやつやだった。

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