東京にて

 道路標識が東京都の入り口を知らせていた。さすがの人口密集地らしく、車の通行量も増えて信号で止まることが徐々に多くなる。そろそろ行き先を決めないとな、そう思っていた頃だった。

「――お父さん、大丈夫かな」

「あんなんでも一応、心配か?」

「そりゃあね」

「俺にはよくわかんねえな。まあ、血は争えないってヤツか……」

「どういうこと?」

「いや、なんでもねえ」

「どういうこと? 教えて」

 アリサの大粒の瞳が俺を真っ直ぐに捉える。しまった、余計なことを言ってしまった。たぶん、ここでごまかしてもまだ目的地までは遠く果てしないドライブだ。彼女は諦めてくれないだろう。

 はあ、と溜息を吐いて俺は己の失言を悔やみながら、あばく必要のない墓を掘り起こそうと言葉を紡ぐ。この三日間で起こった、どうしようもない人物たちのどうしようもない事件と物語の顛末をだ。


「本来、俺の仕事は表立って運べないが、相当のカネになるものを秘密裏に運んで、裏の経済を回すことをしているんだ。そして、今回の依頼は返済能力の足りない債務者の娘を担保に今までの借金を返済していくための準備期間だった」

「それが私……」

「そうだ。とある場所でアリサを積み込み、そのまま伊武さんと合流して、彼の居る組がケツモチしてる店に運搬、それだけで終わるはずのラクな仕事だった。――けれど、いつまで経っても伊武さんは来ず、あげくにアリサはしばらく引き取れない。それだけじゃなく、別の店を急遽手配することに」

「まだカズさんが怖かったときだ」

 そもそも真っ当に営業許可を得ている取引先が少ないので、依頼を受けるたびに住所が違うのは日常茶飯事である。それ自体に問題は無いが、伊武さんの慌てようが本当に緊急事態だったことを雄弁に物語っていたのだった。

「まだ商品として価値があるアリサを俺が面倒見ることになった次の日、再び伊武さんからの連絡。……普通、ただの取り立てなら金融会社の下っ端の役目なんだが、何故か急にヤクザが出張ってきて父親を取り立て始めていた。それどころか、アリサの受け取りをキャンセル。しかし、俺にカネは渡す。まあ、それこそ俺に対する口止め料ってところか」

「カズさんにも口止め……?」

「ああ。ここからは、あくまで俺の推測でしかないんだが……おそらく、お前の父親はアリサが連れ去られたことを耳にしたんだろう。それできっと、どこで知ったのか知らねえがアリサが売られるはずだった違法営業店のことをサツに密告。突如、ガサ入れが発生した。店としてはヤクザにケツモチを頼んでるのに、まったく役目を果たしていないと思われ、メンツに泥を塗られてしまったことになる。……だから、だろうなあ。伊武さんがあんなにキレてたの久しぶりだったわ。たった一日で密告者を見つけ出してしまうなんてな」

 赤信号が青に切り替わる。俺はとりあえず都心の方に向かうために十字路を右折した。澄み渡った青空が憎らしいほどに車内には重い空気が沈殿している。

「私のお父さんが密告したんだ……」

「状況的にそう導くのが一番しっくり来るだけだ、確証は無い。――だが、どうしてわざわざヤクザに正面切ってケンカ吹っ掛けるような真似をしたと思う? どんな馬鹿野郎でも、やっちゃいけねえことだって、死に急ぐことだって理解できるはずなのに、だ」

「それは……」

 アリサは押し黙る。きっと本当に答えを持ち合わせていないのだろう。なにせ子供にはまだ早すぎる感情だものな。

 俺は、長い深呼吸をした後にその答えを口にする。それはひょっとしたら正解ではないのかもしれない。けれど、アリサにとっては必要なものの可能性だってある。だから、俺は『たったひとつの冴えたやりかた』で闇に葬られたはずの想いを、またこうして手繰り寄せて縫い合わせて紡ごうとしているのだ。

 誰に感謝されるでもない代弁者として――。


「きっと死ぬこと以上に守りたいものがあったから、なんだろうよ」

「……え、それって」

 息を呑む彼女の大粒の瞳がさらに大きく開かれる。

「そうだ。アリサ自身のことだ。俺には、そんな自己犠牲の愛なんて理解できねえけどな。どんなにクソで、どんなに腐っていても親だったのかねえ」

 愛という言葉は重い。それゆえに良くも悪くも人の心をいとも簡単に狂わせてしまう。どんなに歪んでいても根本の愛は同じだとでもいうのだろうか。俺にはわからない。普通の父親としての心も、性犯罪者である狂人の心も、死を覚悟した男の心さえも。

 アリサは顔を伏せ、俺の前で初めてぽろぽろと涙を零して泣き出してしまった。袖口で拭っても拭っても感情が壊れてしまったかのように、次から次へと涙が溢れて止まらなくなっていた。その慟哭する悲痛な姿に俺はアリサがただの幼い十四歳の子供だということに改めて気付かされてしまう。その細腕に、華奢な両肩に、未発達の心に何が伸し掛かっていたのか俺には知る由もない。だけど、枯れてしまいそうなほどの泣き声がそのまま答えなのかもしれない。

 それから、しばらくアリサは泣き続けていた。俺が差し出したポケットティッシュを空にしてもなお鼻水はすすっているし、涙も止めどなく、本当に止めどなく流れ続けていた……。


***


 青空が眩しい。

 時刻はすっかり昼になっていて、アリサが落ち着くまで車を適当に流していたらいつの間にかスカイツリーの周辺まで来てしまっていた。そのまま近場の駐車場にワゴン車を止めて、俺は運転席の窓を全部下げた。外の冷たい新鮮な空気と車内の沈殿した空気とを混ぜ合わせて循環させる。

「カズさん、ごめん……」

「気にすんな。泣くといくらかスッキリするもんだ」

 助手席のリクライニングを思いっきり下げて、誰が見てもわかるほど泣き腫らした目に、冷やしたタオルを乗せているアリサ。こういうところはいっちょ前に女なんだな、と思ってしまう。

「ねえ、カズさん」

「なんだ」

「私これからどうすればいいと思う?」

「そうだな、まずは警察に行け。次は児童相談所の世話になるだろ。ああ、そうだ。アリサ売ろうとして得た俺のカネ全部持ってけ。口止め料と、その……なんだ、餞別だ」

 今までだってアリサのような不幸な子供を荷物として運んだことはあった。けれど、何の因果か彼女のことを知ってしまった。もう商品ではなく、ひとりの人間として見てしまっているのだ。少しくらい情が移ったって文句は言われまい。

「お金なんていいのに。私、カズさんのこと絶対に言わないよ」

「いいから受け取っておけ」

「ねえ、カズさん。変なこと言っていい?」

「なんだよ、改まって」

「私ね、カズさんのこと好き……かも……」

 その突然の告白に俺は少なからず動揺をしてしまった。それを気取られないように、努めて冷静に呼吸を数度繰り返してアリサを見やる。相変わらず目蓋にタオルを乗せていて表情を窺い知ることはできない。

「まったく、何を言い出すかと思えば……阿呆か。ガキのくせに色気づきやがって……」

「ええー、フッちゃうの? 私結構、大人っぽい顔って言われるんだよ? それに、なんだかんだカズさん優しいし」

「馬鹿言え、俺は悪い大人だ。ガキに興味ないってこの前も言っただろうが。――アリサはな今、ストックホルム・シンドロームってやつなんだよ。一度、冷静になってから物事を考えてみるんだな」

「ストック……なに?」

「後で調べてみな」

 緩やかな風が吹き抜ける。それは冬の寒さを太陽の熱で溶かし込んだかのような心地よい風だった。

 愛情がどんな形なら正解だとか、難しいことは俺にはわからない。けれど、今ここで彼女の好意を受け入れてしまうことが間違いだというのは、そんな俺でもわかる。一時の気の迷いだ。いずれ俺のことなんて綺麗さっぱり忘れたほうが彼女にとってマシなのだろうから。


「ねえ、カズさん」

「今度はなんだ」

「……また、会えるかな」

「同じ空の下に生きてんだ。そのうちどこかで会えるかもな」

「生きてたら、か」

「いいか。生きるってのは、許すことと忘れることだ。シンプルだが、これがなかなか難しいんだ」

 少し照れくさくなって俺は開けた窓に頬杖をついて、外を眺める。街は移ろう、人も移ろう。本当はあの父親が何を思っていたのかなんて、誰にもわからない。俺はただ事実の断片を繋ぎ合わせて、アリサにとって都合の良い物語を作り上げただけだ。だから、俺は優しくなんてない。嘘で塗り固めた詐欺師であるほうが丁度良いくらいである。


「せっかくだしさ、スカイツリー見に行こうよ、カズさん。一番高いところで街を眺めてみたい」

 アリサが助手席から飛び起きる。まったく子供ってのは落ち着きがない。俺たちは車を降りて、空をつんざくような恐ろしく高い塔を目指して歩いていく。

 これから彼女がどこに保護されて、どう生きていくのか、それは俺にもわからない。けれど、その目はもう「絶望」を見つめてはいないはずだ。血の繋がりが引き起こした狂おしいまでの愛憎の呪いを越えてきたのだから、これからの世界はもう少し彼女に優しくなるだろう。

 真昼の太陽が栗色の髪を揺らすアリサを照らしている。雨上がりの景色もとっくに元通りで、乾いたアスファルトがどこまでも続くばかりだった。見上げれば空は、いつもそこにあって誰にでも平等に青さを伝えている。


 ――じゃあ、もう少しだけ俺もアリサの付き添いとして一番高いところから、情緒のかけらもないような美しくも醜い空と街の境界線を眺めにいくとするか。



〈了〉

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冷たい雨と花つぼみ 不可逆性FIG @FigmentR

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