雨、ホテルにて

 誰かの気配が動き回っている音で俺は目を覚ました。

 マトモじゃない仕事をしている身としては目覚ましアラームで起きることは少なくても、誰かの生活音で起きることなんていつぶりだろうか……。大きく伸びをして起き上がると窓の外はすでに明るい。ブ厚い雲が灰色の空を形成し、そこからホワイトノイズのような雨が降り続けている。そういえば、予報ではずっと雨だったな。すっきりしない天気にあくびを零すと、ふいにバスルームから水を流す音が聞こえて、両手を拘束されたままのアリサが出てきた。

「あ、カズさんおはよ」

「おう……アリサ、昨日の緊張感はどこ行ったんだよ」

「覚悟ならとっくにしてたよ。なのに、今日が一番よく眠れた気がするんだ。不思議だよね」

「監禁されてる身でか?」

「もしかしてカズさんがガキに興味は無いって言ってたからかな」

「……言ってろ」

 昨日の夜更けは色々と彼女の身の上話を聞いてしまったせいか、余計な感傷を商品に抱きそうになってしまう。俺は一度、頭を冷やすためにアリサと入れ替わるようにバスルームに行きシャワーを浴びることにした。


 その日は何をするでもなく、無為に時間を浪費させていた。荷物は全部没収されていたので何もないアリサの、せめて服だけでも清潔にしてやるかとコインランドリーで洗濯をしていたり、ホテルに併設されているショボい売店で二人分の弁当を買ったりして、雨の止まない日のほとんどを部屋で過ごした。

 そうして時刻は夕方。停滞した部屋で突然、俺のスマホに着信が入る。俺にとっては救世主で、アリサにとっては死神である人物からだった。

『俺だ、伊武だ。まだサツにはパクられてねえようだな』

「ええ、おかげさまで。久しぶりにホテル生活を満喫してますよ」

『そりゃいい、俺もたまには羽を伸ばしたいもんだぜ! ――で、早速だが本題だ。カズに預けていた荷物あるだろ。アレの受け渡しはキャンセルだ』

「え、どうしてです? 伊武さんらしくもない! 時間の問題ならまだ俺が預かって――」

『まあ、最後まで聞けよ。あのガキの親父をウチの若ぇモンが見つけ出してよ。今、事務所で仲良くしてんだわ。まったく面倒かけてくれやがって……そういうわけで手前の借金は手前で精算させることにしたってわけだ。ああ、心配しなくていいぞ。カズの仕事は成功したってことで、このクソ野郎に落とし前としてツケといておいたから後で口座を確認しておいてくれや』

「じゃあ、このガキの処遇は……」

『別にウチの組と関係ない不良どもにやらせたから足がつくことは無え。好きにしな。あーそうそう、もうそのガキは商品じゃねえから、カズの女にでもしたらどうだ? 色々と仕込まれてるらしいじゃねえか、あっはっはっは!』

 そうして電話は切れる。

 その間際に『なあ、お父さんよぉッ!』という伊武さんの怒号と共に何かを蹴っ飛ばしたような鈍い音がスマホを通して俺の鼓膜にベッタリこびり付いてしまった。目を閉じて深く息を吐き、俺は電話の向こうで何が行われているのか、なるべく想像しないようにしてホテルにいる現実に戻ってくる。

「酷い顔してる、大丈夫?」

「ああ、なんでもない。仕事の話をしただけだ」

「そっか……ねえ、カズさん。これから私はどうなるの?」

 ベッドの上で膝を抱えたまま、アリサは虚空を眺めていた。そうか、自分の死刑宣告についての電話だと思うものな。さて、どう伝えるべきか。古典的だが、良い話と悪い話どちらから聞きたいか、というやつである。俺はそれを告げると「良い話から」と続きを促される。

 アリサには今しがた伊武さんから聞いた全てを伝えることにした。良い話の部分は、アリサ自身が商品ではなく普通の人間に戻れたこと。悪い話の部分は、父親がヤクザに捕まってしばらくは会えないだろうこと。さすがに組の事務所で何をされていたかまでは伝えていない。世の中には知らなくていいことは山程ある。――というか、しばらくどころかもう会うことは叶わないだろう。

 あの伊武さんが妙に機嫌が良いときは、逆にブチギレているときなのだから。


「そっか。嬉しいとか、悲しいとか……なんだろう……そういうのどっちも湧き上がってこないかも」

「今は事実として受け止めれば、それでいいさ」

 複雑な胸中なのだろう。自分が助かり、代わりに父親が犠牲になった。俺からすれば、アリサが寸でのところで巻き込まれなかっただけなのだが、この状況ではそうも割り切れまい。

「まあ、そういうことで俺はもうアリサを誘拐する理由もなくなった。今回の件、口止め料を渡しておくから俺のことは忘れてほしい。失くした荷物を買い戻せるくらいの金額は用意するから」

「カズさんはこれからどうするの?」

「さてなあ、念のため家にはまだ帰らねえし、もう少しホテル生活を満喫するかもな」

 アリサを解放したところで、もしかしたらまだ警察は俺の生活圏をうろついてるかもしれないのだ。ならば、ここに留まっていたほうが安全というものである。

「じゃあさ、このこと誰にも言わないからもう一つワガママ言っていい?」

「おっ、さっそく脅しか。いいねえ、狡猾なのは嫌いじゃねえ。で、いくら上乗せすればいいんだ」

「ううん、お金じゃなくて……その、カズさんと遊びに行きたい」

「冗談だろ、誘拐犯と一緒にか?」

「私のこと殴る?」

「暴力は好きじゃない」

「なら、問題ないよ」

 アリサは微笑む、少し寂しそうな表情で。

 すっかり暗くなった窓の向こうには未だ雨が降り続いている。凍えそうな外の世界と暖房の効いた室内との寒暖差で、ガラス窓の隅に結露が溜まっていた。おもむろに彼女は立ち上がり、冷気の忍び込む窓へと足を進め、年相応の細腕でカーテンを引いた。そして、そのカーテンをぎゅっと掴んだまま、俺に背中を向けているアリサはぽつりと言葉を零す。


「どこか遠く……東京に行こうよ」


***


 一晩中、降り止まなかったくせして、次の日には嘘みたいに透き通った青空がどこまでも広がっていた。

 俺とアリサはホテルを出て、ワゴン車に乗り込む。両手足の拘束具は捨てて、対等な人間として少女を乗せるのだ。フロントガラスにはきらきらと淡く光る水滴が付着しており、重く沈んだ夜を越えた雨上がりの朝を彩っていた。

 とりあえず東京に向かってアクセルを踏み、車を走らせていると見えてくる何気ない景色がある。横断歩道を往来する人々の吐く真っ白い呼気。そこかしこに点在する澄み切った青を映す水たまり。濡れたアスファルトに乱反射する銀色がかった冬の太陽。――アリサは何を思うのか、頬杖をつきながら流れゆく街並みをただ眺め続けている。

「なあ、東京に行って何をするんだ?」

「うーん、特に決めてない。東京タワー、池袋サンシャインビル、都庁、スカイツリーくらいしか」

「がっつり決めてんじゃねーか!」

 しかも、全部展望台の付いた施設である。どれだけ高所が好きなんだか。

 俺の突っ込みに彼女が「あはは」と笑う。どこかカラ元気を感じさせる笑い声だったが、性風俗の商品として拉致され、まるで死を望んでいるかのようだった少女が今、未来のことを話している。変化として充分すぎるほどだ。憑きものが落ちた、そんな表現がしっくり来るほどに。


 実際、アリサを中心とした世界はあの父親によって閉ざされていた。立派な虐待にも関わらず、彼女が警察に通報しなかったのは、それでも唯一の家族だということが大きかったのだろう。機能不全の家族が語る愛という名の呪い。その歪な愛を一夜で失ったのだ。彼女の世界はぐちゃぐちゃになりながらも、無慈悲にも大きく開かれてしまったのだから喪失感もしかしたら解放感というのは計り知れないだろう。

「あと、どれくらいで着くの?」

「アホか、まだ出発したばっかだろ」

「そっか、私どこかに遊びに行くの久しぶりだから、ちょっと楽しみなんだあ」

「ここだって東京には行けない距離じゃないだろうに、友達とかと遊びに行けるんじゃないのか?」

「お父さんの代わりに家のこと色々しなくちゃいけなかったから、ね」

 俺は短く「そうか」とだけ呟いて、運転に集中する。今は東京に繋がる幹線道路をひたすら道なりに流しているだけだから、別に集中する必要も無い。これからはそういう年相応の遊びもできるようになるだろう。そう思いながら、アクセルを少し踏み込んでスピードを僅かに上げた。


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