夜、ホテルにて

 ――明日は一日中、雨が降り続きそうです。寒さ対策はしっかりして、暖かい格好でお過ごしください。

 テレビにも飽きて俺はベッドに倒れ伏しながら、深い溜息を吐く。どうにも今日という日は気分が下がることばかりだ。簡単な仕事だと思えば急遽延期になり、その都合で子供のお守りを押し付けられ、挙句の果てに雨予報とは。本当なら今頃は美味い酒でも買って晩酌をしていただろうに、どうして遠く離れたホテルで見知らぬ少女のトイレとシャワーを待っているのだろう。

 なんてことはない彼女が部屋に入らなかったのは急激な寒暖差で尿意を抑えきれなかっただけのようだった。俺は両手の拘束を外し、駆け込んだバスルームに向かってバスタオルを投げ込む。しまった、アメニティに剃刀があったと少し後悔したが、あの様子じゃ今さら抵抗する気もないだろうと、警戒するのも馬鹿らしくなった。頭を掻きながら俺は「疲れたろうから、汗でも流してこい」と閉じられたドアに向かって言葉を言い放って、そして今に至る。

「おまたせ――しました」

「おう、気が利かなくてすまねえな……は?」

 ベッドから起き上がって少女の姿を確認する。もちろん、危惧していた凶器の有無を知りたかっただけだったのだが、何故か少女はバスタオルを華奢な身体に巻いただけの薄ら寒い格好で幼い肌を過度に露出させていた。わけがわからないまま、彼女はおずおずと俺が座るベッドまで近付いてくる。

「お前、服はどうした」

「私、アリサって名前。カズさん、そのお前って言うのやめて……ほしい」

「ああ、すまねえ――って、そうじゃなくて! なんで着てねえんだ!」

「だって、凍えて死ぬか、ホテルで抱かれるか選べって言われたから」

「言ってねえよ! 俺は逃げようとするなって言ったんだ! それに、お前――アリサみたいなガキに興味は無え。そんな肉の付いてねえ身体で何が出来るってんだ……まったく」

 フン、とわざとらしく鼻息を鳴らして着替えるように促す。彼女、アリサは理解しかねるといった表情で首を傾げながら再びバスルームに戻り、クローゼットに入っていたのだろう白いバスローブ姿で部屋に戻ってきた。

 本当に俺が何もしないとわかったのか、いくらか弛緩した空気が部屋を満たしていった。その中でどうして俺の名前を知っているのか尋ねると、車中で伊武さんとハンズフリー通話してるときに漏れ聞こえたらしい。死んだような顔してるクセに抜け目のないヤツだな、と俺は思った。


「カズさん、私これからどうなるの?」

「さあな、俺の知ったことじゃない。まあ……豚どもに愛を振り撒いて与える仕事をすると思っておけばいい」

「それって牧場?」

「ははっ、違いねえ。確かに牧場みたいなもんだろうさ。肉体労働であるのは同じだしな」

もっとも家畜となるのはアリサ自身だけどな、とは言わない。それがたとえ期限付きの幸せだとしても、それすら奪う権利は俺にも無いのである。

 沈黙を埋めるだけのテレビを二人して眺めていたが、夜も更けてきた。起きていることにも億劫になってきて「いい加減寝るか」とあくびをひとつ。窓側のベッドにちょこんと膝を抱えて座っていたアリサも「うん」とだけ返し、そのまま毛布の奥へ潜っていった。

 静寂と風の音だけが鳴っている。テレビと照明を消して、念のためアリサの両手を拘束し、俺もひとときの安息を得ることができた。どうしてこんなことになってしまったのか、考えれば考えるほど眉間にシワが寄ってしまうので、なるべく頭の中を無にする。すると、次に浮かんでくるのが横で大人しくしているアリサのことだった。日本人というには目鼻立ちがハッキリしているし、栗色の髪の毛もきっと自前だろう。彼女はハーフかクオーターなのだろうな、と思い至る。

 ただの暇つぶしだ。そう自分に言い聞かせて、まだ起きているだろうアリサに声をかける。

「なあ、お前さ」

「私、アリサ」

「ちっ、アリサはいくつなんだ?」

「今は十四、今年で十五になる」

 ということは、中学生なのか。まったく、嫌な世の中だ。こんな年端もいかないような子供ですら好事家にとっては喉から手が出るほど欲しい商品だなんて。

「その頬のアザ痛むか? 連れ去られるときに殴られたんだろ」

「ううん、大丈夫。それにあの人たちには殴られてないよ。いきなり車に押し込まれたときはびっくりしたけどね」

「まさか抵抗しなかったのか。なんでまた……」

「大きな男の人たちが一気に、私の手と足と口を縛ったり塞いだりして、動けないまま車が走り出して……このまま私、死ぬのかな、殺されるのかなって考えたら、フッと心が軽くなっちゃったの。変だよね」

「かもな」

 暗闇に溶けていく少女の声。同じ暗闇を見つめながら、きっとアリサは違う暗闇を見つめているのだろう。しかし、それならそれで疑問が残る。頬のアザはいったいどうして青黒くなって存在しているのか、ということだ。

「これはお父さんが殴ったの。たぶん私が悪い子だったから」

「娘に手ぇ上げたのか……借金だけだと思ったが、どこまでもクズ野郎め」

 吐き気を催すような邪悪というのは、案外身近にも息づいている。俺はそんな当たり前の事実を十四歳の少女から聞かされたことに、心底胸クソが悪くなった。まあ、その邪悪に自分も少なからず加担しているクセに胸クソ悪くなるというのも、些か滑稽な冗談ではあるが。

 それから、アリサは眠ってしまうまで聞いてもいないのに身の上話をぽつりぽつりと語り出すのだった。あたかも俺に知ってほしいためではなく、まるで自分を形成している何かを再確認するための作業のように……。


 アリサは父子家庭で、母だった人は東欧出身らしい。ハーフとのことだったが、日本人の血が濃かったのかそこまで欧州風な顔立ちではなく、わずかに目元や髪色などに残る程度だったそうだ。キャバレーだか、パブだかの水商売をしていた女のようで、日本の永住権欲しさに適当な男を捕まえて既成事実作り、出来たガキを残してどこかに蒸発したクズとのことだった。この話は父から聞かされていたので、嘘か真か知るよしもないまま事実として受け入れているらしい。

 一応、クズ親でも幼い頃は父親らしくアリサを真っ当に育てていたらしい。しかし、成長して背が伸びていくに連れてアリサが、その捨てられた女の顔や声や仕草と重なり似通っていくことに苛立ちを隠せなくなって、ある日突然にわけもわからず殴られてそのまま犯されてしまったのだそうだ。――ひとしきり溜め込んでいた怒りや欲望を暴発させたあと、我に返った父親は顔面蒼白になりながら泣いて頭を地面に擦り付けて「愛しているんだ」と何度も零して土下座をした。

 けれど、人間の本性というのは簡単には変わらない。その日から時おり酒が入ると暴力を奮ったり、犯されることも度々あったとのこと。

 アリサの眼に宿った絶望の理由がここにあった。

 次第に父は壊れていき、知らぬ間に多額の借金を作っていた。それを聞かされたのは、下校時に我が家のアパートの前で怖い人たちに囲まれたときだったという。この日から家の外にも中にも安寧は無くなった。いつか私はどうにかされてしまう。そんな覚悟を胸に抱きながら終わらない地獄の日々を過ごす。歪な愛情に飲み込まれた父に組み敷かれながら――。


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