冷たい雨と花つぼみ

不可逆性FIG

車内にて

 その不思議な三日間を俺はよく憶えている。今まで三十年近く生きてきて、こんなに現実感のない思い出は経験したことが無い。間違いなく俺とアリサを中心にした出来事なのに、どうしてかいつもアリサと父親の物語にすり替わってしまうのだ。

 これはどうしようもない人たちが、どうしようもない出来事に巻き込まれ、どうしようもない結末を迎える、そんな話である。


 あまりにも見事な月が夜空に浮かんでいた。

 こんな夜はドビュッシーの「月光」がよく似合う。俺は運転しているワゴン車のスピーカーから清らかで美しく、だけど少しだけ空虚なピアノの旋律を車内に流した。どうしてガラにもなくクラシックなのかといえば、それを聴くことでクソみたいなこの世界がなんとなく許せるような気がするし、何より後部座席に両手足を縛って転がしてある少女という荷物さえも正当化してくれる気がするからだ。


「――じゃあ、報酬はいつもの口座に。ええ、伊武さん大丈夫ですよ。鮮度が命、ですよね」

 ハンズフリーでしていた伊武さんとの電話が切れる。

 彼は俺のクライアントであり、いわゆるヤクザである。とはいっても、俺自身は個人事業主の運送業を営んでいるだけなので、荷物を手配して依頼主に届けるだけだし、その荷物がどういったカネを生むのかまでは興味ないし関与もしない。

「君も災難だね。子供ひとり攫うだけの容易な仕事なのに、そのアザ、顔殴られたんだろ? もっと自分たちの商品なんだから大切に扱ってもらいたいよ、まったく」

「……」

「暴力で生まれるカネには限界があることを早く気付いてほしいよ。――まあ、たぶん君もクソ親がこしらえた借金の返済に当てられたんだろ? 人生ってのは、ままならないよなあ」

「…………」

 単調な夜道を走らせながらバックミラー越しに薄暗い車内を見ると、いつの間にか行儀良く座っている少女と目が合った。とはいっても、相変わらず両手足を縛って猿ぐつわも噛ませている状態なのに器用なものである。それに、混乱して騒いだり暴れたりしないのも楽でいい。

 ああ、やはりだ。こういう抵抗しない子は皆一様に顔が生きていない。その歳で何を経験してきたのか、絶望で瞳が淀んでおり、底無しの闇をひたすらに煮詰めたような気味悪さをその奥に宿している。――確か中学生の子供だったか。いやな世の中だ。これからの未来を背負っていく子が、無駄にカネを余らせている醜悪な豚どもの趣味として秘密裏に飼い殺されていくなんてな。

 まあ、俺は特殊な荷物を運んでいるだけなのだから妙な同情はしない。俺が欲しいのはカネだけだ。そのためなら何だって運ぶさ。ヤクでも、ハジキでも、人間でも。


***


「それにしても伊武さん遅いな……」

 港に面した冬の埠頭は潮風がキツい。今も昔も、裏取引されるにもってこいの場所といえばコンテナが立ち並ぶ埠頭と相場が決まっているのだ。

 もう一時間くらいは待ちぼうけているだろうか、普段ならすでに取引は終わって鼻歌混じりに帰っている頃だろう。先刻までは暖房の効いた車内で待っていたのだが、どうにも無言で拘束されている少女と同じ空間というのは息が詰まって仕方ない。

 気分転換に真夜中の黒い海、人の営みが作り出した煌めく夜景、それと遠くに掛かる見事な吊橋なんかを眺めている俺。未だ暴れる気配のないワゴン車を僅かに確認し、そのタイミングで俺のスマホが小刻みに振動を繰り返した。かじかんだ手で画面を見ると「伊武さん」からの着信だった。

『俺だ、伊武だ。カズお前まだ港にいるか?』

「ええ、ずっと待ってますけど……何かあったんですか」

『ああ、ちょっと面倒なことになってな。とりあえず要件だけ手短に伝える。引き渡しは延期だ。今、カズが連れているガキの沈む風呂屋だが、サツに勘付かれたらしい。まったく、俺らの組がケツモチしてるってのにタレコミされたんだとよ……だから、別のとこが手配できるまでお前でガキを預かってろ』

「ちょっと待ってくださいよ! 一体、どのくらい面倒見なきゃいけないんですか!」

『うるせえな。こっちも色々と立て込んでんだ! 二、三日で連絡するし、今回の報酬に色も付けてやる。それで文句ねえだろ。お前もサツにパクられたくなけりゃ、大人しくしてな。自分の家の周りもうろつくんじゃねえぞ!』

 乱暴に電話が終わる。事態を把握する少しの間、打ち付ける波のさざなみだけが闇夜の輪郭をそっと同じリズムで撫でていた。


 それから俺はいつまでも途方に暮れていられないと、ワゴン車に乗って適当なビジネスホテルまで走り続けることにした。問題は山積みである。まずは差し当たっての問題からだ。

「おい、今日から三日くらいお前の身柄を俺が預かることになった。――で、だ。俺は鬼でも悪魔でもないから選択肢を二つ提示する」

「……」

 無言で頷く彼女。ルームライトを付けて、俺は初めて少女を見た。その姿に思わず息を呑んでしまう。栗色のロングヘア、くっきりとした二重目蓋に大粒の瞳、桜色の薄い唇……幼さの残る顔立ちだったが、それゆえに彼女は美しかった。けれど美しいからこそ目立つ、真新しい頬のアザと絶望を知る寂しい眼に彼女のこれからの境遇を想像しそうになって、俺は無理矢理に思考を切り替える。

「いいか、一文無しのお前が寝られる場所は二箇所だ。エンジンを切った真冬の凍えるワゴン車、それか目の前のホテル。俺の言いたいことはわかるな?」

 これ見よがしにナイフを少女にチラつかせてみる。しかしながら、もちろんハッタリである。ほんの少しでもビビってさえくれればいい。なぜなら俺には目の前の拘束された少女を殺る気など最初から無いのだから。

 少女に己の立場をわからせてから、意思を確認するために猿ぐつわをゆっくり外す。気味が悪いほど従順なのが、気にはなったが面倒事は少ないほうがいい。そして、俺は少女の返答を待った。

「……ホテルがいい」

 その答えを聞き、俺と少女は連れ立ってビジネスホテルの受付を済ませた。俺のモッズコートを羽織らせて袖は通さずに両手は拘束させたまま、家族か親戚かのように装ってスタッフの目をごまかす。世の中ってのは思った以上に他人に興味がない。そのおかげでこうして空調の効いた暖かい部屋まで何も問題なく辿り着けたのだから。

 俺はドカリと清潔なベッドに腰を下ろした。

「はあ、これからどうすっかな……おい、お前もラクにしていいぞ。適当に座れよ」

「あの……」

 少女はソファにも二つあるベッドの片方にも座らずに、部屋の入り口にちょこんと立ち尽くしている。そりゃあ、誘拐犯と同じ空間じゃ緊張もするか。俺は沈黙を掻き消すように興味もないテレビを流して、非日常な空気を薄めていく。「その……」と消えそうな震える声でもう一度、足をもぞもぞさせながら彼女が何かを言おうとしていた。

「ん、どうした?」

「あ、あの…………トイレに!」


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