第18話 努力と、覚悟。

 すごかった。


 椎名先生に渡された鍵。文学部棟八階六号室の資料室。


「おや? 椎名先生の言っていた子だね?」


 室員のおじさんはそう笑った。部屋に入ってすぐ。目に飛び込んでくる光景に、私は圧倒された。


 世にはこんなに、国文学の研究資料があるのか。


 そう、実感させられる光景だった。


 見渡す限りの、本棚、本棚、本棚。

 まるでちょっとした迷路みたいだった。部屋の広さはバレーボールのコートひとつ分くらい。そこに所狭しと本棚が並んでいる。


「近代文学は、そこの小部屋にあるよ」


 室員さんが指差す。椎名先生からもらった鍵は、どうやらその小部屋の鍵らしかった。本棚と本棚の間。まるで非常口のように構えられたドアがある。


 その中も、すごかった。


 覆い被さってくるような、背の高い棚、棚、棚。資料と思しき紙や本がいっぱい詰まっている。


 棚と棚の間に、申し訳程度に机がひとつ、置かれていた。上にはパソコン。モニターもキーボードも厚めの、古い型のノートパソコンだ。


「そのパソコンは検索機と、ワープロを兼ねてるから。欲しい本があったらホーム画面の検索窓叩いて。何か書きたかったら、Word開いて」


 室員さんがそう告げてくる。


「午後七時には一旦閉める。けど、椎名先生は一〇時頃まで研究していることもあるねぇ。最悪、ここの鍵さえ閉めてくれれば、資料室自体はオートロックだから」


「はあ」ようやくそれだけ答える。


「じゃ、しっかり研究して」


 そう、小部屋に残された。

 またしばし、圧倒される。


「落ち目で触れた日々に、嘘偽りはない」


 椎名先生の言葉が蘇る。


「安心して、絶望しなさい」


 絶望。

 私は今、絶望しているのだろうか。

 もうしないと決意していたのに、私は名木橋先生のことを思い出す。あの笑顔。あの声。あの雰囲気。あの姿。


 ……あのまなざし。


 全てが好きだった。愛しい。例えあの人が、どんなことを言おうとも、行おうとも、それこそ乱歩の作品にあるような歪んだ性癖でも、私はそれに応えたい。そう思った。ぎゅっと、自分を抱きしめる。


 私は今、絶望に震えている。

 あの人への想いは叶わない。だから震えている。あの人が私に振り向くことはない。だから絶望している。


 机の上の、パソコンと目が合った。


 画面。検索窓。空欄のそれは、まるで私に、「次はどうする?」と聞いてきているかのようだった。


 落ちるところまで落ちた。後は、上るしかない。


 私は机の前に座った。鞄から卒論の資料を取り出す。ざっと、並べた。そして検索窓に打ち込む。


〈江戸川乱歩〉


 四〇件の資料がヒットした。こんなに? もっと少ないかと思ってた。私は驚きを隠せない。一冊一人の研究者がいると仮定すれば、国内に四〇人の乱歩研究者がいることになる。


 負けてられない。


 私はノートを取り出しペンを握った。検索結果の資料を棚から探し、取り出す。片っ端から目次に目を通した。名木橋先生の言葉が蘇る。


「本は古のデバイスだ」


「……スマホによる情報が取捨選択が必要なのと同じように、本による情報も取捨選択が必要だ」

 最後の方は、口に出していた。


 とにかく、四〇件全ての本の目次に目を通す。必要そうな情報が引っ掛かれば、片っ端からメモに取った。書名、ページ、簡単な内容。


 七月。チェックした本の必要な項目、章、そして論文全てに目を通した。


 八月。簡単なマップを作った。卒論を書くのにどんな情報が必要か。それはどの本や論文を当たれば手に入るか。その情報の卒論の中での重要度はどれくらいか。


 九月。Wordを開いた。卒論の体裁は、既に知っていた。が、今はとにかく書いた。知ってる情報をひたすら打ち出す。文章としておかしくても必死に書いた。


 一〇月。卒論の題目変更期限。もちろん私は変えなかった。と、いうより、変更期限だったことを忘れて研究に打ち込んでいた。この頃は文章としておかしい、思考の破片のような情報を整理して、本当に必要な情報だけに絞っていった。


 一一月。「論文要旨、目次、はじめに、序論、本論、結論、おわりに、参考文献」のフォーマットに情報を落とし込んだ。


 一一月の半ば頃になってようやく私は、この半年間くらい、ずっと私だけが資料室の小部屋を使っていることに疑問を抱いた。椎名先生は、ここを使わなくていいのだろうか。


「私は、特別研究の期間だから」


 一一月の終わり。ゼミの時に椎名先生に小部屋をずっと使ってしまった件、謝った。今更かと思ったが、言わずにはいられなかった。すると、先生は先のようなコメントを返してくれた。


 特別研究、が、大学の枠を超えた大規模な研究であることを知ったのは、卒論提出期限が残り三週間に迫った頃だった。椎名先生にはもう小部屋は必要なかったのだ。


 一二月。卒論提出期限の、二週間前。


 第一稿が完成した。椎名先生に見せる。


「かなりいい」


 そんなコメントをもらった。しかし結論部分で、いくつか指摘を受けた。体裁の問題が二点。そして、書いている内容について一点。


「この『結論』と『おわりに』では、君が見えてこない」


 椎名先生はそう告げた。


「これじゃ人工知能に作らせた論文みたいだ。もっと、君の為人を感じさせて欲しい」


 為人。それは、私自身を研究に反映させろ、ということだった。


 これには悩んだ。私自身を反映させる。それにはどうすればいい? しかし、悩んでいる内にも時間は過ぎた。


 そして、卒論の提出期限が来た。


 一二月一六日。


 私は卒論を提出した。しかし、これで終わりではない。最後の口頭審問が、一月の一〇日にある。


 とは言え、一度提出してしまえば、肩の荷は降りる。


 卒論の提出後、私はマフラーに顔を埋めながら、里見と一緒に歩いていた。お疲れ様会をやろうという話になったのだ。何ヶ月振りかに街へ出歩くことになる。


 街へ行くため、大学構内を歩いて、モノレール駅へと向かった。里見と並ぶ。その時ふと、思った。


「ねぇ、卒論、テーマ決めた?」


 思えば里見のあの一言から始まったのだ。私の、卒論との戦いは。ふと、自分の髪の毛先を見る。このところ美容院にも行っていなかったから、真っ黒でバサバサだった。


 懐かしいな。私はこの黒髪を見て、青春が終わったと嘆いてたっけ。


 本当は、それは新たな青春の始まりだったのに。ふと、そんなことを思う。


 卒論を提出した今、私の青春は、終わるのだろうか。


 ……終わらない。

 本能がそう告げた。

 ……終わらない。終わってない。お前はまだ、やり残したことがある。


「里見、ごめん」


 私は立ち止まった。


「先行ってて」

「え? うん。分かった」


 多分、私の気配を察してくれたのだろう。里見は何も訊かずに歩いていった。


 里見が去ってから、私はスマホを取り出す。


 午後六時。あの人はまだ、大学にいるのだろうか。


〈見てくれませんか?〉


 悩んだ末、件名はそうした。続けて文章を打つ。


〈本日、卒論を提出しました。ですがまだ、口頭審問があります。私の発表を、見てくれませんか? 名木橋先生〉


 送信。


 すると、そのタイミングでだった。


 雪が降り始めた。

 大粒で、美しいそれは、空からふわりふわりと、まるで大切なものを包むかのように降ってきた。私は空を見上げた。見ようによってはそれは、夜空という漆黒の泉から、魂が湧き上がっているかのようだった。


 と、その時、私のスマホが震えた。


〈大学にいる。心理学部棟、二〇三号室〉


 よかった。大学にいる。

 掌に雪の粒が落ちてきたことを確認すると、私は大学に引き返した。

 雪はしんしん降っていた。

 

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