第17話 呼び出しと、激励。

 四月。


 無事に四年生になれた。

 去る三月に私たちの上の代は卒業していった。私は、卒論のテーマ決めでお世話になった先輩たちにお礼を言いたくて、卒業式に顔を出した。


「乱歩でしょ? すごいと思う。それに心理学を交えるっていう着眼点もいい」

 千住先輩。艶やかな紫色の振袖を着ていた。


「粟島さんに反論した学生なんて君くらいのものなんじゃないかな」

 皆川先輩。きりっとしたスーツ姿。何だかもう、デキるエリートサラリーマン、って感じだ。


「よかった。いやぁ、よかった」

 何がよかったのかは最後まで分からなかった土橋先輩。しっかりおっぱいは見られた。くそ。


 先輩たちが去っていくのは寂しくもあったが、同時に後輩ができるシーズンでもあるので、そういう意味では穴は埋まった。


 新しく椎名ゼミに配属になった三年生たちは、男子が多く、早速私たち四年女子は物色した。誰なら彼氏にできる? とか、弟にするなら誰? とか。


 けれど私は、そんな話題に表面上は乗っかりながらも、心はやはり、どこか空虚だった。男はもういいかな、そんな気持ちだった。


 四年生になると、いよいよ卒論も本格化する……というよりは、それ以外にやることがなくなる(人が多い)。


 皆真面目に自分の研究に取り組んだ。ある人は、古い文献を求めて国立国会図書館へ。ある人は、研究対象の作家の文章を分析をするために研究室のパソコンへ。それぞれの情熱をぶつけた。


 五月。

 里見の就職先が決まった。大手の出版社だ。雑誌編集者として採用されたらしい。雑誌の編集者、もといマスコミ系の仕事は、就活をしていた時に私も視野に入れていた業界だったので、里見と祝杯を挙げるために街中に出た。


「いやぁ、大変だったわぁ」

 乾杯のビール。里見は唸った。

「私最終面接ではウケいいんだけどさぁ。そこに至るまでが苦手で……」

「分かる。里見オジサマウケしそう」

「そうなの」

 焼き鳥を頬張る里見。

「もうさ、ある企業じゃ第一面接でセクハラされて。大変だった」

「セクハラって、何されたの」

「脚触られた」


 脚。

 脚の皮膚感覚を担当する脳領域は性器の皮膚感覚を担当する脳領域と近い。

 そんなことを、思い出す。


「あのジジイ、訴えてやればよかったかな」

「大変だったね」

 私も、焼き鳥を頬張る。


「そういやあんた、勉強はどうなの」

「順調」


 嘘はなかった。やっぱり私は、「勉強」は得意なのだ。大学院入試の試験に出てくる単語の勉強や、知っておくべき知識の習得に、私は何の問題も抱えていなかった。


 大学院入試では、進学後の研究テーマについて面接試験も行われるのだが、その準備も順調だった。


 私は、院に進んでも乱歩を研究する決意を、固めていた。


 理由のひとつに、ミステリー文学を研究する国文学系の人間は、かなり少ないということが挙げられた。競争相手が少ないのだ。


「院に進んでも乱歩やるんでしょー。具体的には何やるのさ」

 里見がビールをぐいぐい飲みながら訊ねてくる。

 私は、人目を憚りながら答えた。

「BL」

「びーえるぅ?」


 せっかく私が小声で言ったのに、里見は店中に響き渡りそうな大声でそれを口にした。それってボーイズ・ラブのこと? 里見がにやりと笑う。


「そうだよ。乱歩は男色家だったの」

 澄まして答える。けれど、実はこの頃、普通の恋愛ができなくなって、同性愛に走り始めた、なんてことは言えな……。

「あんた、失恋のショックがでかすぎて同性愛に走ったんでしょ」

 バレてた。


「じゃあ、百合は? いわゆるレズ。私とどお?」

 そういや、里見が誰かと付き合った、という話を、聞いたことがない。

 冷や汗が出る。


「冗談だよ。私彼氏いるし」

「え、嘘」

 衝撃の新事実。

「ホントだよ。四月から」


 四月から、ということは……。


「あんた、後輩に手を出したな?」

「向こうから告ってきたんだし」

 あーあ。里見が天井を見上げる。

「まさか大学入って初めての彼氏が今頃できるとは」

 どうやら、単純に今まで恋に発展することがなかった、というだけのことらしい。


「就活の時も支えてくれてさ。できればこのまま結婚、って思ってる」

「えー。いいなぁ。そんなに好きなの?」

 うん。里見が頷く。

「世界があんな人で溢れたらいいのに、と思える人」

「ひゅー」惚気るねぇ。


「何かさ、生殖本能なのかな。最近、子供欲しいなって」

「これからバリバリ働かなきゃいけない人が何言ってるんだ」

 と、言ってはみたものの、気持ちは分かった。

 初めて名木橋先生に会った時のあの感情。

 あれを生殖本能と言わず、何と言おう。


 ……駄目だ。事あるごとに思い出す。


 私は頭を抱えた。もちろん、里見にはバレないように、一人そっと。あれからもう、三カ月も経とうとしているのに、頭の中は名木橋先生でいっぱいだった。


 忘れるために酒を飲んだ。里見もストレスが溜まっていたのだろう。その日は二人、べろべろになるまで飲んだ。


「この世は女に向いてない!」

 帰り道。里見が叫んだ。

「そうだそうだ!」

 私も乗っかる。

「生殖適齢期と仕事の適齢期がずれてるなんておかしい!」

「そうだそうだ!」

 そうだそうだ、と言っている内に、家についていた。帰り道の記憶がない。けれど名木橋先生の記憶は、相変わらずあった。


 多分、自室。

 ベッドの上。暗闇の中、自分を抱く。

 柔らかい感触。でも、私が求めているのは……。



「ちょっと、いいかね」


 六月。梅雨の鬱陶しい雨が降る中、私は椎名先生に突然呼ばれた。


「勉強は順調かね」

 はい。私はしっかり答えた。事実、もう過去問を解くフェーズに入っていたのだが、成績は良好。後は受験本番のストレスに耐えられるか、後何回過去問を解けるか、というところまで来ていた。


「進学後も私の研究室に、と思っているそうだね」

 はい。これにもしっかり答えた。私は今通っている大学と同じ大学の院に行くことを考えていて、進学後もできれば椎名研究室に、と思っていた。


 理由は二つ。


 ひとつは、椎名研究室の自由なスタイル。椎名先生自体は近代文学の専門なのに、研究室の院生は現代文学を勝手に研究していることからもそれがうかがえる。私は、未だマイノリティであるミステリー文学の研究を、自由な風の吹く椎名研究室で行いたいと考えていた。


 二つ目は、椎名先生が近代文学の専門家であったこと。

 乱歩は近代の作家だ。椎名先生はさすがにミステリーは専門ではないとは言え、近代文学の研究方法には詳しい。きっと、乱歩の研究で躓くことがあっても、先生がいれば何とかなる。そう思えたから椎名研究室を選んだ。


 以上の理由をかいつまんで、椎名先生に話した。先生はうんうん、と話を聞いてくれた。


 不意に痛いところを突かれたのは、その時のことだった。


「卒論は、どうかね」


 私は一瞬、返す言葉に困った。

 というのも、卒論の方は最近、遅々として進んでいなかったからだ。


 理由は色々あった。でも、無理矢理一つにまとめるとすれば、それは多分、名木橋先生のことを思い出すのを、無意識的に封じ込めようとしている自分がいるから、と言えるだろう。


 卒論について、江戸川乱歩とまなざしについて考える時、私は自分でも知らない内に、自分の顔を覆っていることに気づいた。


 それは、『まなざしの心理学』で言うところの、「外界を遮断する姿勢」だった。


 けれど、そんなことを椎名先生に相談する訳にもいかない。


「やってます」


 私は事実を答えた。実際、進んではいないもののやってはいたのだ。机の前で、顔を覆うだけ、という作業になってはいても。


「そうか。それはよかった」

 すると先生は、ポケットからひとつの鍵を取り出した。


「これは、職員用の研究室の中でも、特に私がよく使う資料室の鍵なんだがね」

 文学部棟八階、六号室にある。室員さんにも君の話はしてある。先生はそう続けると私の顔を見つめてきた。


「乱歩の資料も、確かあったと思う。使うといい。きっと参考になる」

 と、掌に鍵を置かれる。

 それって、もしかして……。私は言葉に詰まる。

「あ、あの……」と、何とか言葉を紡いだ頃になって、椎名先生が口を開いた。


「私は、嬉しくてね」

 にっこりと、おじいちゃん先生は微笑んだ。


「私は、君たちの代には、文学の魅力を伝えきれていないんじゃないかと、一人猛省しておったんだ。実際、君が出てくるまで、君の代で進学したいという人は一人もいなかったね。けど、君がいた。君は土壇場ではあったものの、院に行って、しかも私の下で研究がしたいと言ってくれた。後発の人間が、熱心に学問に取り組んでくれる。しかも自分の下で。学者として、これ以上嬉しいことはない。君は今、何かに悩んでいるように見受けられるが……」


 自分の心を見透かされたようで、私は鍵を持った手をそっと自分の胸元に寄せた。


 しかし先生は、笑って続けた。

「大丈夫。君なら大丈夫。きっと、乗り越えられる。だから安心して、いっぱい、精一杯、悩みなさい。時に絶望もしなさい。落ち目で触れた日々に、嘘偽りはない。だから安心して、絶望しなさい」


 不思議な言葉だった。悩んでいる人に絶望しなさいだなんて、普通言わない。

 けれど、強い言葉だった。まるで折れた茎に添え木をされるかのように、私の心は一瞬、強く立ち上がった。


 その様子を察知したのだろうか。先生は頷いた。


「よい研究を」


 先生は去っていった。もう腰も曲がって、身長も私より小さいようなおじいちゃんだったが、その背中がすごく広く、大きく感じられた。

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